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第3話 普通に仕事してるだけ

 三ヵ月も経てば、人間、大抵のことには慣れる。


 硬いパンにも。

 朝の鐘にも。

 水桶の重さにも。

 銅貨と小銀貨の見分け方にも。

 読めなかった文字が、少しずつ意味を持ちはじめる感覚にも。


 そして、商会の倉庫で朝から名前を呼ばれることにも。


「コータ! 北棚の薬草袋、数が合わない!」


「昨日の夕方に三袋、乾燥室へ回してます。帳簿の線、引き忘れてませんか」


「コータさん、西門行きの荷車、出していいですか?」


「左の留め具が甘い。石畳に出す前に締め直した方がいい」


「コータ、この依頼書、見てくれ。数字だけでいい」


「……これ、報酬の桁が違います。銅貨じゃなくて小銀貨ですね」


 そう答えながら、俺は手元の木箱に焼き印を押した。


 うん。

 今日も普通に仕事である。


 俺が働いているのは、リーベルの中央通り近くにあるアーベル商会だ。


 薬草、布、塩、油、木材、乾物、日用品。

 周辺の村から集まった品を受け入れ、街に流し、必要ならまた村へ送る。

 ざっくり言えば、街と周辺の生活をつなぐ商会である。


 最初は何が何だか分からなかった。


 文字は読めない。

 通貨も分からない。

 荷札も読めない。

 薬草の名前なんて当然知らない。

 そもそも俺は、この世界の常識というものを、だいたい持っていなかった。


 そんな人間が、今は倉庫で荷札を確認している。


 人生、何があるか分からない。

 異世界に来た時点で、分からないにも程があるが。


「コータさん」


 声をかけてきたのは、最近入ったばかりの少年だった。

 名前はニコ。

 年は十四か十五くらいだったと思う。


 ニコは、俺の手元と、俺が指示した荷車と、俺の顔を順番に見比べてから言った。


「コータさんって、ずっと前からここにいるんですか?」


「いや、三ヵ月くらいだな」


「三ヵ月?」


 少年の声が裏返った。


 何だその反応は。

 三ヵ月あれば、棚の位置くらい覚えるだろう。

 よく見る荷札も覚える。

 毎日触る通貨の種類だって、さすがに覚えないと困る。


 困るから覚える。

 それだけの話である。


 俺が首を傾げていると、帳場の奥から低い笑い声がした。


「驚くだろう、ニコ」


 帳簿を抱えて出てきたのは、番頭のマルクさんだった。

 アーベル商会の実務を大体取り仕切っている苦労人である。

 苦労人というのは、顔に出る。

 前の世界でも、だいたいそうだった。


「こいつ、来た時は文字も読めなかったんだ」


「え」


「荷札も読めない。銅貨と小銀貨も怪しい。薬草の名前も知らない。商会の決まりも知らない。おまけに怪我人だ」


「……それで、三ヵ月で?」


「だから驚くだろう」


 ニコが、もう一度俺を見た。


 やめてほしい。

 珍獣を見る目は傷つく。


「必要なものから覚えただけですよ」


 俺がそう言うと、マルクさんは深いため息をついた。


「その“だけ”が普通じゃないんだよ」


「普通に仕事してるだけですけど」


「お前の普通は、商会の基準に合わせる前に、一度疑った方がいい」


 ひどい言われようである。


 そこへ、さらに奥から別の声が飛んできた。


「文字も読めない男を置くことになった時は、正直どうなるかと思ったよ」


 声の主は、グレイス・アーベル。

 この商会の主だ。


 年配の女性で、背筋が伸びていて、目がよく利く。

 穏やかに笑っていても、誤魔化しはまず通じない。

 たぶん俺が人生で出会ってきた中でも、かなり怖い部類の商売人である。


「ソフィアちゃんが連れてきた時はねえ。文字は読めない、出身は分からない、通貨も知らない、怪我はしている。しかも本人は、飯代くらいは働きたいと来た」


「雇ってください、とは言ってません。雑用でも構わないので仕事をいただけないか、と」


「そこを訂正するかい」


「事実なので」


「そういうところだよ、コータ」


 グレイスさんは呆れたように笑った。


 ソフィアちゃん、という呼び方をするあたり、グレイスさんはソフィアさんを昔から知っているらしい。

 俺は基本的にソフィアさんと呼んでいる。

 ルークはソフィア姉、少し改まるとソフィア姉さんと呼ぶ。

 ミーナはソフィアお姉ちゃんと呼ぶ。


 この街の中で、ソフィアさんは偉い人ではない。

 けれど、知られている。

 信用されている。

 子どもや老人から慕われ、商会や街の大人たちからも頼られる。


 権力ではなく、積み上げた信用で立っている人だ。


 だから俺のような身元不明のおっさんでも、ここに置いてもらえた。


 もう一つ、アーベル商会と修道院には古い縁があるらしい。

 先代修道士に、グレイスさんは恩があるのだという。


 もっとも、俺としては未だに、置いてもらっている、という感覚の方が強いのだが。


「まあ、最初は三日で音を上げると思ってたよ」


「三日ですか」


「あんた、初日に荷札を上下逆に持ってたんだよ」


「……それは、まあ」


 事実なので否定できない。


 グレイスさんは、俺の顔を見ながら目を細めた。


「けど、あんたは音を上げなかった。文字も読めないくせに、人の顔色だけは読んだ」


 その言葉で、俺は少しだけ三ヵ月前のことを思い出した。


 まだ俺が、本当に何も読めなかった頃のことだ。


     ◇


 三ヵ月前。


 俺は修道院のベッドで目を覚ました。


 知らない天井だった。

 いや、昨日も見た天井だった。

 つまり夢ではなかった。


 夢ならもう少し親切設計にしてほしい。

 せめてスマホのアラームくらい鳴ってくれてもいい。


 鳴らない。


 窓から差し込む朝日。

 木の天井。

 粗い布の寝具。

 遠くから聞こえる鐘の音。

 子どもたちの声。

 現代日本とは違う匂い。


 異世界確定である。


「お加減はいかがですか?」


 しばらくぼんやりしていると、部屋にソフィアさんが入ってきた。


 白を基調にした修道服。

 落ち着いた声。

 穏やかな目。

 ただし、その目はかなりよく見ている。


「まあ、死んでないだけ上出来ですね」


 俺がそう答えると、ソフィアさんはほんの少し眉を寄せた。


「……その言い方は、あまりよくありません」


「あ、すみません。こっちの文化的にまずかったですか?」


「文化ではなく、あなた自身の扱いの問題です」


 朝から静かに怒られた。


 異世界初日から叱られるおっさん。

 なかなか情けない。


 しかし、怪我はしていたが命はあった。

 俺が最後に見た光景は、泣き叫びながら巨大な火球を放とうとするミーナの姿だった。

 あの後どうなったのかは、昨日のうちに少し聞いている。


 俺はミーナを助けたらしい。

 ルークも無事らしい。

 それなら、まあ、悪くない。


 しばらくして、ミーナが部屋に来た。


 彼女は扉の前で何度か迷って、それから小さく頭を下げた。


「コータさん」


「ん?」


「助けてくれて、ありがとうございました」


 真っ直ぐな声だった。


 子どもが、精一杯ちゃんと言おうとしている声。

 そういうものは、正直、困る。


「いや、大したことじゃないから」


 俺がそう言うと、ミーナは顔を上げた。


「大したことです」


「たまたま近くにいただけだし」


「でも、助けてくれました」


「まあ、結果的には」


「わたしは、忘れません」


 そこで、俺は言葉に詰まった。


 忘れません。

 そんな大げさな。


 そう言おうとして、うまく声にならなかった。


 人を助けた。

 相手が助かった。

 それで終わりだと思っていた。


 終わったことを、いつまでも自分の手柄のように持っているのは、どうにも落ち着かない。


「……そんな大げさな」


 結局、口から出たのはそれだけだった。


 ミーナは少しだけ頬を膨らませた。

 ソフィアさんは、黙ってこちらを見ていた。


 あの目は、たぶん何かを覚えている目だった。


     ◇


 その日の朝食で、俺は自分の立場を理解した。


 金がない。

 身分証もない。

 この世界の文字も読めない。

 常識もない。

 帰る方法も分からない。


 そして、飯が出てくる。


 部屋もある。

 手当てもされる。

 子どもたちは俺を怖がりつつも、遠巻きに見ている。

 ソフィアさんは怪我人なのだから休めと言う。


 ありがたい。

 ありがたいが、かなりまずい。


 修道院は、祈る場所であり、傷を診る場所であり、行き場のない子どもたちが眠る場所でもあった。


 孤児は七、八人ほどいる。

 正式な修道士は、どうやらソフィアさん一人だけらしい。

 治療に決まった値段はなく、払える人が布施を置いていく。払えない人は、頭を下げて帰っていく。

 近所の老婆が時々手伝いに来るし、街の人が古着や野菜を持ってくることもある。


 人の善意はある。

 けれど、余裕がある場所ではない。


 なるほど。


 これは、ただの無職居候おじさんでは?


 いや、まずい。

 非常にまずい。


 ルークとミーナを助けたから、しばらく保護してくれる。

 周りはたぶん、そう思っている。


 けれど俺の中では、それがどうしても理由にならなかった。


 あれは、その場で身体が動いただけだ。

 助かったなら、それで終わりだ。


 いつまでもそれで飯を食うわけにはいかない。


「仕事を探したいんですが」


 俺がそう言うと、ソフィアさんは静かに固まった。


「……コータさん。あなたは怪我人です」


「はい」


「昨日、死にかけました」


「まあ、そうですね」


「ですから、休んでください」


「寝てるだけの方が落ち着かないです」


 ソフィアさんは額に手を当てた。


 ルークは横で笑っていた。


「おっさん、昨日死にかけたわりに元気だな」


「四十過ぎるとね、朝起きるたびにどこかしら死にかけてるんだよ」


「それ、笑っていいやつか?」


「俺にも分からん」


 ミーナは心配そうにこちらを見ていた。


 少し申し訳ない。

 だが、何もしないで飯だけ食うのは無理だった。


「せめて、飯代くらいは返したいんです」


 そう言うと、ソフィアさんは何か言いかけて、やめた。


 結局、俺はソフィアさんの紹介で、街の商会へ行くことになった。


     ◇


 リーベルの街は、思ったよりも人が多かった。


 石畳。

 馬車。

 荷車。

 見慣れない看板。

 市場の匂い。

 干した薬草の束。

 パンを売る屋台。

 皮革や木材を積んだ荷台。

 そして、読めない文字。


 看板の文字は、文字として見えている。

 だが意味が入ってこない。


 会話は通じる。

 不思議なくらい自然に通じる。

 なのに文字は読めない。


 異世界転移特典、音声翻訳のみ。

 サポート範囲が中途半端すぎる。


 アーベル商会へ着くと、グレイスさんが俺を頭から足先まで見た。


「ソフィアちゃんが男を連れてくるなんて、街の若い衆が何人泣くかねえ」


「そういう話ではありません」


 ソフィアさんが即座に否定した。


 グレイスさんは笑った。


「分かってるよ。あの子がそう簡単に誰かを選ぶなら、とっくに嫁に行ってる」


 俺は少しだけソフィアさんを見た。


「人気あるんですね、ソフィアさん」


「……その話は今しなくてよいです」


「はい」


 怒られたので黙る。


 グレイスさんは改めて俺を見た。


「で、あんたは仕事が欲しいと」


「はい。雑用で構いません」


「文字は?」


「読めません」


「計算は?」


「こちらの数字と通貨が分かれば、たぶん」


「出身は?」


「説明が難しいです」


「身分証は?」


「ありません」


「怪我は?」


「あります」


「よくそれで仕事が欲しいと言えたね」


「自分でもそう思います」


 グレイスさんは、しばらく俺を見ていた。

 誤魔化しても仕方ないので、俺は正直に答えた。


「ソフィアちゃんの紹介でなけりゃ、倉庫にも入れないよ」


「そうでしょうね」


「納得が早いね」


「身元不明で文字も読めない男を雇う方がどうかしてます」


「本人が言うんじゃないよ」


 グレイスさんは、そこで一度、ソフィアさんを見た。


「先代には、恩があるからね」


 先代。

 修道院にいた、前の修道士のことだろうか。


 ソフィアさんは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「だからって、何でもただで面倒を見るわけじゃないよ。うちは商会だ。働く気があるなら、まず雑用からだ。使えないなら置けない。それでもいいね」


「はい」


「返事だけは早いね」


 グレイスさんはそう言って、俺の顔を見た。

 その目が、少しだけ遠くを見るように細くなる。


「……助けてくれって言われるばかりでね」


 それは、俺に向けた言葉というより、誰か別の人を思い出してこぼれた言葉のようだった。


「あの人は、自分じゃ一度もそう言えなかった」


 ソフィアさんが、息を止めた気がした。


「それで逝っちまって。残されたソフィアちゃんも、苦労するよ」


 俺は、何と返せばいいのか分からなかった。


 たぶん、これは先代修道士の話なのだろう。

 俺には、その人のことは分からない。


 ただ、グレイスさんの声には、商売人の声とは違う苦さが混じっていた。


「助ける側ってのは、どうしてこうも始末が悪いんだろうね」


 グレイスさんは、すぐにいつもの顔に戻った。


「マルク、倉庫の方に回しておやり。まずは荷運びと荷札の色分けだ」


 こうして俺は、アーベル商会の倉庫で雑用をすることになった。


 最初に渡された仕事は、薬草袋を運ぶこと。

 それから、荷札の色ごとに木箱を分けること。

 文字は読めないので、色と形だけで覚えろと言われた。


 当然、失敗した。


 荷札を上下逆に持った。

 銅貨と小銀貨を間違えた。

 乾燥済みと未乾燥の薬草袋を逆に置きかけた。

 帳場の邪魔になった。

 倉庫の導線も分からなかった。


 まあ、知らないのだから仕方ない。

 知らないなら覚えるしかない。


 ただ、それだけだった。


     ◇


 商会に入って十日ほど経った頃だったと思う。


 俺はまだ文字をほとんど読めなかった。

 荷札の色と棚の位置をようやく覚え始めたくらいだ。


 その日、常連らしい男が商会に来た。


 歳は四十前後。

 村から品を持ち込むこともあれば、生活用品を買って帰ることもあるらしい。

 名前はエドガーさんだった。


 彼はいつものように挨拶をして、いつものように品を頼み、いつものように代金を払った。


 少なくとも、周りの人間にはそう見えていた。


 でも、俺には少しだけ引っかかった。


「マルクさん」


「何だ、コータ」


「あの人、いつもと違いませんか」


「エドガーか?」


「はい」


 マルクさんは帳簿から顔を上げた。


「どこがだ」


「いつもは注文の前に必ず世間話をしますよね。今日はしませんでした」


「急いでたんだろう」


「かもしれません。ただ、急いでいるというより、早く終わらせたがっている感じでした」


「……続けろ」


「いつもは品を受け取る時に袋の中を確認します。今日は見てません。あと、支払いの時にこちらの顔を見ませんでした」


 俺は、さっきの男の動きを思い出しながら言った。


「それと、いつも買う薬草油を買っていません。代わりに保存食が多かったです」


「よく見てるな」


「見ていただけです。間違ってるかもしれません。ただ、いつも通りではないと思います」


 マルクさんは少し考え、それからグレイスさんを呼んだ。


 グレイスさんは俺の話を聞くと、半信半疑という顔で店の外へ出た。


 まだ遠くへ行っていなかったエドガーさんに声をかける。


「エドガー。今日はずいぶん急いでるね」


「え? いや、そんなことは」


「うちの新入りが気にしててね。あんた、何か言いにくいことでも抱えてるんじゃないかい」


 エドガーさんの顔が、ほんの少し強張った。


 それで大体分かった。


 人間、図星を突かれた時の顔は、世界が変わってもあまり変わらないらしい。


 結局、事情はこうだった。


 エドガーさんの息子が、商会の小口依頼で薬草を採りに行った。

 だが、採ってきた中に似た別種が混ざっていた。

 息子は失敗したと思い込み、商会に損をさせたと怯えて、報告できずにいた。


 エドガーさんもそれを知っていたが、どう謝ればいいか分からず、いつも通り買い物だけして帰ろうとしていたらしい。


 商会として確認した結果、問題は早めに報告すれば処理できる範囲だった。

 混ざった薬草も、完全に使えないわけではなかった。

 ただ、黙ったまま納品されていれば信用問題になっていた。


 グレイスさんはエドガーさんを叱った。

 息子も呼ばれて叱られた。


 だが、潰すような叱り方ではなかった。


「失敗したなら言いな。黙ってた方が大きな失敗になる。商売ってのはね、品だけじゃなくて信用も運ぶんだよ」


 その言葉は、俺にも刺さった。


 前の世界でも似たようなことはあった。

 客先への報告が遅れた。

 仕入先が言いにくい不良を隠した。

 現場が間に合わせようとして、余計に傷を広げた。


 商売は品と金だけではない。

 人と人の間にある、言いにくいものも扱う。


 それを放置すると、だいたい燃える。

 火が出る前に煙を見る。

 たぶん、それも仕事の一部だ。


 その後、グレイスさんは俺を見た。


「商人は品を見る。金を見る。帳簿を見る」


 そして、店の扉の方へ目を向けた。


「けどね、一番見なきゃいけないのは人だ」


 グレイスさんは、少しだけ笑った。


「文字も読めない新入りに、それを先にやられるとは思わなかったよ」


「いつもと違ったので」


「それに気づくのが難しいんだよ」


 そう言われても、俺にはよく分からなかった。


 ただ、いつもと違った。

 だから気になった。

 それだけだった。


     ◇


 それから三ヵ月、俺は少しずつ仕事を覚えた。


 一日目。

 荷札が読めなかった。


 三日目。

 銅貨と小銀貨の見分けを間違えなくなった。


 七日目。

 よく出る薬草の名前を十個覚えた。


 十日目。

 常連客の顔と買う品を覚え始めた。


 半月。

 倉庫の棚番を覚えた。


 一ヵ月。

 帳簿の数字だけなら追えるようになった。


 二ヵ月。

 薬草の乾燥状態と保管場所の良し悪しが少し分かるようになった。


 三ヵ月。

 俺は、普通に仕事をしていた。


 昼は商会で働いた。

 夜は修道院で文字を覚えた。


 ミーナは、俺の文字の先生になった。


「ここは薬草の名前です」


「なるほど。じゃあこれは?」


「数です。三束」


「三束……この記号で三なのか。規則性が見えそうで見えないな」


「コータさん、顔が怖いです」


「すまん。文字に負けるのが悔しくて」


 ミーナはよく笑うようになった。

 最初は俺に申し訳なさそうにしていたが、文字を教える時だけは少し得意そうだった。


 俺は彼女を、時々ミーナ先生と呼んだ。

 そのたびに彼女は赤くなって怒った。


 ソフィアさんからは、この世界の常識を教わった。

 街の決まり。

 修道院の役割。

 魔物の危険。

 魔法というもの。

 魔道具というもの。

 この世界で生きるために、知っておいた方がいいこと。


「魔法って、誰でも使えるんですか?」


「素質と訓練によります」


「失敗した時はどうなります?」


「魔法の種類によりますが、危険な場合もあります」


「薬草の乾燥に使うと、品質は変わります?」


「……最初にそこを気にするのですか?」


「湿気に弱いので」


 ソフィアさんは、そのたびに少し困った顔をした。


 俺は魔法を、神秘として受け取ることができなかった。

 この世界では当たり前のものなのだろう。

 だが、俺のいた世界にはなかった。


 だから、俺にとって魔法は未知の商材であり、危険物であり、生活インフラだった。


 誰が使えるのか。

 何に使えるのか。

 失敗するとどう危ないのか。

 どの程度、再現できるのか。

 道具にした場合、誰が整備するのか。


 そうやって整理しないと、怖くて扱えない。


 まだ俺は、まともに魔法を使えない。

 魔力を感じる、という段階でよく詰まる。


 ミーナは火を「ぎゅっとして、ばっと」と説明した。

 俺にはまだ早かった。


 夕方には、ルークに剣を教わった。


「おっさん、剣、やったことあるだろ」


「子どもの頃に少しだけな。剣道ってやつを」


「ケンドー?」


「俺の国の剣の稽古みたいなもんだ。まあ、こっちの剣とは全然違うけど」


「完全な素人の持ち方じゃねえな。筋は悪くない」


「褒めてる?」


「入口に立ってるくらいだな」


「厳しいな」


「入口に立ってるだけで魔物に勝てるなら、俺はいらねえよ」


 木剣を握った時、妙に懐かしい感触がした。


 竹刀とは違う。

 重さも、握りも、重心も違う。

 それでも、両手で柄を握って、相手の正面に立つという形だけは、身体の奥に残っていた。


 小学生の頃、少しだけ剣道を習っていた。


 強かった記憶はない。

 試合に勝った記憶も、あまりない。


 ただ、母さんは忙しい人だったのに、俺の試合にはなるべく顔を出してくれた。


 全部ではなかったと思う。

 来られない日もあった。

 それでも、仕事の合間を縫って、体育館の隅に立っていた母さんの姿を、俺は覚えている。


 負けた試合の日もあった。

 たしか、あっさり負けた。


 それでも母さんは、帰り道で笑って言った。


 ――ちゃんと前に出てたね。


 どうして今、そんなことを思い出したのかは分からない。


「おっさん、聞いてるか?」


「ああ。聞いてる」


「じゃあ避けろ」


「え」


 次の瞬間、俺は綺麗に転がされた。


 この世界の剣は、俺の知っている剣道とは違う。

 礼儀も、間合いも、目的も違う。


 試合ではない。

 生きるための技術だ。


 だから覚える。

 必要なら覚えるしかない。


     ◇


「コータさん、聞いてます?」


 ニコの声で、俺は現在に戻った。


「ああ、悪い。少し考えてた」


「疲れてるんですか?」


「普通だ」


 俺がそう言うと、マルクさんが横から言った。


「ニコ、覚えておけ。こいつの普通は信用するな」


「はい」


「返事が早いな」


「マルクさんが言うなら、そうなんだろうなって」


 ひどい。

 教育に悪い。


 その日の仕事が一段落したのは、夕方前だった。


 荷車の確認。

 薬草袋の移動。

 帳簿の数字合わせ。

 ニコへの棚番の説明。

 常連客への品の受け渡し。


 今日も大きな問題はない。

 それが一番いい。


 問題が起きてから騒ぐより、起きる前に潰した方が楽だ。

 前の世界でも、この世界でも、そこはたぶん変わらない。


「コータ」


 店の外へ出ると、ルークが木剣を肩に担いで待っていた。


「今日もやるのか?」


「やる。昨日の足運び、まだ体に入ってない」


「普通、仕事終わりにやるもんじゃねえよ」


「仕事中にやったら怒られるだろ」


「そういう意味じゃねえ」


 ルークは呆れたように笑った。


「おっさん、商会の仕事覚えるだけでも大概なのに、剣まで覚えてどうすんだよ」


「備え」


「何の」


「分からん。分からんから、備える」


 ルークは少しだけ黙った。


 それから、木剣を俺に投げて寄越した。


「そういうところだぞ」


「どこだよ」


「分かってねえところだよ」


 分からない。


 ただ、この世界には魔物がいる。

 魔法がある。

 街の外へ出れば危険がある。

 誰かを助けようとしても、身体が動くだけでは足りないことがある。


 だったら、できることは多い方がいい。


 文字も。

 仕事も。

 剣も。

 魔法も。


 できないままでいるより、できるようになった方がいい。


 それだけの話だ。


     ◇


 夜。


 修道院の食堂で、ミーナに文字を教わった後、俺は今日の復習をしていた。

 木片に、覚えた文字を何度も刻む。


 ミーナは隣でうとうとしている。

 ルークは向かいでパンをかじっている。

 ソフィアさんは少し離れた場所で、子どもたちの寝支度を見ていた。


「コータさん」


 ソフィアさんが、こちらへ来た。


「はい」


「無理をしていませんか」


「普通です」


 ソフィアさんは困ったように笑った。


「その普通が、最近あまり信用できません」


「マルクさんにも同じようなことを言われました」


「では、きっと正しいのでしょう」


「味方がいない」


 ルークが笑った。


「おっさん、明日くらい休めよ」


「明日は荷受けが少ないから、午前中だけで済む」


「休めって言葉の意味、最近覚えたんじゃねえのか?」


「覚えた」


「意味は覚えても、使い方を覚えてねえな」


 ミーナが小さく笑った。


 ソフィアさんは、俺をじっと見ていた。


「コータさんは、もう十分、この街にいてよい人ですよ」


 その言葉に、俺は少し困った。


 ありがたい言葉だ。

 そう言ってもらえるのは、素直にありがたい。


 けれど、それとこれとは別だ。


「そう言ってもらえるのはありがたいです」


 俺は木片を置いて、笑った。


「でも、何もしないで飯だけ食うのは、さすがに落ち着かないんで」


 ソフィアさんは、何も言わなかった。


 ただ、どこか寂しそうな顔をした。


 働いているから、ここにいる。

 役に立てているから、ここにいられる。

 今日の仕事で、今日一日分の居場所を買う。


 俺がそんなふうに考えているつもりはない。


 ない、はずだ。


 ただ、明日も仕事がある。

 覚える文字がある。

 直すべき足運びがある。

 分からない魔法がある。


 なら、やることは多い。


 うん。


 今日も明日も、普通に仕事である。


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