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後日譚 俺と、君の望み

※本話は第18話から最終話までの間のお話です。

 始まりは、ミーナの何気ない一言だった。


 いや、何気ない、というには少し鋭すぎたかもしれない。


 その日、洸太は修道院の台所で、昼食に使った皿を片付けていた。隣ではミーナが布巾を持ち、洗い終えた器を棚へ戻している。


 ソフィアは子供たちの様子を見に行っていた。ルークは外で薪を運んでいるはずだった。


 だから、台所には洸太とミーナだけだった。


 ミーナは皿を一枚棚に置くと、何でもない顔で言った。


「洸太」


「なんだ」


「お姉ちゃんと、結婚しないの?」


 洸太の手から、皿が滑りかけた。


 慌てて持ち直す。


 割れなかった。


 危なかった。


 皿も、洸太も。


「……急に何を言うんだ」


「急じゃないよ」


 ミーナは真顔だった。


「ずっと思ってたもん」


「ずっと、か」


「うん」


 ミーナは布巾で手を拭いた。


「お姉ちゃん、待ってるよ」


「……そう見えるか」


「見えるよ」


 即答だった。


 その迷いのなさに、洸太は返す言葉を失った。


「お姉ちゃんは強いよ。たぶん、洸太が何も言わなくても、どんどん先に進めると思う」


「……否定できないな」


「でもね」


 ミーナは少しだけ声を落とした。


「お姉ちゃんは、洸太に言ってほしいんだと思う」


「何を」


「私を選んでください、って」


 洸太は黙った。


 選ぶ。


 その言葉が、思ったより深く胸に入った。


 ソフィアは、いつも洸太に手を伸ばしてくれる。


 帰ってきてください、と言う。


 生きてください、と言う。


 愛しています、と言う。


 欲しいものを、欲しいと口にする。


 けれど、だからといって、ソフィアがすべてを奪いにくるわけではない。


 彼女は待っている。


 洸太が、自分の足で来るのを。


「洸太は、お姉ちゃんのこと好き?」


「……好きだ」


「一緒にいたい?」


「ああ」


「じゃあ、なんで言わないの?」


 簡単な問いだった。


 簡単すぎて、痛かった。


「……怖いんだと思う」


「断られないのに?」


「断られないと思っていても、怖いものは怖い」


 言ってから、洸太は自分で苦笑した。


「情けないな」


「情けなくないよ」


 ミーナは首を振った。


「でも、言ってあげて。お姉ちゃん、きっとすごく嬉しいから」


 その言葉は、責めるものではなかった。


 ただ、真っ直ぐだった。


 太陽のように。


 逃げ場がないほどに。


 その頃、台所の扉の前で、ルークは完全に固まっていた。


 薪を運び終え、何気なく中へ入ろうとしたのだ。


 そして、聞いてしまった。


 お姉ちゃんと、結婚しないの。


 入ってはいけない。


 本能がそう告げていた。


 魔物の気配を察した時よりも、はっきりと。


 ここで入れば、洸太は逃げる。


 ミーナは怒る。


 ソフィア姉にも知られる。


 そしてたぶん、なぜか自分が悪いことになる。


 ルークは静かに扉から手を離した。


 足音を殺す。


 呼吸まで殺す。


 魔物の巣穴から退く時よりも慎重に、彼は一歩下がった。


「ルーク」


 背後から声がした。


 心臓が止まりかけた。


 振り向くと、ソフィアが立っていた。


「洸太さんとミーナを見ませんでしたか」


「……見てねえ」


「ルーク」


「……」


「嘘ですね」


 早い。


 あまりにも早い。


 ルークは、口の中が乾くのを感じた。


 唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。


 最近のソフィア姉からは、時々、一流の剣士にも劣らない圧を感じることがある。


 剣を抜いているわけではない。


 怒鳴っているわけでもない。


 ただ、静かにこちらを見ているだけだ。


 それなのに、退けば斬られる気がする。


 死線。


 まさにルークは、そこに立っていた。


 ソフィアは台所の扉へ視線を向けた。


「中にいるのですね」


「待ってくれ、ソフィア姉」


 ルークは思わず前に出た。


 自分でも驚くほど必死だった。


「今は駄目だ」


「なぜですか」


「今は、入っちゃいけねえ」


「なぜですか」


 静かな声だった。


 怒鳴られた方がまだましだった。


「あいつが、自分で言わなきゃいけねえことがあるんだと思う」


 ソフィアの目が、わずかに揺れた。


「洸太さんが」


「ああ」


「自分で」


「ああ」


 ルークは扉を背にしたまま、続けた。


「ソフィア姉が行ったら、洸太はたぶん逃げる」


「……」


「あいつは、言われたことならやる。助けろって言われたら助けるし、帰ってこいって言われたら帰ってくる」


 ルークは、自分の言葉を探した。


「でも、今は違うんだろ」


 ソフィアは扉を見つめていた。


 その向こうに、洸太がいる。


 ミーナがいる。


 何を話しているのか、知りたい。


 今すぐ確かめたい。


 けれど。


 ルークの言葉は、たぶん正しかった。


 洸太さんが、自分で言わなければならないこと。


 私が聞き出してはいけないこと。


 欲しいからこそ、奪ってはいけない言葉。


 それが、今あの扉の向こうにある。


 ソフィアは、小さく息を吐いた。


「……分かりました」


 ルークの肩から力が抜けかけた。


「今回だけ、待ちます」


「助か――」


「でも、ルーク」


 抜けかけた力が戻った。


「はい」


「次はありませんよ」


「……分かった」


「返事」


「……分かりました」


「よろしい」


 ソフィアはそれだけ言うと、静かに踵を返した。


 ルークはしばらくその場に立っていた。


 魔物相手なら、剣を抜けばいい。


 罠なら、避ければいい。


 怪我なら、痛みに耐えればいい。


 だが、ソフィア姉は違う。


 静かに見てくる。


 全部見抜いてくる。


 しかも、間違っていない。


 ルークは心の中で、洸太に向かって手を合わせた。


 頑張れ。


 そこは俺には助けられない。


 数日後、洸太は商会にいた。


 用件は仕事ではない。


 いや、仕事のついでではある。


 だが、本命は別だった。


「指輪?」


 グレイスは、帳簿から顔を上げた。


「はい」


「装飾品としての指輪なら、扱えるわよ」


「そうですか」


「ただ、この町には、結婚を申し込む時に指輪を渡す風習はないわ」


「……そうですか」


 洸太は少しだけ肩を落とした。


 グレイスはそれを見て、楽しそうに笑った。


「でも、あなたの世界では大事な形なんでしょう?」


「はい」


「なら、それでいいじゃない」


「いいんでしょうか」


「いいのよ」


 グレイスは帳簿を閉じた。


「ソフィアさんにとって大事なのは、この町の風習かどうかじゃないわ。あなたが、自分の世界で大事にされていた形を、彼女に渡そうとしていることよ」


 洸太は黙った。


「それに」


 グレイスは口元に手を当てた。


「彼女、きっと喜ぶわよ」


「……だといいんですが」


「あら、そこは疑うのね」


「疑っているわけでは」


「断られると思っているの?」


「思っていません」


「では?」


「……怖いんです」


 グレイスは少しだけ目を細めた。


 からかうような笑みが消えた。


「そう」


「はい」


「なら、怖いまま言いなさい」


「怖いまま、ですか」


「ええ。怖くなくなるまで待っていたら、人生なんてすぐ終わってしまうもの」


 洸太は、言葉を返せなかった。


 それから数日、洸太はどうにかプロポーズをしようとした。


 まず、ソフィアを町の外れの丘へ誘おうとした。


 見晴らしが良く、夕方には空がきれいに染まる場所だった。


 グレイスが言っていた。


 雰囲気も大事よ、と。


 だが、そこへ向かう途中でソフィアが洸太の顔を見た。


「洸太さん」


「はい」


「顔色が悪いです」


「そうですか」


「戻りましょう」


「いや、少し歩くだけなので」


「戻りましょう」


「……はい」


 失敗した。


 次に、修道院の庭で二人きりになる機会を狙った。


 しかし、子供たちがついてきた。


「ソフィア先生、洸太も一緒に遊ぼう!」


「洸太、こっち!」


「今日は何するの?」


 ソフィアは微笑んだ。


「少しだけですよ」


 洸太は、指輪の入った小さな箱を服の内側で握りしめた。


 少しだけ。


 その少しだけは、夕方まで続いた。


 失敗した。


 夜に言おうともした。


 しかし、その晩の洸太は明らかに様子がおかしかった。


 ソフィアは寝台の端に座り、じっと洸太を見た。


「洸太さん」


「はい」


「最近、無理をしていますね」


「そんなことは」


「しています」


「……」


「今日はもう休んでください」


「いや、少し話が」


「明日にしましょう」


「……はい」


 失敗した。


 陽子にも見抜かれた。


「洸太」


「なんだよ、母さん」


「あんた、何をそんなに煮詰まってるんだい」


「煮詰まってるかな」


「鍋なら焦げてるよ」


「……」


 陽子は呆れたように笑った。


「格好つけすぎるんじゃないよ」


「分かってる」


「でも、雑にするんじゃないよ」


「……分かってる」


「自分の言葉で言いな」


「それも、分かってる」


「分かってる顔じゃないね」


 分かっているつもりだった。


 だが、分かっていることが多すぎた。


 ミーナは言った。


 お姉ちゃんには洸太から言ってほしい、と。


 グレイスは言った。


 雰囲気も大事だ、と。


 陽子は言った。


 格好つけすぎるな、でも雑にするな、と。


 ルークは言った。


 ソフィア姉を泣かせたら斬る、嬉し泣きならたぶん許す、と。


 子供たちは言った。


 ソフィア先生をびっくりさせるの、と。


 どれも善意だった。


 どれも間違っていなかった。


 だからこそ、洸太の頭の中で、全部が絡まった。


 自分から言う。


 特別な日にする。


 雰囲気を作る。


 雑にしない。


 格好つけすぎない。


 泣かせない。


 喜ばせる。


 逃げない。


 言い間違えない。


 倒れない。


 結果、倒れた。


「洸太!」


 最初に声を上げたのはミーナだった。


 食堂の椅子から立ち上がろうとした洸太が、ふらりと揺れた。


 ルークが反射的に支えた。


「おい、洸太!」


「……悪い」


「悪いじゃねえよ。何やってんだ」


 洸太は返事をしようとして、できなかった。


 目の前が少し白い。


 熱がある。


 たぶん、知恵熱というやつだ。


 命を賭ける時には出ない熱が、結婚を申し込もうとしただけで出た。


 我ながら情けない。


「救護室へ運ぶぞ」


 ルークが言った。


 洸太は止めようとしたが、身体に力が入らなかった。


 ルークに担がれながら、彼は思った。


 本当に、格好がつかない。


 洸太が運ばれたのは、救護室だった。


 初めてこの世界で目を覚ました場所。


 初めてソフィアと会った場所。


 洸太は寝台に寝かされた。


 ソフィアはすぐに額へ手を当てた。


 その顔は、完全に看病する者の顔だった。


 不安と、心配と、少しの怒りが混ざっている。


「熱があります」


「少しだけです」


「少しだけではありません」


「……はい」


 ソフィアは濡らした布を洸太の額に置いた。


「ここ最近の洸太さんは、ちょっと、いえ、かなりおかしいです」


 直感だけで、ほとんど当ててくる。


 洸太は苦笑しそうになった。


「私には言えないことが、何かあったんですか?」


「……ここは」


「はい?」


「ここは、俺と君が初めて会った場所だということを、覚えているかな」


 ソフィアは少しだけ目を丸くした。


 それから、苦笑した。


「そうですね。あの時も同じように、洸太さんはここで寝ていました」


「あの時も、今も、本当に格好がつかないよ」


「そんなことは――」


「本当は」


 洸太は、ソフィアの言葉を遮った。


 遮らなければ、また言えなくなる気がした。


「もっと色々考えたんだ。こうしたら、とか、ああしたら、とか」


 ソフィアの表情が、わずかに曇った。


「でも、全部失敗した。本当に情けない」


「洸太さん」


「だけど」


 洸太は息を吸った。


 喉が渇いている。


 心臓がうるさい。


 魔物の前に立つ時より、ずっと怖い。


「君が俺に勇気をくれたら、もしかしたら出来るかもしれない」


「勇気、ですか?」


「……俺のことを、愛してると言ってくれないか」


 ソフィアは、一瞬だけきょとんとした。


 それから、柔らかく笑った。


「はい。愛しています」


 あまりにも自然に。


 あまりにも当然のように。


 ソフィアは言った。


「これで、勇気は出ましたか?」


 洸太は、目を閉じた。


 この人の前で、自分は何度勇気を出しただろう。


 いや。


 何度、勇気を出させてもらっただろう。


 名前を呼ぶ時も。


 帰ると言う時も。


 母と向き合う時も。


 自分の弱さを見る時も。


 いつも、この人がいた。


 それなのに、まだ怖い。


 もし断られたら。


 そんなことはないと思っていても、怖い。


 拒絶が怖い。


 けれど。


 俺は、この人と。


「ソフィア」


「はい」


「これを」


 洸太は、服の内側から小さな箱を取り出した。


 何度も握りしめたせいで、少しだけ角が歪んでいた。


 ソフィアはそれを受け取った。


 ゆっくりと開ける。


 中には、小さな銀の指輪があった。


「指輪……ですか?」


「ああ」


 洸太は頷いた。


「俺がいた世界では、自分の伴侶となる人に指輪を渡して、結婚を申し込む風習があるんだ」


 ソフィアの視界が、涙で滲み始めた。


 指輪が揺れる。


 箱を持つ指先が震える。


「本当は、こんな日くらい」


 洸太は言った。


「君にとっての特別になりたかった」


「……」


「でも、全部失敗した」


 情けない。


 本当に情けない。


 それでも、もう逃げない。


「だから、俺にはもう、これしか残ってない」


 洸太は、ソフィアを見た。


「ソフィア」


「……はい」


「愛してる」


 ソフィアの涙が、ひとつ落ちた。


「俺と、結婚して欲しい」


 返事は、言葉にならなかった。


 ソフィアは箱を寝台の脇に置くと、そのまま洸太へ抱きついた。


 洸太の胸に顔を埋める。


 何度も、何度も頷く。


 声を出そうとしても、出なかった。


 はい、と言いたい。


 喜んで、と言いたい。


 ずっと待っていました、と言いたい。


 けれど、言葉が追いつかない。


 ただ、頷くことしかできなかった。


 なんて馬鹿な人。


 なんて愛しい人。


 私にとって、あなたとの毎日が、全部特別だったなんて、思いもしないのでしょう。


 朝、隣で目覚めること。


 行ってらっしゃいと言えること。


 帰ってきてくださいと願えること。


 ただいま、と呼んでもらえること。


 名前を呼ばれること。


 小さな傷を治してもらうこと。


 困った顔で私を見ること。


 全部。


 全部、特別だった。


 今も。


 この時も。


 ずっと、特別。


 だから、もっと分かってもらわなければ。


 洸太は、しばらくソフィアを抱きしめていた。


 やがて、少しだけ落ち着いたソフィアが顔を上げる。


 目元は赤い。


 けれど、表情は幸せで満ちていた。


「ソフィア」


「はい」


「指輪を」


「指輪、ですか」


「こうするんだ」


 洸太は箱から指輪を取り出した。


 ソフィアの左手を取る。


「左手を」


「……はい」


 ソフィアは素直に左手を差し出した。


 洸太は、その薬指に指輪を嵌めた。


 ゆっくりと。


 確かめるように。


「俺のいた世界では、結婚を申し込んで、受けてもらえたら。こうして、指輪を嵌めるんだ」


 ソフィアは、自分の左手を見つめた。


 銀の指輪が、薬指で小さく光っている。


「これで、私は洸太さんの妻になる人、なのですね」


「はい」


「洸太さんの世界の作法で」


「はい」


「私だけに」


「……はい」


 ソフィアは左手を胸に抱いた。


 何度も指輪を見る。


 光にかざす。


 また胸に寄せる。


 洸太を見る。


 また指輪を見る。


「そんなに嬉しいですか」


「嬉しいに決まっています」


「この世界の風習ではないんですが」


「関係ありません」


「関係ないんですか」


「はい」


 ソフィアはきっぱりと言った。


「洸太さんが、洸太さんの世界で大切にされていた形を、私にくださったんです。それが嬉しくないはずがありません」


 洸太は、言葉に詰まった。


 ソフィアは指輪を見つめたまま、微笑む。


「私は、あなたの世界のことを、ほとんど知りません」


「……はい」


「でも今、ひとつ知りました」


「何をですか」


「あなたの世界では、愛する人を妻にしたい時、こうして指輪を贈るのですね」


「……はい」


「では、私はそれを一生大切にします」


 洸太は照れたように視線を逸らした。


「サイズ、合ってますか」


「はい」


「よかった……」


「洸太さん」


「はい」


「もしかして、それも心配で倒れたんですか?」


「……少し」


 ソフィアは泣き笑いの顔になった。


「本当に、馬鹿な人」


「すみません」


「謝らないでください」


「はい」


「愛しい人、と言った方が正しいです」


 その後、ソフィアはしばらく指輪を見続けた。


 洸太が休むべき救護室で、看病しているはずのソフィアの方が、落ち着きをなくしていた。


「洸太さん」


「はい」


「もう一度、お願いします」


「何をですか」


「結婚してください、を」


「……今ですか」


「はい。今です」


「……ソフィア。俺と、結婚してください」


「はい」


「……もういいですか」


「まだです」


「名前の時と同じですね」


「はい」


 ソフィアは幸せそうに微笑んだ。


「何度聞いても、嬉しいものは嬉しいんです」


 救護室から出てきたソフィアは、左手を胸元に大事そうに抱えていた。


 廊下で待っていたミーナが、それを見て目を見開く。


「お姉ちゃん」


「はい」


「……言ってもらえた?」


 ソフィアは答えようとした。


 けれど、指輪を見た瞬間、また目が潤んだ。


「はい」


 それだけで、ミーナも泣いた。


「よかった」


「ミーナ」


「よかったね、お姉ちゃん」


「はい」


 ルークは少し離れたところで、ほっと息を吐いた。


「よかったな、ソフィア姉」


「はい。ルーク」


「なんだよ」


「止めてくれて、ありがとうございました」


「……ああ」


「でも、次はありません」


「まだそれ言うのかよ」


 ソフィアはにこりと笑った。


 ルークはそれ以上何も言わなかった。


 生きているだけで十分だった。


 その時、ミーナがソフィアの左手をじっと見た。


 それから、ゆっくりとルークへ視線を向ける。


「ルーク」


「……なんだよ」


「私も、あれしてほしい」


「何をだよ」


「あれ」


 ミーナは、ソフィアの左手を指さした。


 ルークは固まった。


 洸太と目が合う。


 洸太は小さく言った。


「頑張れ」


「お前のせいだろ」


 ミーナは真っ直ぐにルークを見ていた。


「お姉ちゃん、すごく嬉しそうだった」


「……」


「私も、ルークからそういう形でもらいたい」


 ルークは天井を仰いだ。


 救護室の前で、またひとつ戦場が開いた。


 後日、ソフィアはグレイスの商会を訪れた。


 修道院で使う薬草と布の受け取りが目的だった。


 目的だったはずだ。


 だが、その日ソフィアは、やたらと左手を大切そうにしていた。


 荷を受け取る時も。


 帳簿に目を通す時も。


 お茶を飲む時も。


 ふとした拍子に、左手の指輪を見つめては、ふわりと微笑む。


 グレイスはそれを見て、すぐに察した。


「ソフィアさん、その指輪は?」


 ソフィアは、待っていましたと言わんばかりに左手をそっと見せた。


 本人にそのつもりはない。


 たぶん、ない。


「洸太さんにいただきました」


「まあ、綺麗ね」


「はい」


 ソフィアの声は、いつもより少し甘かった。


「洸太さんの世界では、伴侶にしたい人へ指輪を贈るそうです」


「そうなの」


「はい」


 ソフィアは指輪を見た。


「洸太さんが、私に」


 その一言に、すべてが詰まっていた。


 周囲にいた女性たちが、興味津々で話を聞いた。


 異国の風習。


 愛する人へ贈る指輪。


 ソフィアがあれほど幸せそうにしているもの。


 噂は、あっという間に広まった。


 しばらくの間、この町では、結婚を申し込む時に指輪を渡すという、出所のよく分からない風習が流行った。


 グレイスの商会には、指輪の注文が増えた。


 グレイスは帳簿を眺め、満足そうに笑った。


「美味しい商売になったねえ」


 濡れ手に粟だった。


 初めて出会った場所で、洸太はようやく、自分の望みを差し出した。


 そしてソフィアは、それを両手で抱きしめた。

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