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第1話 助けることしかできない男

# 第1話 誰かを助けるだけの男


 十二月二十四日。


 世間一般では、クリスマスイブと呼ばれる日である。


 恋人たちは浮かれ、家族連れはケーキを買い、駅前のイルミネーションは無駄に張り切り、コンビニのチキンは普段より少しだけ高そうな顔をして並ぶ。


 そんな日に、会社の蛍光灯の下で一人、資料の修正をしている男がいた。


 中野洸太、四十一歳。


 肩書きは係長。


 独身。


 恋人なし。


 家族なし。


 予定なし。


 こうして並べると、なかなかの破壊力である。本人が読んだら「やめろ、事実を箇条書きにするな」と言いたくなる程度には。


 もっとも、洸太自身はそこまで深刻に考えていなかった。


 正確に言えば、深刻に考えないようにするのが上手くなっていた。


「……ここ、数字合ってないな」


 洸太は眼鏡の位置を直し、モニターに映った資料を睨んだ。


 若手の高野が作った資料だった。


 悪くはない。むしろ、入社数年目にしてはよくまとまっている。


 ただ、細かいところが甘い。


 集計範囲が一行ずれていたり、前回資料の文言が残っていたり、グラフの凡例が妙に自己主張していたりする。


 別に今日中でなくてもいい。


 明日の朝に高野へ突き返してもいい。


 だが、明日の朝に直させると、高野は朝から半日潰れる。


 それに、今日はクリスマスイブだ。


 高野には彼女がいる。


 さっきからそわそわしていた。


 だったらまあ、自分が直せばいい。


 洸太はそう判断した。


 判断というほど立派なものでもない。


 空いている椅子に荷物を置く。


 落ちている書類を拾う。


 そんな程度の感覚だった。


「係長」


 遠慮がちな声がした。


 顔を上げると、高野が立っていた。コートを腕にかけ、鞄を持っている。帰る準備は済んでいるのに、どこか迷っている顔だった。


「どうした」


「いや、その……変なこと聞いてもいいですか」


「内容による」


 洸太がそう答えると、高野は少しだけ苦笑した。


「最近、彼女が誰かにつけられてるかもって言ってて」


 洸太の手が止まった。


「ストーカーか?」


「まだ分からないんです。本人も、気のせいかもしれないって。でも、何度か同じ男を見たって言ってて」


「警察には?」


「いや、まだ何かされたわけじゃないし……」


「何かされてからじゃ遅いだろ」


 洸太は即答した。


 高野が黙る。


 洸太は軽く息を吐いた。


「怖がってるなら相談だけでもしておけ。警察じゃなくても、駅員でも、店でも、誰でもいい。あと今日は一人で待たせるな」


「……はい」


「資料は俺が見ておくから、早く行け」


「え、でも」


「いいから行け。彼女、不安なんだろ」


「でも、係長の仕事が」


「俺には予定がない」


 洸太はそう言って、画面に視線を戻した。


「それに、お前が隣にいてやった方がいい日だろ。今日は」


 高野はしばらく何か言いたそうにしていた。


 だが、結局、深く頭を下げた。


「すみません。お願いします」


「謝るな。ラーメン奢れ」


「安くないですか」


「じゃあ餃子も」


「分かりました。大盛りで」


「よし。行け」


 高野はもう一度頭を下げ、足早にオフィスを出ていった。


 その背中を見送ってから、洸太は再び資料に向き合った。


 警察に相談しろ。


 駅員でもいい。


 誰でもいい。


 高野にはそう言った。


 正しいことを言ったつもりだった。


 ただ、それで全部がどうにかなるほど、世の中が親切にできていないことも、洸太は知っていた。


「……早く直すか」


 画面の数字を確認し直す。


 資料の修正に戻る。


 自分にできることは、それくらいだった。


「お前、まだ残ってたのか」


 しばらくして、背後から声がした。


 振り返ると、柿崎が立っていた。


 同期入社の男だ。


 今では部長である。


 洸太が係長で、柿崎が部長。


 世間的に見れば、勝敗はなかなか分かりやすい。


 ただし、洸太はその勝敗表をまともに見たことがない。見たところで、晩飯が豪華になるわけでもないからだ。


「高野の資料、ちょっと直してる」


「高野は?」


「帰した。彼女がちょっと怖い目に遭ってるかもしれないって言うから」


 柿崎の眉が動いた。


「ストーカーか?」


「かもしれない、って話だな。今日は早く合流しろって言っといた」


「で、お前が残ってるわけか」


「まあ、資料は今日中に直しておいた方がいいし」


 柿崎は眉間に皺を寄せた。


「お前なあ」


「大丈夫だって。俺は予定ないし」


「そういう話じゃねえよ」


 柿崎の声には、怒りが混じっていた。


 だが、ただの怒りではない。


 呆れ。


 苛立ち。


 感謝。


 そして、どこか諦めきれないようなもの。


 全部を混ぜて煮詰めたら、たぶんこういう声になる。


「どうしてお前はいつもそうなんだよ」


 洸太は苦笑した。


「いや、資料直してるだけだぞ。そんな大罪みたいに言うなよ」


「大罪だよ、馬鹿」


「ひどいな、部長」


「部長って呼ぶな。余計腹立つ」


 柿崎は深く息を吐いた。


「もう帰れ。残りは明日でいい」


「あと十分」


「お前のあと十分は信用ならん」


「今回は本当に十分」


「お前、前にもそう言って一時間いたぞ」


「記憶力いいな」


「お前のそういうところだけは忘れねえよ」


 柿崎はそれだけ言うと、しばらく黙って洸太を見ていた。


 何か言いたそうだった。


 けれど結局、言わなかった。


「……鍵、閉め忘れるなよ」


「あいよ」


「あと、飯食え」


「コンビニで買う」


「ケーキは?」


「一人でホールケーキはきついだろ」


「ショートケーキにしとけ」


「部長命令か?」


「同期命令だ」


「はいはい」


 柿崎は小さく舌打ちして、オフィスを出ていった。


 その背中を見送ってから、洸太はモニターへ向き直った。


 十分。


 今度こそ本当に十分で終わらせる。


 そう思った。


 実際には、二十五分かかった。


 まあ、誤差である。


     ◇


 会社を出ると、外の空気は冷たかった。


 駅前へ向かう道には、人が多い。


 腕を組んで歩く男女。


 ケーキの箱を持つ父親。


 眠そうな子供を抱いた母親。


 サンタ帽を被った店員。


 どこかの誰かが幸せそうにしている光景は、眩しいというより、少し遠かった。


 別に嫌いではない。


 羨ましくないと言えば嘘になる。


 ただ、そこへ自分が入る絵が想像できない。


 映画館の外から、音の漏れたスクリーンを眺めているような感覚だ。


「あれ、係長?」


 声をかけられた。


 見ると、高野がいた。


 隣には、同じくらいの年頃の女性がいる。彼女だろう。


 高野は洸太を見るなり、分かりやすく顔を曇らせた。


「もしかして、俺の資料で残ってたんですか?」


「違う違う。ちょっと自分の仕事が残ってただけ」


 嘘である。


 だが、社会人というものは、相手の胃に穴を空けないための嘘を覚えていく生き物である。進化って怖い。


「でも……」


「気にするな。俺には恋人も家族もいないしな」


 洸太は軽く笑った。


 冗談のつもりだった。


 高野は困ったように笑い、隣の女性はどう反応していいか分からない顔をした。


 言ってから、洸太は少しだけ思った。


 今のは、どの辺が冗談だったんだろう。


「係長、今度飯奢ります」


「じゃあラーメン大盛りで」


「安くないですか?」


「替え玉もつける」


「それでも安いですよ」


「じゃあ餃子も」


「分かりました。フルセットで」


 高野は少し笑った。


 その笑顔を見て、洸太は安心した。


 若いやつは、こういう日にちゃんと笑っていればいい。


 そう思った。


 その時だった。


 高野の彼女の顔が、強張った。


 洸太はその変化に気づいた。


 彼女の視線は、洸太たちの少し向こうを見ている。


 人混みの中。


 街灯の下。


 一人の男が立っていた。


 コートを着た、痩せた男だった。


 男は、高野の彼女を見ていた。


 いや、睨んでいた。


 その目は、駅前の光景から浮いていた。


 クリスマスイブの人混みの中で、そこだけ温度が違う。


「……あの人です」


 彼女が震える声で言った。


「最近、何度も」


 高野が前に出ようとした。


「おい、あんた――」


 男の顔が歪んだ。


 憎しみなのか、怒りなのか、それとも別の何かなのか、洸太には分からなかった。


 ただ、分かったことが一つある。


 男の右手が、コートの内側へ入った。


 そして、何かが光った。


 刃物だ。


 男が走り出す。


 真っ直ぐに。


 高野の彼女へ向かって。


 高野が固まった。


 女性も動けない。


 洸太は、考えなかった。


 高野の肩を押した。


 女性の前に身体を入れた。


 次の瞬間、背中に熱いものが入った。


「あ……?」


 痛みは、遅れてきた。


 熱い。


 熱いのに、身体の芯が冷えていく。


 高野が何か叫んでいる。


 女性が泣いている。


 周囲が騒いでいる。


 男が取り押さえられる音がした。


 洸太は地面に膝をついた。


 高野の顔が近い。


 泣きそうな、いや、もう泣いている顔だった。


 泣くなよ。


 せっかくのクリスマスイブだろ。


 そんな場違いなことを思った。


 口に出そうとしたが、声にならなかった。


 視界が暗くなる。


 寒い。


 眠い。


 誰かが自分の名前を呼んでいる気がした。


 けれど、それも遠くなった。


     ◇


 夢を見た。


 たぶん夢だ。


 真っ暗な場所で、誰かの声がした。


 女の声だったような気もするし、男の声だったような気もする。


 若いような、年老いているような。


 近いようで、遠い。


 耳元で囁かれているようで、空の上から降ってくるようでもあった。


 ――起きなさい。


 眠い。


 洸太はそう思った。


 ――あなたは、死……


 死んだのか。


 なら、なおさら寝かせてほしい。


 会社で残業して、駅前で刺されて、死んだ後まで起きろと言われるのは、なかなかブラックである。


 労基署は死後の労働にも対応しているのだろうか。


 ――もう一度……


 何か言っている。


 大事なことのような気はした。


 だが、眠い。


 ――自分の……


 自分の。


 何だ。


 自分の何を。


 ――魂……


 その言葉だけが、妙に胸の奥に沈んだ。


 けれど、意味は分からない。


 分からないまま、洸太の意識はさらに深く沈んでいった。


     ◇


 目が覚めた。


 まず、空が見えた。


 青かった。


 会社の天井ではない。


 病院の天井でもない。


 駅前のアスファルトでもない。


 青い空。


 白い雲。


 知らない鳥の声。


 頬に触れる草の感触。


 洸太はしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくり口を開いた。


「……どこだ、ここ」


 非常に正しい反応だった。


 少なくとも、「異世界転移キター!」と叫ぶほど、洸太の精神は若くなかった。


 背中に手を回す。


 刺されたはずの場所に、傷はない。


 血もない。


 服も破れていない。


 ただし、スーツ姿ではあった。


 ネクタイも締めたままだ。


 靴も革靴。


 異世界だろうが何だろうが、革靴で未舗装路を歩かされるのは勘弁してほしい。


 洸太は身体を起こした。


 周囲を見回す。


 森。


 小川。


 石畳の道。


 遠くには町らしきものも見える。


 建物は石造りで、どこかローマ風というか、昔のヨーロッパ風というか、要するに日本ではない。


 スマホを取り出す。


 圏外。


 まあ、そうだろう。


 むしろアンテナが立っていたら怖い。


 財布はある。


 社員証もある。


 定期券もある。


 この世界で使える可能性は、たぶんゼロに近い。


「詰んでるな」


 洸太は呟いた。


 しかし、詰んでいるからといって、ここで寝転がっているわけにもいかない。


 腹も減っている。


 喉も渇いている。


 ここでじっとしていても、警察も救急車も来ない。


 なら、人のいる場所へ行くしかない。


 洸太は立ち上がり、遠くの町を目指して歩き出した。


 革靴で。


 石畳を。


 四十一歳の身体で。


 人生はいつだって、足元から厳しい。


     ◇


 二時間ほど歩いた。


 体感では、もっと長い。


 普段から運動しているわけでもない中年男性に、知らない土地の徒歩二時間はなかなか効く。


 膝が笑い、ふくらはぎが文句を言い、革靴は明らかに職務範囲外ですと訴えていた。


 洸太は木陰に腰を下ろした。


「町、遠いな……」


 遠くに見えたものは、だいたい遠い。


 当たり前だが、当たり前というものは実際に歩くと腹が立つ。


 小川の水を飲んでいいものか迷っていると、声が聞こえた。


「誰かっ!」


 女の声だった。


 若い。


 切羽詰まっている。


「誰か、助けて!」


 洸太は立ち上がっていた。


 考えるより先だった。


 声の方向へ走る。


 疲れていた。


 膝も痛い。


 革靴も滑る。


 それでも走った。


 助けを求める声が聞こえた。


 なら、行くしかない。


 それ以外の選択肢は、洸太の中にはなかった。


 枝を払い、草を踏み、息を切らして森の中へ入る。


 獣の唸り声が聞こえた。


 低く、腹の底に響く音。


 洸太は木々の間を抜けた。


「大丈夫か!」


 叫びながら、開けた場所へ飛び出す。


 若い男と少女が、同時にこちらを見た。


 一瞬、二人の顔に希望が浮かんだ。


 助けが来た。


 そう思ったのかもしれない。


 だが、その希望はすぐに困惑へ変わった。


 黒い上下の見慣れない服。


 首元を締める奇妙な布。


 武器はない。


 鎧もない。


 杖も持っていない。


 ついでに、若くもない。


 森から現れたのは、どう見てもただの中年男だった。


 誰だ、このおっさん。


 二人の顔に、ほとんど同じ疑問が浮かんでいた。


 そして、そのおっさん本人も固まっていた。


 そこにいたのは、猪だった。


 いや、猪と呼んでいいのか分からない。


 洸太が知っている猪は、せいぜいニュース映像で見る山の獣だ。


 畑を荒らしたり、住宅街に出たり、猟友会の人たちが対応したりする、あれである。


 目の前のそれは違った。


 でかい。


 熊ほどある。


 肩の高さだけで人の胸ほどあり、反り返った牙は短刀のようだった。


 前足が土を削るたび、地面が抉れる。


 洸太の思考は止まった。


 何だ、これ。


 それ以上の言葉が出てこない。


 剣を持った若い男がいる。


 地面に膝をついた少女がいる。


 少女の手には、小さな火が灯っている。


 ありえないものが多すぎて、頭が処理を拒否した。


 若い男は、二十歳くらいだろう。


 剣を持っている。


 ただし、姿はひどい。


 額から血が流れ、服は裂け、肩で息をしている。


 片腕の動きも鈍い。


 立っているだけで精一杯に見えた。


 それでも男は笑っていた。


 笑おうとしていた。


「こっちだ、化け物」


 声はかすれていた。


 だが、挑発するように剣を向ける。


 猪の目が男を捉えた。


 その少し後ろ。


 地面に膝をつく少女がいた。


 こちらも二十歳くらいだろう。


 栗色の髪。


 土で汚れた頬。


 革のブーツ。


 片脚をかばっている。


 立てないわけではないのかもしれない。


 だが、走れない。


 走れなければ、あの猪から逃げることはできない。


 少女は両手を前に出していた。


 指先に、小さな火が灯る。


「ルーク、もうやめて!」


 少女が叫んだ。


 男――ルークは振り返らない。


「黙ってろ、ミーナ! 隙を見て逃げろ!」


「無理だよ! そんなの、ルークが――!」


「いいから!」


 ルークは怒鳴った。


 怒鳴ることで、震えを隠しているようだった。


 ミーナの火球が放たれた。


 小さな炎が猪の横腹に当たる。


 毛皮が焦げた。


 それだけだった。


 猪は怒ったように鼻を鳴らし、ルークへ突進した。


「っ!」


 ルークは横へ飛ぶ。


 飛ぶ、というより倒れ込むに近い。


 牙がかすめ、ルークの身体が弾かれた。


 地面を転がる。


 それでも、剣を支えに立とうとする。


「ルーク!」


 ミーナが悲鳴を上げる。


 猪が旋回する。


 ルークはまた笑った。


 血まみれの顔で。


「こっちだ……まだ、俺は立ってるぞ」


 洸太は歯を食いしばった。


 馬鹿だ。


 そう思った。


 若いのに。


 身体がもう限界なのに。


 逃げればいいのに。


 だが、逃げない理由も分かってしまった。


 ミーナがいる。


 彼女が逃げられない。


 だからルークは逃げない。


 猪がまた地面を掻いた。


 ルークは剣を構える。


 構えと言えるほど綺麗なものではない。


 血に濡れた手で柄を握り、震える膝を無理やり伸ばしているだけだ。


 だが、その目だけは死んでいなかった。


 近づけば刺す。


 噛みつかれても斬る。


 牙に貫かれても、喉元に刃を届かせる。


 そんな、手負いの獣じみた気配があった。


 猪はそれを理解していた。


 目の前の獲物は弱っている。


 だが、まだ危ない。


 倒れているように見えて、牙を隠している。


 油断すれば、こちらも血を流す。


 それに比べて――。


 濁った目が、地面に膝をつくミーナへ向いた。


 あちらの獲物は逃げられない。


 放たれる火も、毛皮を焦がすだけ。


 先に潰すなら、そちらだ。


 猪の前足が、土を削った。


「やめろ」


 ルークの声が漏れた。


 猪が低く唸る。


「やめろ……そっちじゃない……!」


 ルークが走ろうとする。


 だが、足がもつれる。


 間に合わない。


 猪がミーナへ向かって突進した。


 ミーナは動けない。


 洸太は、まだ何も考えられていなかった。


 それなのに。


 身体はもう、ミーナへ向かって走り出していた。


 勝てるわけがない。


 間に合うわけがない。


 そもそも、あんなものをどうにかできるはずがない。


 そんな当たり前の判断が、頭のどこかで空回りしている。


 それでも身体は止まらなかった。


 洸太はミーナへ横から飛び込んだ。


 逃がせたわけではない。


 抱えて走れたわけでもない。


 できたのは、ミーナの身体に横からぶつかり、猪の突進コースから無理やり押し出すことだけだった。


 それは救助というより、ほとんどタックルだった。


 ミーナの身体が横へずれる。


 そして、その代わりに。


 洸太の脇腹へ、魔物の肩が叩き込まれた。


 衝撃は音より先に来た。


 洸太の身体が宙に浮く。


 押し出したミーナの体温が離れる。


 背中から地面に叩きつけられた。


 転がる。


 肩が石に当たる。


 脇腹の奥で、乾いた枝が何本も折れるような音がした。


「――っ」


 息ができなかった。


 吸おうとしても、胸が膨らまない。


 吐こうとしても、喉の奥で空気が引っかかる。


 痛い。


 いや、痛いより先に苦しい。


 洸太は口を開けた。


 出たのは声ではなく、薄い息だけだった。


 視界が白く滲む。


 耳鳴りがする。


 身体が動かない。


 まずい。


 これは、まずい。


 洸太は本能的にそう思った。


 だが次に考えたのは、自分のことではなかった。


 ミーナは。


 目だけを動かす。


 少し離れた場所に、ミーナが倒れていた。


 呻いている。


 動いている。


 生きている。


 よかった。


 そう思った瞬間、胸に焼けるような痛みが走った。


 洸太は泥の上で、浅い息を繰り返した。


 起き上がれない。


 声も出ない。


 すぐそばに、ミーナの脚があった。


 泥に汚れたブーツ。


 くるぶしのあたり。


 手を伸ばせば届く距離だった。


 何ができるわけでもない。


 分かっている。


 分かっている、はずだった。


 猪が唸る。


 まだ終わっていない。


 ルークが立っていた。


 いや、立っているとは言えない。


 剣を杖にして、どうにか身体を支えているだけだった。


 肩が落ち、足は震え、顔は血で濡れている。


 それでも、彼は猪へ向かって歩いた。


「ミーナ……逃げろ」


 声は小さかった。


 だが、ミーナには届いた。


 彼女の顔が歪む。


「いや……」


 分かったのだ。


 ルークは止めるつもりではない。


 勝つつもりでもない。


 自分が牙に貫かれる一瞬。


 その一瞬だけ、ミーナが逃げる時間を作るつもりなのだ。


「いやっ! やめて、ルーク!」


 ルークは振り返らなかった。


 振り返れば、足が止まるからだろう。


 洸太はそれを見ていた。


 視界は白く霞んでいる。


 息は浅い。


 胸の奥では、折れた何かが呼吸のたびに悲鳴を上げている。


 それでも見ていた。


 ミーナが泣きながら両手を前に出す。


 指が震えていた。


 火が灯る。


 小さい。


 あまりにも小さい火だった。


 あの猪を倒すには足りない。


 ルークを救うには足りない。


 たぶん、ミーナ自身が一番分かっている。


 それでも、撃つしかない。


「行かないでぇっ!」


 ミーナが叫んだ。


 その声が、洸太の胸に刺さった。


 行かないで。


 置いていかないで。


 死なないで。


 その言葉を、洸太は知っている気がした。


 誰に言ったのか。


 誰に言えなかったのか。


 思い出せない。


 ただ、分かった。


 ひとりになるのは、嫌なのだ。


 失いたくないのだ。


 助けたいのだ。


 そうだよなあ。


 助けたいよなあ。


 死なせたくないよなあ。


 自分なんかどうなってもいいから。


 あの人だけはって、思うよなあ。


 洸太の指先が、泥を掻いた。


 ほんの少し。


 それだけで胸が焼けるように痛む。


 けれど、指は動いた。


 ミーナのブーツへ。


 くるぶしのあたりへ。


 立てない。


 叫べない。


 息を吸うことさえ上手くできない。


 それでも、指だけが動いた。


 何もしないという選択肢だけが、洸太の中になかった。


 震える指先が、革に触れた。


 その瞬間。


 胸の奥で、何かがほどけた。


 鍵が開く音ではなかった。


 扉が開く感覚でもなかった。


 もっと古いもの。


 ずっと押し込められていた何かが、ようやく出口を見つけたような。


 ミーナの両手に灯っていた小さな火が、膨れ上がった。


 赤ではない。


 白に近い、眩しい炎。


 小さな火球だったはずのそれが、少女の身体よりも大きく広がっていく。


 ミーナは気づいていなかった。


 自分の手の中の火が、ありえないほど膨れ上がっていることに。


 涙で顔を歪め、喉が裂けそうな声でルークの名を叫びながら、それでもただ、魔物へ向けて火を放とうとしていた。


 そして最後に俺が見たのは、泣き叫びながら巨大な火球を放とうとする、ミーナの姿だった。


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