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第2話 知らない天井と、助けられた側の都合

 知らない天井だった。


 木の梁が見える。


 白い布が揺れている。


 鼻をくすぐるのは、消毒液ではなく、青臭い薬草の匂いだった。


 中野洸太は、ぼんやりと目を開けたまま、しばらくその光景を眺めていた。


 病院ではない。


 ホテルでもない。


 少なくとも、日本ではない。


 ……まあ、日本の病院で木の梁と薬草の匂いと、妙に幻想的な白布がセットで出てきたら、それはそれで保険適用外の匂いがする。


「……っ」


 身体を起こそうとした瞬間、胸に鋭い痛みが走った。


 肋骨のあたりだ。


 息を吸うだけで痛い。

 咳でもした日には、そのまま魂だけ先に出勤しそうな痛みだった。


「動かないでください」


 静かな声がした。


 洸太は、痛みをこらえながら声の方へ視線を向けた。


 そこに、一人の女性がいた。


 年は二十代後半くらいだろうか。


 柔らかな栗色の髪を後ろでまとめ、白を基調とした衣服を身にまとっている。修道服、という言葉が一番近い。けれど、洸太が映画や漫画で見たものよりも実用的で、袖口には薬草の汁なのか、薄い緑の染みがついていた。


 整った顔立ちをしていた。


 美人だ。


 ただ、洸太の最初の感想はそれではなかった。


 彼女の手から、淡い光が漏れていた。


 その光が、洸太の胸に触れている。


 温かい。


 痛みが消えるわけではない。

 だが、ばらばらになりかけた身体の内側を、誰かが静かに押さえてくれているような感覚があった。


 洸太は、口を開いた。


「ここ、は……」


「まだ無理に話さないでください。あなたは、ひどい怪我をしていました」


 女性はそう言って、洸太の胸元にかざしていた手を少しだけ引いた。


 光が薄くなる。


 代わりに、痛みが少しだけ存在感を増した。

 おい、帰ってこなくていい。そういう職場復帰は望んでいない。


 女性は洸太を見つめ、そして深く頭を下げた。


「あの二人を助けて頂き、本当にありがとうございました」


 その言葉で、洸太のぼんやりしていた意識が一気に引き戻された。


 森。


 獣の唸り声。


 巨大な猪のような魔物。


 倒れそうな少年。


 泣き叫ぶ少女。


 そして――最後に見た、巨大な火球。


「あの、二人は……」


 声がかすれた。


 喉がひどく乾いている。


 それでも洸太は、続けようとした。


「あの子たちは、無事、ですか」


 女性は一瞬だけ目を見開いた。


 ほんの一瞬だった。


 すぐに、穏やかな表情へ戻る。


「無事です。ルークも、ミーナも。怪我はありますが、命に別状はありません」


「……なら、よかった」


 洸太は息を吐いた。


 胸が痛んだ。


 けれど、痛みより先に安心が来た。


 よかった。


 間に合ったのだ。


 何をどうして間に合ったのかは分からない。

 自分がなぜ森にいたのかも、あの火球がなんだったのかも、そもそも生きている理由も分からない。


 だが、あの二人が生きているなら。


 それなら、よかった。


 ソフィアは、そんな洸太を静かに見つめていた。


 この人がいなければ、ルークもミーナも帰ってこなかったかもしれない。


 感謝している。


 心から。


 けれど。


 目を覚まして最初に聞くことが、自分の怪我ではなく、あの子たちのことなのだ。


 少し、不思議な人だと思った。


 ただ、それだけだった。


「二人とも、あなたが目を覚ますのをずっと待っていました。呼んできますね」


「あ、いや、俺は別に……」


「いいえ。あの子たちにも、あなたに言いたいことがありますから」


 ソフィアは穏やかにそう言うと、立ち上がった。


 扉へ向かう前に、もう一度だけ振り返る。


「動かないでくださいね」


「はい」


「本当に、動かないでくださいね」


「……はい」


 念を押された。


 大人になってからここまで真剣に「動くな」と言われたのは、会社の健康診断で採血された時以来かもしれない。


 ソフィアが部屋を出ていく。


 扉が閉まると、部屋の中は静かになった。


 洸太は、首だけを少し動かして周囲を見た。


 木造の天井。


 白い布。


 壁際には棚があり、瓶や布、薬草らしき束が並んでいる。瓶には文字が書かれた札が貼られていた。


 読めない。


 見たことのない文字だった。


 英語でもない。

 中国語でもない。

 アラビア語でもない。

 もちろん日本語でもない。


 そして、窓の外から聞こえる音。


 車ではない。


 馬の蹄のような音。

 木の車輪が石畳を転がるような音。


 洸太は天井を見上げた。


「……本当に、異世界ってやつなのか」


 口にしてから、自分で少し引いた。


 四十一歳の係長が、知らない天井の下で異世界とか言っている。


 なかなかの絵面である。


 会社でこの発言をしたら、まず産業医面談である。

 いや、場合によっては有給を取らされる。

 その前に柿崎あたりに「お前、疲れてんだよ」と真顔で言われる。


 だが。


 胸に当てられていた光。


 猪のような魔物。


 少女の放った火球。


 そして、読めない文字。


 それらを全部まとめて説明するには、洸太の常識は少しばかり荷が重かった。


 少しばかり、というか、すでに定時を三時間過ぎた残業くらい重い。


 やがて、廊下の方から足音が近づいてきた。


 扉が勢いよく開く。


「よう、やっと起きたかよオッサン」


 入ってきたのは、金茶色の髪をした青年だった。


 年は二十歳前後。

 体つきは締まっていて、いかにも動けそうな印象がある。左腕には包帯が巻かれていたが、表情は妙に元気だった。


 続いて、桃色がかった髪の少女が飛び込んでくる。


「おじさん、ありがとー!」


 少女は、そのままベッドに駆け寄ろうとして――ソフィアに襟首をつかまれた。


「ミーナ。患者に飛びつかない」


「あっ、そうだった!」


 少女――ミーナは慌てて足を止める。


 青年――ルークは腕を組んで、にやりと笑った。


「よかったな、オッサン。生きてたぞ」


「……おっさんとおじさんで統一してくれないかな」


 洸太がそう言うと、ミーナがきょとんとした顔をした。


「え、どっちがいい?」


「できれば名前でお願いします」


「名前!」


 ミーナはぱっと顔を輝かせた。


 そこで輝くのか。


「俺は中野洸太。洸太でいいです」


「コータ?」


「はい」


「コータおじさん!」


「悪化した」


 ルークが吹き出した。


「いいじゃねえか、コータおじさん」


「君も乗らないでくれるかな。肋骨に響くから」


「ルークだ。こっちはミーナ。で、こっちがソフィア姉さん」


 ルークが親指で順番に示す。


 ソフィアは静かに会釈した。


「ソフィアと申します。ここで修道士として働いています」


「修道士……」


「女性でもそう呼ばれます。厳密には色々ありますが、今はその理解で大丈夫です」


「なるほど」


 洸太は頷いた。


 つまり、こちらの世界にも宗教施設的なものがあるらしい。


 そして、自分はそこに担ぎ込まれた。


 異世界初日から宗教施設の世話になる四十一歳。

 なかなか信仰心が試される展開である。信仰対象が誰かも分からないのに。


 ルークはベッドのそばまで来ると、少しだけ表情を改めた。


「……助かった。あんたがいなかったら、ミーナは死んでた」


「ルークもだよ」


 ミーナがすぐに言う。


「俺はいいんだよ」


「よくない!」


「いや、俺は男だし」


「関係ない!」


「あー……うん。若いねえ」


 洸太は思わずそう漏らした。


 二十歳前後の男女が、互いの命の重さで言い合っている。


 眩しい。


 あと、少し痛い。


 物理的にも精神的にも。


「いや、俺は何もしてないですよ。突っ込んで、吹っ飛ばされただけです」


「あれを、何もしてないとは言わねえ」


 ルークの声が低くなった。


 先ほどまでの軽口が少しだけ消える。


「あの時、ミーナの足じゃ逃げ切れなかった。俺が囮になるしかないと思った。けど、あの猪野郎、俺よりミーナを狙いやがった」


 ルークは悔しそうに唇を噛んだ。


「俺が動くより早かった。もう駄目だと思った。そこに、あんたが来た」


「……俺が?」


「ああ。変な黒い服着た、中年男がな」


「中年男」


「武器もねえ。鎧もねえ。魔力の気配もねえ。正直、終わったと思った」


「本人を前にしてなかなか率直だな」


「悪い。でも本当だ」


 ルークは視線を逸らさなかった。


「なのに、あんたはミーナに横から飛び込んだ。あの猪の突進から、ミーナを押し出した」


 洸太の脳裏に、ぼんやりとした感覚が蘇る。


 走った。


 考えるより先に身体が動いた。


 少女の身体を抱えるようにして、横へ押し出した。


 その直後、身体に何か大きなものがぶつかった。


 そこから先は、ほとんどない。


 ただ、痛みと、地面と、遠くで泣く声。


「で、あんたは代わりに吹っ飛ばされた。肋骨は折れるわ、内臓はやられるわ、普通なら死んでる怪我だったってよ」


「普通なら」


「ソフィア姉さんがそう言ってた」


 洸太はソフィアを見る。


 ソフィアは否定しなかった。


「かなり危険な状態でした。運ばれてくるのがもう少し遅ければ、助けられなかったかもしれません」


「……それは、ご迷惑をおかけしました」


「なぜ謝るのですか」


 ソフィアが少しだけ眉を寄せた。


 洸太は言葉に詰まる。


 なぜ、と言われると困る。


 迷惑をかけたら謝る。

 それは洸太の中では、かなり上位にある社会規範だった。


 社内規定より上である。

 場合によっては労働基準法より先に出る。よくない。


「続き、いいか」


 ルークが言った。


「はい」


「ミーナが泣き叫びながら魔法を撃った。火球だ。けど、あれは……」


 ルークはミーナを見た。


 ミーナは不安そうに自分の手を見つめている。


「あれはミーナの魔法じゃなかった。少なくとも、俺の知ってるミーナの魔法じゃねえ」


「どういうことですか」


「あんなでかい火球、ミーナは撃てねえ」


「ちょっと、ルーク!」


「いや、事実だろ」


「そうだけど! もうちょっと言い方!」


「普段のミーナなら、猪の鼻先を焦がすのが精一杯だ。けど、あの時の火球は違った。あの猪野郎を丸ごと飲み込んで、焼き倒した」


 洸太はミーナを見た。


 ミーナは少しだけ肩をすくめた。


「私も、分からないの」


「分からない?」


「うん。あの時、ルークが死んじゃうって思って、頭がぐちゃぐちゃで。コータおじさんのことも、助けられた後にやっと見えたくらいで」


「誰このおじさん、みたいな?」


「うん。誰このおじさん、って」


「そこは少し包んでほしかった」


 ミーナは真剣な顔で続ける。


「でも、撃つしかなかったの。私の火球じゃ足りないって分かってたけど、それでも撃つしかなくて。そしたら、急に、何かが流れ込んできた」


「流れ込んできた?」


「うん。胸の奥から、ぐわーって。熱いのに、怖くなくて。誰かが一緒に押してくれたみたいな感じ」


 ミーナは両手を握りしめた。


「あんな火球、撃ったことない。あれから何度か試したけど、全然できないの。いつもの火球しか出ない」


 部屋に、わずかな沈黙が落ちた。


 洸太は考えた。


 そして、すぐに諦めた。


「え、俺に言われても……」


 異世界初日に魔法現象の原因を尋ねられても困る。


 こちらはまだ、天井が知らない段階なのだ。

 せめて社員証と財布の所在くらい確認してからにしてほしい。


 ルークも腕を組んで唸った。


「まあ、あんたが何かしたようには見えなかったけどな。そもそも魔力の気配もなかったし」


「魔力の気配……」


「分からねえのか?」


「分からないですね」


「本当に変なオッサンだな」


「そろそろオッサン呼びに慣れてきた自分が嫌だ」


 ミーナがくすくす笑った。


 ソフィアも、ほんの少しだけ表情を緩める。


 重くなりかけた空気が、少しだけ軽くなった。


 その時、ルークが思い出したように言った。


「つーかオッサン、礼言うなら姉さんにも言っとけよ」


「姉さん?」


「ソフィア姉さんだよ。あんた、三日も寝てたんだぞ。その間ずっと看病して、回復魔法かけてくれてたんだからな」


「三日……」


 洸太は目を瞬いた。


 三日。


 会社なら無断欠勤三日である。

 いや、死にかけていたなら労災……ではない。そもそも勤務中に異世界へ飛ばされた場合の労災申請欄があるとは思えない。


「ソフィア姉さま、ほとんど寝てなかったんだよ」


「ミーナ。大げさに言わないの」


「大げさじゃねえだろ。服だって姉さんが脱がせて治療したんだし」


「ルーク」


「あ」


 ルークが固まった。


 ミーナも「あ」と口を押さえる。


 洸太は数秒、天井を見た。


 知らない天井だった。


 ついでに、知らない女性に服を脱がされて治療されていたらしい。


「……すみません」


「なぜ謝るのですか」


 ソフィアがまた同じことを言った。


「いや、その……なんか、すみません」


「治療に必要なことでした。気にしないでください」


「いや、気にしないわけにも……」


「でしたら、早く良くなってください。それが一番助かります」


「あ、はい。すみません」


「ですから、なぜ謝るのですか」


 ソフィアが少し困った顔をした。


 怒ってはいない。


 むしろ、どう扱えばいいのか分からない、という顔だった。


 ルークが腹を抱えて笑い始めた。


「そこで謝るのかよ、オッサン」


「笑うな。こっちは四十一年分の社会性で反応してるんだ」


「しゃかいせい?」


「大人になると、よく分からない場面ではとりあえず謝る生き物になるんです」


「嫌な生き物だな」


「否定はしない」


 ソフィアは小さく息を吐いた。


「本当に、今は休むことを優先してください。肋骨も内臓も、まだ完全には癒えていません」


「回復魔法でも、すぐには治らないんですね」


「傷の程度によります。私の術では、命を繋ぎ、回復を早めることはできますが、すべてを一瞬で元通りにはできません」


「病院……じゃないんですよね、ここ」


「びょういん?」


 ソフィアが聞き返す。


 ルークが首を傾げた。


「なんだそれ」


「怪我や病気を治す場所、です」


「ああ。なら、怪我人が運び込まれるのは、だいたい修道院だな」


 ルークが言った。


「金持ちは高い回復術師を呼ぶけどよ」


「すっごく高いんだよ」


 ミーナが両手を広げる。


「大きい怪我だと、家が買えるくらい!」


「家が買える治療費……急に現実味が出てきたな」


 洸太は思わず呟いた。


 異世界でも医療費は人に現実を突きつけるらしい。

 魔法があっても、財布は救われない。世知辛い。


「病気はまた別です」


 ソフィアが説明を続ける。


「薬草や食事、祈り、看護で支えることが多いですね。回復魔法は外傷にはよく効きますが、すべての病に万能というわけではありません」


「なるほど……」


 洸太は頷いた。


 修道院が怪我人や病人、孤児や身寄りのない者を受け入れる場所でもあるらしいことは、なんとなく分かった。


 そして自分は今、その「身寄りのない怪我人」にかなり近い。


 いや、近いどころか、ど真ん中だ。


「そういや、あんた」


 ルークが洸太を見た。


「どこから来たんだ?」


 来た。


 洸太は思った。


 説明しなければならない質問ランキング、堂々の一位。

 なお、本人にも答えが分からない。


「日本、って国から来た。たぶん」


「ニホン?」


 ルークが眉を寄せる。


 ミーナも首を傾げた。


 ソフィアも聞き覚えがない様子だった。


「聞いたことねえな」


「私もない」


「私もありません」


「ですよね」


 洸太は天井を見た。


 知らない天井が、今日三度目くらいの登場である。便利だな、知らない天井。


「ええと、俺のいたところには、魔物はいませんでした」


「魔物がいない?」


 ミーナが驚く。


「はい。魔法もありません」


「魔法もないの?」


「ない、はずです」


「はず?」


「今ちょっと、自信がなくなってきてます」


 ルークが怪訝な顔をする。


「魔物も魔法もない国で、どうやって暮らすんだ?」


「普通に働いて、給料もらって、税金払って、時々理不尽な資料修正をして暮らします」


「後半が分かんねえ」


「分からない方が幸せです」


 洸太は少し考えた。


「鉄の箱が道を走ります」


「鉄の箱?」


「人を乗せて走るんです。馬より速いです」


「魔法じゃねえか」


「魔法ではないです。たぶん」


「空は?」


「飛びます」


「鉄の箱が?」


「もっと大きいやつが」


「魔法じゃねえか」


 ミーナが目を輝かせた。


「すごい! 魔法の国?」


「魔法はなかった……はずなんだけどなあ」


「ほかには?」


「手のひらサイズの板で、遠くの人と話せます」


「魔法じゃん」


「俺も今、そう思い始めてる」


 現代日本の説明は、異世界人相手にはほぼ魔法の国紹介になるらしい。


 洸太は深く反省した。

 日頃からスマホにもっと感謝すべきだった。充電が減ったくらいで舌打ちしてすまない。


 その時、ソフィアが棚から小さな瓶を取った。


「少し水を飲みましょう。薬も混ぜます」


「あ、ありがとうございます」


 ソフィアが瓶の札を確認する。


 洸太はその文字を見た。


 やはり読めない。


「……文字は読めないのか」


 洸太が呟くと、ソフィアが振り返った。


「文字?」


「あ、いや。会話はできるのに、文字は読めないんだなと思って」


 三人が顔を見合わせた。


「会話は普通に通じてるよね?」


 ミーナが言う。


「はい。なぜか」


「でも文字は読めない?」


「はい」


「変なの」


「俺もそう思います」


 洸太は水を受け取り、少しずつ飲んだ。


 喉が潤う。


 それだけで、自分がどれだけ弱っているのか分かった。


 会話は通じる。

 文字は読めない。

 常識はない。

 身分証明もない。

 金もない。

 怪我人である。


 詰んでいる。


 四十一歳にして、異世界で初期装備が寝間着と折れた肋骨。

 なかなか渋い縛りプレイである。


「俺たちが見つかった時のこと、聞くか?」


 ルークが言った。


「お願いします」


「俺とミーナは、街の商会から採取依頼を受けて森に入ったんだ。浅い場所で、そんなに危ない仕事じゃないはずだった」


「でも、あの大きな猪が出たの」


 ミーナの声が少し小さくなる。


「滅多に出ないんだよ。あんな大きいの。だから油断してた。私たちも、商会の人たちも」


「帰りが遅くなって、商会が捜索を出したらしい」


 ルークが続ける。


「森の方で火柱みたいなのが見えて、煙も上がってたんだと。で、捜索隊が向かったら、焼け焦げた猪野郎と、倒れてる俺たち三人がいた」


「三人とも、街まで運ばれました」


 ソフィアが言った。


「ルークとミーナはこの街の人たちにもよく知られていますから、すぐに私のところへ。あなたも一緒に運び込まれました」


「俺まで……」


「当然だろ」


 ルークが即座に言った。


「あんた、ミーナ助けて死にかけてたんだぞ。置いてくわけねえだろ」


「まあ、それはそうか」


「それはそうだよ!」


 ミーナが力強く頷く。


 洸太は少しだけ笑った。


 助けたつもりで、助けられていた。


 妙な感じだった。


 慣れない。


 とても、慣れない。


 その時、扉の外から声がした。


「ソフィアさん、薬草を持ってきたよ」


 ソフィアが顔を上げる。


「ありがとうございます。どうぞ」


 扉が開き、小柄な老婆が入ってきた。


 白くなった髪を後ろでまとめ、背中は少し丸い。だが、目だけは不思議とよく笑っていた。


 腕には薬草の束を抱えている。


「あら、目を覚ましたのかい」


 老婆は洸太を見て、柔らかく笑った。


「はい。ご迷惑をおかけしています」


「礼儀正しい人だねえ」


 老婆はそう言って、ソフィアへ薬草を渡した。


「いつものと、熱冷ましに使えるのも少し持ってきたよ。ここのところ冷えるからね」


「助かります」


「ルークもミーナも、あんまり無茶するんじゃないよ」


「う……はい」


「分かってるって」


「分かってる子は、森で焼け焦げた魔物のそばに倒れてたりしないもんさ」


 老婆の言葉に、ルークが何も言えなくなる。


 強い。


 この老婆、強い。


 洸太は妙な感心を覚えた。


 老婆は部屋を出る前に、もう一度だけ洸太を見た。


 ほんの一瞬。


 何かを思い出しかけたような顔をした。


 だが、すぐに困ったように笑う。


「早く良くなるんだよ」


「ありがとうございます」


 洸太が頭を下げると、老婆は小さく手を振って出ていった。


 扉が閉まる。


 ミーナが小さく笑った。


「あのおばあちゃん、いつも薬草とか野菜とか持ってきてくれるの」


「へえ」


「口は優しいけど、怒ると怖いぞ」


 ルークが真顔で言った。


「今ので少し分かった」


 洸太は頷いた。


 世界が変わっても、強いお年寄りというものは存在するらしい。

 人類共通の財産である。


 ソフィアが薬草を棚に置き、洸太へ向き直った。


「コータさん」


「はい」


「あなたには、行くあてがありますか」


 部屋の空気が、少し変わった。


 洸太は答えに詰まった。


 行くあて。


 ない。


 日本がどこか分からない。

 この街のことも分からない。

 文字も読めない。

 金もない。

 身分証明もない。

 怪我人である。


 さらに言えば、この世界で自分が法的にどういう存在なのかも分からない。


 不法入国どころではない。

 たぶん次元から無断侵入している。


「……ない、ですね」


 洸太は正直に答えた。


「しばらくは、ここで身体を休めてください」


「いや、そこまで世話になるわけには」


 反射的に言った。


 言ってから、自分でも分かった。


 この状況で遠慮してどうする。


 だが、口が勝手に動くのだ。


 世話になるな。

 迷惑をかけるな。

 自分で何とかしろ。


 昔から身体に染みついている声が、勝手に背中を押してくる。


 ソフィアは静かに言った。


「では、その身体でどこへ行くのですか?」


 洸太は黙った。


「文字も読めず、この街のことも分からず、お金も使えないあなたが」


「それは……」


「それに、あなたはまだ治療中です。今無理をすれば、助かるものも助からなくなります」


 言葉は穏やかだった。


 だが、逃げ道は塞がれていた。


 優しいのに、論理が硬い。

 こういう人は仕事ができる。洸太は妙なところで感心した。


「いいから世話になっとけよ、オッサン」


 ルークが雑に言った。


「あんたが遠慮して出てったら、助けられたこっちが寝覚め悪いだろ」


「そうだよ。コータおじさん、まだ顔色悪いもん」


 ミーナも頷く。


「それに、私たち、ちゃんとお礼したい」


「お礼なんて」


「したいの」


 ミーナの声はまっすぐだった。


 洸太は言葉を失った。


 礼を受け取るのは苦手だった。


 感謝されるのも苦手だった。


 自分がやったことに、そんな大層な意味を持たせないでほしいと思ってしまう。


 ただ、身体が動いただけだ。


 ただ、目の前で誰かが危なかっただけだ。


 ただ、自分が空いていただけだ。


 空いている椅子に荷物を置くように。

 落ちている書類を拾うように。

 残業して資料を直すように。


 その延長だった。


 けれど。


 ミーナは生きている。


 ルークも生きている。


 ソフィアは頭を下げてくれた。


 ならば、それをなかったことにするのも、違うのかもしれない。


「……すみません。しばらく、お願いします」


 洸太は小さく頭を下げた。


 ソフィアは穏やかに微笑む。


「はい。まずは、謝るより休んでください」


「はい。すみません」


「コータさん」


「……はい」


「謝るより、休んでください」


 ルークがまた笑った。


 ミーナも笑った。


 洸太も、少しだけ笑った。


 胸が痛んだ。


 けれど、それは悪い痛みではなかった。


 やがて、薬が効いてきたのか、洸太のまぶたが重くなってきた。


 ソフィアが気づき、静かに布をかけ直す。


「眠ってください。次に目が覚めた時には、もう少し楽になっているはずです」


「……二人、本当に無事なんですよね」


 洸太は、眠気の中でまた尋ねた。


 ルークが呆れたように息を吐く。


「無事だって言ってんだろ」


「うん。ここにいるよ、コータおじさん」


 ミーナが笑う。


 ソフィアも頷いた。


「ええ。無事です」


「……なら、よかった」


 洸太は安心したように目を閉じた。


 すぐに、寝息が聞こえ始める。


 ルークとミーナはしばらくその顔を見ていた。


「変なオッサンだな」


 ルークが小さく言う。


「うん。でも、いい人だよ」


 ミーナが答える。


 その言い方があまりにも迷いなくて、ルークは少しだけ笑った。


「雑だな、お前」


「だって、いい人だもん」


「理由になってねえ」


「なってるよ」


 ミーナは胸を張った。


 ルークは肩をすくめる。


「まあ、悪い奴じゃねえのは確かだな」


 そう言うルークの声も、先ほどより少しだけ柔らかかった。


 ソフィアは、眠る洸太の顔を見つめていた。


 不思議な人だと思った。


 目を覚まして最初に聞いたのは、自分の怪我ではなく、ルークとミーナの安否。


 礼を言えば困ったように笑い、世話になる話になれば、まず遠慮する。


 年上の男性が、自分より若い二人に感謝され、寝台の上で世話を焼かれている。

 居心地が悪いのだろう。

 面映ゆいのだろう。


 そう思えば、不自然ではない。


 ただ。


 この人は、ソフィアが守ってきたものを、なんの見返りもなしに守ってくれた。


 そのことだけは、胸に静かに残った。


 それが何を意味するのかまでは、まだ分からない。

 考えるほどのことだとも思っていない。


 今はただ、ルークとミーナの恩人として。

 そして、怪我を負った患者として。


 この人を、きちんと休ませて、回復させなければならない。


 今は、それでよかった。

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