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第4話 助けられるだけではなく

朝の修道院は、いつも人の声から始まる。


 祈りの言葉。

 幼い子どもたちの足音。

 鍋の中で粥が煮える音。

 誰かが泣いて、誰かがそれを宥める声。


 リーベルの街外れにあるその修道院は、祈るためだけの場所ではなかった。


 傷を診る場所でもあり、行き場のない子どもが眠る場所でもあり、困った者が最後に戸を叩く場所でもあった。


 孤児は七、八人ほど。

 大きな場所ではない。

 けれど、ひとりで背負うには、十分すぎるほど重い。


 その朝も、ソフィアは井戸端で水を汲み、厨房を覗き、熱を出した子どもの額に手を当て、それからようやく玄関口へ向かった。


 戸口には、中野洸太が立っていた。


 三ヵ月前、この世界に突然現れた男。

 文字も読めず、通貨も知らず、常識も知らず、それでも今ではアーベル商会で働いている男。


 洸太は、いつものように少し申し訳なさそうに頭を下げた。


「行ってきます、ソフィアさん」


「はい。いってらっしゃい、洸太さん」


「夕方には戻ります。今日は商会の裏倉庫の整理があるので、少し遅くなるかもしれません」


「分かりました。でも、無理はしないでくださいね」


「大丈夫です。普通です」


 その言葉に、ソフィアは小さく息を止めた。


 普通です。


 洸太は、よくそう言う。


 疲れていても。

 怪我が残っていても。

 夜遅くまで文字の復習をしていても。

 剣の稽古でルークに何度も転がされた翌朝でも。


 大丈夫です。

 普通です。


 そう言って、商会へ向かう。


 ソフィアは、その背中を見送った。


 何度見ても、少し不思議な背中だった。


 大きくもない。

 鍛え上げられているわけでもない。

 この世界の男たちのように剣を帯びているわけでもない。


 けれど、どこか休み方を知らない背中だった。


 働きに行くと決まった時だけ、洸太は少し安心した顔をする。


 自分の食い扶持くらいは、自分で稼ぎます。


 そう言った洸太を、ソフィアは止められなかった。


 この修道院に余裕がないことを、ソフィアは誰よりも知っている。


 布施箱の中の小銭。

 近所の農家が分けてくれる形の悪い野菜。

 アーベル商会が少し安く回してくれる塩や油。

 ルークとミーナが何でも屋の仕事で持ち帰る報酬。

 時々手伝いに来てくれる人たちの善意。


 どれもありがたい。

 けれど、どれも十分ではない。


 人の善意で今日を繋いでいる。


 だから、洸太が働きたいと言うことを、ソフィアは否定できなかった。


 けれど。


 働けると分かった時の洸太の顔を見るたび、ソフィアの胸には小さな棘が残った。


 食い扶持を稼ぎたい。

 それは正しい。


 けれど、洸太はそれだけではないように見えた。


 働いているから、ここにいていい。

 役に立てるから、ここにいていい。


 そんなふうに、自分に言い聞かせているように見えた。


 ソフィアは、その顔を知っている気がした。


 何かを守っていないと、立っていられない人の顔。

 誰かの役に立っていないと、自分を許せない人の顔。


 そして、それはたぶん、ソフィア自身もよく知っている顔だった。


 十四歳の時、ソフィアは両親を亡くした。


 その時のことを、今でもはっきり思い出せるわけではない。


 悲しみはあった。

 涙もあった。

 けれど、悲しみよりも先に、服の裾を握る小さな手があった。


 ミーナは、まだ七歳になったばかりだった。


 泣きじゃくる妹の手が、自分の服を離さなかった。


 この子はどうなるのだろう。


 そう思った瞬間、ソフィアは泣けなくなった。


 私が守らないと。


 それは、立派な決意ではなかった。

 息をするために空気を吸うような、もっと切実なものだった。


 姉妹は、街外れの修道院に引き取られた。


 そこに、ミーナと同じ年頃の少年がいた。


 ルークだった。


 最初のルークは、ほとんど笑わなかった。


 人の輪に入るでもなく、完全に離れるでもなく、ただそこにいた。

 声をかけられても短く答えるだけで、何を考えているのか分かりにくい子だった。


 けれどミーナは、そんなルークの横に平気で座った。


「ルーク!」


「……なんだよ」


「いっしょに食べよ!」


「やだ」


「じゃあ、となりで食べる!」


 拒まれても、隣に行く。

 返事がなくても、話しかける。

 怒って、笑って、また手を引く。


 ミーナはきっと、何も難しいことは考えていなかった。


 お姉ちゃん大好き。

 ルーク大好き。


 きっと、それくらいだったのだと思う。


 けれど、その無邪気さで、ミーナはルークを少しずつ変えていった。


 ある日、ミーナに手を引かれたルークが、ほんの少しだけ笑った。


 それを見た時、ソフィアは胸の奥で小さく苦笑した。


 守るものが、また増えてしまった。


 それから歳月が過ぎた。


 先代の修道士が亡くなったのは、四年前のことだった。


 老衰だった。

 静かな死だった。

 けれど、残されたものは静かではなかった。


 子どもたちがいた。

 怪我人が来た。

 祈る場所があった。

 帰る家があった。


 閉じるという選択肢など、最初からなかった。


 その日、ソフィアの守るものは、また増えた。


 修道院そのものを、守らなければならなくなった。


 だからソフィアは、今ここにいる。


 大丈夫です、と言いながら。


 普通です、と言いながら。


 洸太の背中を見送ったあと、ソフィアはふと厨房の方を見た。


 そこでは、時々手伝いに来てくれる人が、幼い子どもに粥を食べさせていた。


「すみません、いつも」


 ソフィアが声をかけると、その人は笑って手を振った。


「いいんだよ。こういう時くらいしか役に立てないからね」


 慣れた手つきだった。

 子どもの口元を拭い、椀を傾け、熱すぎないように息を吹きかける。


 そうやって、修道院は今日も誰かの善意で回っていた。


 ソフィアは小さく頭を下げ、それからまた仕事へ戻った。


   *


 夕方の修道院の庭に、木剣の打ち合う音が響いた。


 乾いた音が一度。


 それから、鈍い音。


 洸太が地面に転がった。


「ぐっ……」


「終わり」


 ルークは木剣を肩に担ぎ、見下ろすように言った。


「いや、もう一本」


「やだよ」


「そこをなんとか」


「なんともならねえよ。おっさん、今日だけで何回転がったと思ってんだ」


 洸太は地面に片手をつき、少し笑った。


「数えてない」


「数えろ。だから駄目なんだよ」


 ルークは呆れたように息を吐いた。


 洸太は弱い。


 少なくとも剣では、ルークの相手にならない。


 足運びは遅い。

 間合いの感覚も甘い。

 打ち込んだ後の戻りも遅い。


 子どもの頃に剣を習ったことがあるらしく、前に出る感覚だけは少しある。

 だが、それはこの世界の実戦剣術とは違う。


 何度も隙ができる。

 何度も転がる。

 何度も痛そうに顔をしかめる。


 それでも、翌日には少し直してくる。


 昨日言われたことを覚えている。

 転がされた理由を考えてくる。

 できないなりに、修正してくる。


 だから余計に厄介だった。


「おっさん、弱いくせにしぶといんだよ」


「褒めてる?」


「半分な」


「もう半分は?」


「心配してる」


 洸太は少しだけ目を丸くした。


 ルークはその顔を見て、舌打ちした。


「なんだよ」


「いや。ルークに心配されるとは」


「されるだろ。普通に」


「普通か」


「普通だよ。転がされてんのに、もう一本とか言う奴は心配されんだよ」


 洸太は困ったように笑った。


 その顔を見ると、ルークは少しだけ言葉に詰まる。


 洸太は、ルークにとって恩人だった。


 森で、ミーナを助けた。

 ルーク自身も助けられた。


 あの時、洸太はソフィア姉のことなど知らなかった。

 修道院のことも知らなかった。

 見返りなど、あるはずもなかった。


 だからルークは、洸太を他の男たちと同じ場所には置けなかった。


 ソフィア姉に近づく男は、たいてい信用しない。


 綺麗だの、優しいだの、清らかだの。

 そういう言葉でソフィア姉を分かった気になっている男を見ると、腹が立った。


 ソフィア姉は、綺麗なだけの人じゃない。

 優しいだけの人じゃない。


 ミーナを守ってきた人だ。

 修道院を背負ってきた人だ。

 泣きたい時に泣かず、疲れている時に笑うことを覚えてしまった人だ。


 それを知らない男に、ソフィア姉を語られたくなかった。


 だが、洸太は違う。


 あの男は、ソフィア姉に近づくためにミーナを助けたわけではない。

 誰かに褒められるために、ルークの前に立ったわけでもない。


 ただ、助けた。


 だから、ルークは洸太を雑に扱えない。


 恩人だから甘やかす、という意味ではない。

 恩人だから、手を抜かない。

 恩人だから、死なないように鍛える。


 そう思っている。


 ただ、それでも洸太は危うい。


 ルークは七歳の頃から剣を振ってきた。


 理由は単純だった。


 ミーナとソフィア姉を守りたかったからだ。


 ルークには、それまで何もなかった。


 何になりたいかも、何が欲しいかも、よく分からなかった。

 明日が今日と違う理由も、特になかった。


 けれどミーナがいた。


 勝手に隣に座り、勝手に話しかけ、勝手に笑う。

 泣いても怒っても、最後には人の手を引いて走り出す。


 ミーナは太陽みたいだった。


 そしてソフィア姉がいた。


 静かで、優しくて、夜道を照らす月みたいな人だった。

 眩しくはない。

 けれど、暗い場所にいる者ほど、その光に救われる。


 ルークは、その二つの光を壊されたくなかった。


 だから剣を振った。


 七歳から。

 十六で何でも屋の仕事を始めてからも。

 二十になった今も。


 ソフィア姉とミーナのためなら、自分の命くらい捨てられる。


 それは比喩ではない。

 たぶん、刃が来れば前に出る。

 牙が来れば盾になる。

 二人のどちらかが危なければ、考える前に身体が動く。


 だが、それは二人だからだ。


 ルークには、自分の命をどこに置くかが決まっている。


 だからこそ、洸太が分からない。


 洸太は、何を守っているのか。


 ミーナでもない。

 ソフィア姉でもない。

 修道院でもない。

 商会でもない。


 いや、たぶん違う。


 目の前にいる誰か全部なのだ。


 だから危ない。


 困っていたから。

 泣いていたから。

 助けられそうだったから。


 それだけで、あの男は自分の命を差し出そうとする。


 ルークには、それが怖かった。


 強いから怖いのではない。

 弱いくせに、それをやるから怖い。


 自分の命の値段を、最初から勘定に入れていないように見えるから怖い。


「今日は終わりだ」


 ルークは木剣を下ろした。


「でも、あと少し」


「終わりだって言ってんだろ」


 ルークの声が少し低くなった。


 洸太は何か言いかけて、それから黙った。


「……分かった。ありがとう、ルーク」


「礼はいい。明日、今日言ったこと忘れてたら蹴る」


「厳しいな」


「当たり前だろ。おっさん、弱いんだから」


 洸太は苦笑した。


 ルークはその顔を見て、ふと思う。


 こいつなら、もしかするとソフィア姉をちゃんと見られるのかもしれない。


 ソフィア姉だけを見ない。

 ミーナを見る。

 修道院を見る。

 商会の人間を見る。

 街の老人を見る。


 それなのに、本人はまるで気づいていない。


 ソフィア姉が気遣っても、ただ礼を言う。

 柔らかい表情を向けられても、親切として受け取る。

 自分が誰かに選ばれるとは、たぶん欠片も思っていない。


 駄目だこいつ、とルークは思った。


 恩人でなければ、一発蹴っている。


   *


 夜。


 修道院の食堂の隅で、ミーナは洸太に文字を教えていた。


 机の上には、使い古された木板と、練習用の紙が置かれている。


 洸太は真剣な顔で、ミーナの書いた文字を見つめていた。


「ミーナ先生、ここは?」


「先生じゃないってば」


「でも、俺にとっては先生だから」


「……そういうの、ずるい」


 ミーナは少し頬を膨らませ、それから文字を指でなぞった。


「これは薬草の名前。こっちは乾燥済みって意味。商会の荷札だと、こっちの略字も使うよ」


「略字まであるのか……」


「あるよ。アーベル商会の人は特に早く書くから、慣れないと読みにくいと思う」


「助かる。ミーナ先生がいなかったら詰んでた」


「だから先生じゃないってば」


 そう言いながら、ミーナは少しだけ笑った。


 洸太は、本気で教わる。


 子ども扱いしない。

 分からないところは分からないと言う。

 できたらちゃんと礼を言う。


 ミーナは、それが少し不思議だった。


 自分は、ずっと守られてきた。


 ソフィアお姉ちゃんに守られてきた。

 ルークに守られてきた。

 修道院に守られてきた。


 そして、森では洸太に助けられた。


 そのことを、ミーナはちゃんと分かっている。


 もう子どもではない。

 二十歳だ。

 ルークと一緒に何でも屋の仕事もしている。

 薬草採取も、荷運びも、街道の確認も、時には護衛の真似事もする。


 魔法も使える。


 ただし、まだ足りない。


 この世界で魔法は、剣よりも時間がかかる。


 火を出すことはできる。

 軽い傷なら治すこともできる。

 けれど、魔物を一撃で倒すような攻撃魔法は、ミーナにはまだ遠い。

 回復魔法も、ソフィアお姉ちゃんのようにはできない。


 自分にできることはある。

 でも、足りないことの方が多い。


 それをミーナは知っている。


 だからずっと思っていた。


 いつか、ソフィアお姉ちゃんを守りたい。

 いつか、ルークを守りたい。

 守られるだけではなく、自分も二人の役に立ちたい。


 けれど、どうすればいいのか分からなかった。


 ルークのように剣で前に立つことはできない。

 ソフィアお姉ちゃんのように、たくさんの人を癒すこともできない。


 そんな時、洸太が文字を教えてほしいと言った。


 ミーナに。


 自分に。


 最初は、冗談かと思った。


 けれど洸太は本気だった。


 ミーナが教えれば覚える。

 分からないところを聞く。

 間違えれば悔しそうにする。

 読めるようになれば、少し嬉しそうに笑う。


 そのたびに、ミーナの胸の奥が温かくなった。


 自分にも、誰かの役に立てることがある。


 それは、小さなことかもしれない。


 文字を教えるだけ。

 荷札を読むだけ。

 薬草の名前を教えるだけ。


 でも洸太は、それを本気で必要としてくれる。


「ここ、もう一回いい?」


「うん。ここはね――」


 ミーナは指で文字を示しながら、ふと洸太の横顔を見た。


 洸太は、助けてくれた人だ。


 森で、何の得もないのに飛び込んできた人。

 ルークとミーナを助けた人。

 それを大したことではないと言ってしまう人。


 ミーナは思う。


 洸太なら、きっと走る。


 誰かが怖い思いをしていたら。

 誰かが助けてほしいと思っていたら。

 自分のことを考える前に、きっと走る。


 ルークなら、きっと前に立つ。

 ソフィアお姉ちゃんなら、きっと手を伸ばす。


 なら、自分は。


 ミーナは、そこまで考えて、慌てて首を振った。


「ミーナ先生?」


「先生じゃないってば。あと、今のところ間違ってる」


「え、どこ?」


「ここ。線が一本多い」


「本当だ……」


 洸太が真剣に紙へ向き直る。


 ミーナは小さく息を吐き、もう一度文字を教え始めた。


   *


 夜が更ける頃、食堂には静けさが戻っていた。


 小さな子どもたちは眠り、手伝ってくれる人達も帰った。

 ルークは壁際で腕を組み、ソフィアは灯りの芯を少し落とした。


 机の前では、洸太が文字の復習をしていた。


 仕事をして、剣の稽古をして、文字を習って。

 それでもまだ、紙に向かっている。


「洸太さん、今日はもう休まれては?」


 ソフィアが声をかけると、洸太は顔を上げた。


「あと少しだけ」


「その少しだけが長いんです」


「大丈夫です。普通です」


 その言葉に、三人がそれぞれ違う顔をした。


 ソフィアは心配そうに眉を寄せた。

 ルークは呆れたように目を細めた。

 ミーナは尊敬と不安が混ざった顔で洸太を見た。


 同じ洸太を見ている。


 けれど、三人が見ているものは違っていた。


 ソフィアは、何もしていない自分を許せない人を見ていた。


 ルークは、命の置き場所をまだ持っていない人を見ていた。


 ミーナは、助ける側へ続く背中を見ていた。


 やがて、洸太の手が止まった。


 紙の上に置かれた指が動かなくなる。

 何かを読み返そうとしていた目が、ゆっくり閉じていく。


「寝た」


 ルークが小声で言った。


「だから休めって言ったのに」


 ミーナは立ち上がり、棚から毛布を持ってきた。


 そして、そっと洸太の肩にかける。


 洸太は少しだけ身じろぎしたが、起きなかった。


 ソフィアは灯りをさらに落とした。


 眠っている洸太の顔は、昼間よりも少しだけ幼く見えた。


 ソフィアは、その顔を見ながら思う。


 この人は、助けることに慣れすぎている。


 役に立つことに、慣れすぎている。


 そしてたぶん、何もしていない自分を許せない。


 まだ、それを何と呼べばいいのか、ソフィアには分からなかった。


 その隣で、ミーナは毛布の端を直していた。


 助けられるだけではなく、助けたい。


 ソフィアお姉ちゃんのように、手を伸ばせる人に。

 ルークのように、前に立てる人に。

 洸太のように、走り出せる人に。


 胸の奥に生まれたその願いが、いつか自分の足を危険の中へ踏み出させることを、ミーナはまだ知らなかった。

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