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幕間 卑怯者

 中野洸太の葬儀は、町外れにある小さな葬儀場で行われた。


 大きな会場ではない。


 参列者の数に対して広すぎることもなく、かといって寂しさだけが目立つほど狭くもない。白い花に囲まれた祭壇の中央に、洸太の遺影が置かれている。


 写真の中の洸太は、少しだけ困ったように笑っていた。


 生前の彼を知る者なら、何度か見たことのある顔だった。


 礼を言われた時。

 何かを褒められた時。

 余計なことをするなと怒られた時。


 洸太はいつも、そんな顔をした。


 まるで、自分がそこまで大したことをしたとは思っていないような顔だった。


 祭壇の前には、二十余名ほどの人間が並んでいた。


 血縁者は、ほとんどいない。


 中野洸太という男は、天涯孤独に近い人間だった。親しい親族の名を、会社の人間でさえほとんど聞いたことがなかった。


 けれど、参列者がいないわけではなかった。


 会社の後輩。

 かつて同じ部署で働いた者。

 学生時代の友人。

 ニュースで名前を見て、慌てて駆けつけた者。


 彼らは皆、葬儀場の椅子に腰を下ろし、黙って遺影を見ていた。


 誰かが大声で泣くことはない。


 ただ、空気だけが重かった。


 前列の端に、高野がいた。


 顔色は悪い。目の下には濃い隈があり、両手は膝の上で固く握られている。


 その隣には、彼の恋人が座っていた。


 手首にはまだ包帯が巻かれている。洸太が間に入らなければ、その刃がどこに届いていたのか、本人が一番よく分かっていた。


 彼女は遺影をまっすぐ見ることができなかった。


 何度か顔を上げようとして、そのたびに視線が落ちる。


 胸元で握りしめた包帯の残る手が、小さく震えていた。


 会社の若手たちもいた。


 普段なら、葬儀場の空気に耐えきれず、誰かが小さく冗談のひとつでも漏らしていたかもしれない。


 だが、その日は誰も口を開かなかった。


 彼らの中には、洸太に仕事を教わった者もいた。

 失敗を黙って拾われた者もいた。

 客先で詰まりかけた時、横から助け舟を出された者もいた。


 そのひとつひとつは、わざわざ語るほどの美談ではない。


 洸太自身も、きっと覚えていない。


 だが、助けられた側は、そう簡単には忘れられない。


 式は静かに進んだ。


 焼香が終わり、僧侶の読経が終わり、やがて葬儀の終盤に差しかかった。


 喪主として前に立ったのは、柿崎だった。


 柿崎修一。


 洸太の同期入社であり、現在は部長職にある男である。


 社内では、鬼の柿崎部長と呼ばれていた。


 厳しい。

 早い。

 容赦がない。

 仕事のできない者にも、言い訳をする者にも、遠慮なく言葉を叩きつける。


 そういう男だった。


 対して洸太は、仏の仲野係長と呼ばれていた。


 叱らないわけではない。

 怒らないわけでもない。


 ただ、最後には面倒を見てしまう。


 誰かが取りこぼした仕事を拾い、誰かが詰まった現場に顔を出し、誰かが怒られる前に資料を整える。


 そんな男だった。


 鬼と仏。


 同期入社の二人に、誰が最初にそんな呼び名をつけたのかは分からない。


 ただ、社内では妙に定着していた。


 その鬼の柿崎が、今は喪主として祭壇の前に立っている。


 背筋は伸びていた。

 黒い喪服に乱れはない。

 手には、用意された挨拶文が握られている。


 柿崎は一度、深く頭を下げた。


「本日はご多用の中、故・中野洸太の葬儀にご会葬いただき、誠にありがとうございました」


 声は、よく通った。


 普段の会議で聞く声より少し低く、それでもはっきりとしていた。


「生前、皆様から賜りましたご厚情に、故人に代わりまして、厚く御礼申し上げます」


 定型の言葉だった。


 喪主として、間違いのない言葉。

 この場にふさわしい言葉。

 誰に聞かれても、失礼のない言葉。


 柿崎は紙面に目を落とし、続けようとした。


 けれど、そこで一度、言葉が止まった。


 ほんの短い間だった。


 参列者の何人かが、わずかに顔を上げる。


 柿崎は、手元の紙を見ていた。


 そこには、整った文章が並んでいる。


 故人は誠実な人柄であり。

 多くの方に支えられ。

 皆様のご厚情に感謝し。

 残された者として。


 どれも間違ってはいなかった。


 間違ってはいない。


 だが、それだけでは足りなかった。


 柿崎は、ゆっくりと紙を折りたたんだ。


 丁寧に、二つに。


 それから、もう一度。


 式場に、小さな紙の擦れる音だけが響いた。


 柿崎は顔を上げた。


「少しだけ、同期として話をさせてください」


 誰も、咎めなかった。


 葬儀社の係員も、参列者も、ただ静かに柿崎を見ていた。


 柿崎は遺影に視線を向けた。


「仲野」


 会社で呼んでいた名前だった。


 中野洸太。


 だが、柿崎にとって彼は、ずっと仲野だった。


「俺は何度も、お前に助けられた」


 柿崎の声は、まだ崩れていなかった。


 ただ、先ほどまでの喪主としての声とは、少し違っていた。


「たぶん、お前は覚えていないんだろう。大したことじゃない。たまたまだ。目の前にあったから拾っただけだ。そんなふうに言うんだろう」


 遺影の中の洸太は、何も答えない。


 困ったように笑っているだけだった。


「だがな、仲野」


 柿崎は、少しだけ息を吸った。


「助けられた側は、そんなふうには忘れられないんだ」


 高野が、膝の上の拳をさらに強く握った。


 隣の女性は、顔を伏せたまま動かなかった。


 会社の若手の一人が、かすかに鼻をすすった。


 柿崎は続けた。


「俺が怒鳴って、突っ走って、失敗して。それでも前に進めたのは、お前が後ろで、俺の取りこぼしたものを拾ってくれていたからだ」


 その言葉に、何人かが目を伏せた。


 それぞれに思い当たるものがあった。


 仕事のこと。

 学生時代のこと。

 どうにもならなかった時のこと。

 何気なく差し出された手のこと。


 どれも、大事件ではなかったのかもしれない。


 だが、人生のどこかで躓きかけた時、洸太はそこにいた。


 ほんの少しだけ手を出して、何でもない顔で去っていった。


「おかげで俺は、今こうして部長なんて役職に就いている」


 柿崎の口元が、わずかに歪んだ。


 笑おうとしたのかもしれない。


 だが、笑みにはならなかった。


「同期の中では一番の大抜擢だそうだ。周りは、俺が出世頭だと言った」


 柿崎は遺影を見たまま言った。


「そのたびにお前は、笑って言ったな。おめでとう、柿崎。お前なら当然だ、って」


 柿崎の声が、そこで初めて少しだけ揺れた。


「……腹が立ったよ」


 式場の空気が、わずかに動いた。


 けれど、誰も声を出さない。


「お前は本当に、何も分かっていなかった」


 柿崎の手の中で、折りたたまれた紙が小さく軋んだ。


「馬鹿野郎。俺がどうして、そこまで上に行きたかったか。お前は、少しも分かっていなかったんだろうな」


 柿崎は一度、言葉を切った。


 長い沈黙ではない。


 けれど、その場にいた者には、十分に長く感じられた。


「お前みたいな、損ばかり被るお人好しの馬鹿を」


 声が、ほんの少しだけ詰まった。


 柿崎は奥歯を噛むようにして、言葉を続けた。


「いつか俺が、拾い上げるしかないと思っていたんだ」


 高野が顔を上げた。


 会社の後輩たちの何人かが、柿崎を見ていた。


 柿崎は泣き崩れなかった。


 ただ、真っ直ぐ立っていた。


「お前はいつもそうだった。誰かの面倒を見て、自分のことは後回しにした。誰かの失敗を拾って、自分の評価は置いていった。誰かが助かれば、それでいいという顔をしていた」


 柿崎の目が、わずかに赤くなっていた。


「そんなもの、いいわけがないだろう」


 その声は大きくなかった。


 怒鳴ってはいなかった。


 それでも、葬儀場の隅まで届いた。


「いつか、お前をちゃんと評価される場所に引き上げるつもりだった。お前が嫌がっても、面倒くさそうな顔をしても、無理やりにでも上に引っ張るつもりだった」


 柿崎は、そこで初めて視線を落とした。


 手元の紙を見る。


 もう読むことのない、整った謝辞。


 それを握る手に、力が入った。


「なのに」


 短い言葉だった。


 それだけで、柿崎の中にあるものが少しだけ漏れた。


「お前は、俺に恩を返す機会を残してくれなかった」


 誰も動かなかった。


 高野の隣で、女性が包帯の巻かれた手を胸元に押し当てた。


 学生時代の友人らしき男が、目元を指で押さえた。


 会社の若手が、俯いたまま唇を噛んだ。


 柿崎は、遺影を見た。


 洸太は変わらず、困ったように笑っていた。


 それが余計に、柿崎には腹立たしかった。


 きっと洸太なら言う。


 大したことじゃない。

 目の前にいたから。

 身体が動いただけだ。

 そんな顔をするな。


 そう言って、いつものように困った笑い方をするのだろう。


 だから柿崎は、低く言った。


「……卑怯者だよ、仲野」


 その一言だけが、葬儀場に落ちた。


 責める言葉だった。


 悔しさの言葉だった。


 恩を返す前に消えた男への、行き場のない怒りだった。


 けれど、その言葉を柿崎だけのものとして聞いている者は、この場には少なかった。


 高野は俯いた。


 隣の女性は、包帯の残る手を握りしめた。


 会社の若手の一人が、唇を噛んだ。


 学生時代の友人が、目元を押さえた。


 それぞれが、洸太に何かを返せないまま、ここにいた。


 礼を言えなかった者がいた。


 謝れなかった者がいた。


 あの時は助かったと、ただそれだけを伝えられなかった者がいた。


 大したことじゃないと笑われるのが分かっていて、それでもいつか言えばいいと思っていた者がいた。


 その、いつかが来なかった。


 だから誰も、柿崎を咎めなかった。


 卑怯者。


 それは洸太に向けられた言葉だった。


 恩を返される前に消えた男への、どうしようもない悪態だった。


 そして同時に、返せなかった者たちが、自分の胸の内側で受け取るしかない言葉でもあった。


 柿崎の頬を、一筋だけ涙が伝った。


 だが、彼はそれを拭わなかった。


 俯きもしなかった。


 喪主として、同期として、最後までそこに立っていた。


「……以上です」


 柿崎はそう言って、深く頭を下げた。


 式場には、しばらく何の音もしなかった。


 誰も拍手などしない。

 誰も声をかけない。

 誰も柿崎を止めない。


 ただ、沈黙だけがあった。


 その沈黙の中で、参列者たちはそれぞれに、洸太のことを思い出していた。


 大げさな英雄ではない。

 誰からも慕われた聖人でもない。

 何を考えているのか分かりにくく、時々妙に距離があって、礼を言われると困ったように笑う男。


 けれど、誰かが倒れそうな時、気づけば少しだけ手を出していた男。


 その手に救われた者たちが、今、何も返せないまま黙ってそこにいた。


 柿崎は、最後まで泣き崩れなかった。


 ただ深く、深く頭を下げた。


 その背中を見て、誰も声をかけられなかった。


 遺影の中の洸太は、相変わらず少し困ったように笑っていた。


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