後日譚 託されたもの
*後日譚「俺と、君の望み」の続編です。
一 指輪と、余計な話
*
その夜、俺はソフィアの部屋にいた。
いや、正確に言えば、連れていかれた、の方が近いかもしれない。
救護室で指輪を渡した。
愛していると告げた。
俺と結婚してほしい、と言った。
ソフィアは、返事もできないまま泣いて、何度も何度も頷いてくれた。
そのあと、俺は左手の薬指に指輪を嵌めた。
俺の世界の作法だと、そう説明した。
妻にしたい相手に、指輪を渡すことがあるのだと。
ソフィアは、それを聞いて、また泣いた。
泣きながら笑った。
その笑顔を見て、俺は自分の選択が間違っていなかったのだと、ようやく少しだけ思えた。
そこまではよかった。
問題は、その後だった。
ソフィアは、俺が思っていた以上に、その意味を全身で受け止めてくれた。
文字通り。
本当に、全身で。
だから今、俺はたいへん疲れていた。
寝台の上で、布を肩まで引き上げながら、ひどく重くなった身体を横たえている。
年齢を忘れそうになる世界だ。
命の感覚も、家族の距離も、元の世界とは違う。
けれど、身体は正直だった。
俺は若返ったわけではない。
四十一歳の身体は、愛されたからといって二十歳には戻らない。
そんな当たり前の事実を、俺は今、骨身に染みて感じていた。
隣で、ソフィアが身じろぎした。
ソフィアは、寝台の上で左手を胸の前にかざしていた。
薬指に嵌まった指輪を、何度も、何度も見つめている。
小さな灯りが、少し乱れた金の髪を照らしていた。
普段はきちんと整えられている髪が、今は肩から胸元へほどけるように流れている。
白い肌。
赤く残った頬。
まだ熱を帯びた瞳。
けれど、その視線は俺ではなく、指輪に向けられていた。
つい先ほどまで、あれほど俺を離さなかった人が、今はまるで世界で一番大切な宝物を見るような顔で、自分の左手を見つめている。
「……そんなに嬉しいですか」
俺がそう言うと、ソフィアは即座に頷いた。
「はい」
迷いのない返事だった。
「とても」
ソフィアは、指輪にそっと唇を寄せた。
その仕草を見た瞬間、胸の奥が妙にくすぐったくなった。
俺は視線を逸らした。
駄目だ。
こういう時、どういう顔をすればいいのか分からない。
人を助けた後の礼なら、まだ分かる。
仕事の感謝なら、受け流せる。
けれど、自分が渡したものを、こんなふうに大切にされると、どうしていいか分からなくなる。
ソフィアは、指輪を見つめたまま微笑んでいる。
その横顔があまりにも幸せそうで。
俺は、つい余計なことを言った。
「俺のいた世界だと、結婚式でも指輪を嵌めるんですよ」
ソフィアの視線が、ゆっくりこちらへ向いた。
「結婚式でも、ですか」
「はい。みんなの前で、もう一度」
「もう一度」
「誓いの言葉を言って、指輪を交換して……まあ、式の形にもよりますけど」
「はい」
「それから、誓いのキスをして」
「……誓いの、キス」
ソフィアが小さく繰り返した。
俺は、その時点ではまだ気づいていなかった。
気づくべきだった。
目の前にいるのは、俺が指輪の話をしただけで、あそこまで幸せそうに泣き笑いした人なのだ。
俺の世界の結婚式の作法など、うかつに話すべきではなかった。
だが、その時の俺は少し浮かれていた。
いや、かなり浮かれていた。
プロポーズは受けてもらえた。
ソフィアは幸せそうだった。
俺も、たぶん幸せだった。
疲れ切ってはいたが、それでも幸せだった。
だから、口が軽くなっていた。
「あと、花嫁が父親と一緒に歩いて、新郎のところまで来る式もありました」
「父親と」
「はい」
言ってから、少しだけしまったと思った。
ソフィアには、父親がいない。
両親を亡くし、ミーナを守り、修道院で生きてきた人だ。
けれど、ソフィアは悲しそうな顔をしなかった。
ただ、静かに頷いた。
「そうなのですね」
「まあ、全部がそうというわけではないですけど」
「はい」
「俺のいた国でも、人によりますし」
「はい」
ソフィアは、それ以上は聞かなかった。
ただ、もう一度、自分の左手を見つめた。
「素敵ですね」
「そうですか」
「はい。とても」
そう言って、ソフィアは微笑んだ。
俺は少しだけ安心した。
今思えば、安心するところではなかった。
ソフィアは、ただ聞いていただけではなかった。
覚えていたのだ。
指輪を、もう一度。
皆の前で。
誓いの言葉。
誓いのキス。
花嫁が父親と歩き、新郎のもとへ向かう道。
そのすべてを。
「洸太さん」
「はい」
「幸せです」
ソフィアは、ぽつりと言った。
俺は返事に詰まった。
その言葉は、ただ嬉しいだけではなかった。
重かった。
けれど、不思議なほど温かかった。
「……そうですか」
「はい」
ソフィアは俺の方へ身体を寄せた。
そして、指輪を嵌めた左手を俺の胸にそっと置く。
「洸太さん」
「はい」
「もう一度、言ってください」
「何をですか」
「私を、妻にしたいと」
「……」
俺は天井を見た。
今それを言うのか。
いや、さっき言った。
かなり必死に言った。
言うまでに、何度も失敗した。
最後には倒れた。
それでも、ソフィアは見逃してくれないらしい。
「……ソフィア」
「はい」
「俺と、結婚してください」
ソフィアは、ふわりと笑った。
「はい」
その返事は、さっきよりも穏やかだった。
けれど、重みは変わらなかった。
「何度聞いても、嬉しいです」
「何度も言うものですかね、これは」
「私が聞きたいので」
「そうですか」
「はい」
ソフィアは、俺の胸に頬を寄せた。
「私は、あなたの妻になります」
「……はい」
「洸太さんの妻です」
「はい」
「もうすぐ、妻になるのです」
そう言うソフィアの声は、眠たげで、幸せそうで、少しだけ誇らしげだった。
俺は、その髪をそっと撫でた。
何も考えずに撫でた。
ソフィアは、目を細める。
その顔を見て、また余計なことを言いそうになった。
だが、さすがに今度は口を閉じた。
もう十分だ。
今日の俺は、これ以上余計な文化情報を流出させるべきではない。
そう思った。
思っただけだった。
すでに、手遅れだった。
*
二 浮かれポンチ
*
結婚式の準備は、思ったより早く始まった。
というより、俺が何かを考えるより先に、周囲が動いていた。
グレイスさんは、さすが商会の主だった。
式に使う布。
花。
飾り。
料理。
人の手配。
そうしたものが、気づけば少しずつ整っていく。
「グレイスさん、早くないですか」
「何が?」
「準備が」
「商売も式も、段取りが九割よ」
「いや、でも」
「あなたは口を出さなくていいわ」
「俺の結婚式ですよね」
「だからよ」
言い返せなかった。
その横で、ソフィアは幸せそうに微笑んでいた。
「グレイスさん、ありがとうございます」
「いいのよ。こういう幸せな支度は、こちらまで楽しくなるから」
「はい。私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」
「ええ、知っているわ」
グレイスさんは笑った。
最初は、皆そんな反応だった。
微笑ましい。
可愛らしい。
幸せそうで何より。
そんな空気だった。
だが、三日も経つ頃には、町の人々の反応は少しずつ変わっていった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう、ソフィアちゃん」
「私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」
「知ってるよ」
修道院でも。
「ソフィア先生、今日は何するの?」
「洗濯物を畳みます。それから私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」
「昨日も聞いた!」
商会でも。
「ソフィアさん、こちらの布でよろしいですか」
「はい。とても綺麗です。私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」
「ええ、存じております」
井戸端でも。
「今日はいい天気ですね」
「はい。私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」
「天気の話はどこへ行ったんだい」
ソフィアは、会う人ごとにそれを言った。
まるで挨拶の一部のように。
いや、本人の中では、おそらく挨拶だったのだろう。
おはようございます。
今日は良い天気ですね。
私はもうすぐ洸太さんの妻になります。
たぶん、同じくらい自然な言葉になっていた。
俺は何度か止めようとした。
だが、ソフィアがあまりにも幸せそうに言うので、何も言えなかった。
正直に言えば、恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
商会で荷の確認をしている時に、向こうの方から、
「私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」
と聞こえてくると、俺は帳簿に顔を埋めたくなる。
実際、何度か埋めた。
そんなある日のことだった。
修道院の庭で、ソフィアが洗濯物を抱えて通りかかった。
「ミーナ」
「なあに、お姉ちゃん」
「私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」
「知ってる」
「ルーク」
「なんだよ、ソフィア姉」
「私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」
「知ってる」
ソフィアは少し不満そうに首を傾げた。
「もう少し、祝福してくれてもいいと思います」
「祝福はしてる」
ルークが真顔で言った。
「でも、毎回初耳みたいな反応は無理だ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
ミーナが頷いた。
「お姉ちゃん、それ今日何回目?」
「三回目くらいでしょうか」
「八回目だよ」
「そんなに言いましたか?」
「言ったよ」
ソフィアは少し考え込んだ。
たぶん、本当に自覚がなかったのだと思う。
そこへ、庭先にいた陽子が声をかけた。
「本当に、ソフィアちゃん浮かれてるねえ」
「「そう思う」」
ルークとミーナの声が、見事に重なった。
陽子は肩を揺らして笑った。
「あれじゃ、まるで浮かれポンチだよ」
「浮かれポンチ?」
ミーナが首をかしげた。
「なんだそれ」
ルークも眉を寄せる。
陽子は、少し得意げに言った。
「浮かれポンチってのはね、浮かれすぎて周りが見えなくなった人間のことさ」
「「なるほど」」
二人は、妙に納得した顔で頷いた。
「浮かれポンチ……」
ルークが小さく呟く。
ミーナも、何度か口の中でその言葉を転がすように繰り返した。
「なんでかな。初めて聞く言葉なのに、すごくしっくり来ちゃう」
「だな」
陽子は楽しそうに笑った。
「浮かれポンチは、世界が違っても共通だねえ」
三人は、少し離れた場所で花を選んでいるソフィアを見た。
ソフィアは、白い花を一輪手に取り、うっとりと眺めている。
たぶん、式の日の自分を想像しているのだろう。
洸太さんの妻になる自分を。
三人は揃って、呆れたような顔をした。
けれど、誰も嫌そうではなかった。
呆れながら。
困りながら。
それでも、笑っていた。
そこから先は早かった。
町には、ひとつ新しい言葉が広まり始めた。
浮かれポンチ。
意味は、浮かれすぎて周りが見えなくなった者。
誰も聞いたことのない言葉だったはずなのに、町の人々はすぐに意味を理解した。
理由は簡単だった。
目の前に、これ以上ない実例がいたからである。
「最近のソフィアちゃん、何というかねえ」
「浮かれポンチだね」
「ああ、それだ」
「実に分かりやすい」
薬草屋の前でも。
「ソフィア先生、今日も浮かれポンチ?」
「こら、子供がそういうことを言うんじゃありません」
「でも陽子ばあちゃんが言ってた!」
「陽子さん、また変な言葉を」
修道院でも。
「ソフィアさん、式の布はこちらでいいですか」
「はい。とても素敵です。私はもうすぐ――」
「洸太さんの妻になるんですよね」
「はい」
「浮かれポンチですね」
「……浮かれ、何ですか?」
ついに本人の耳にも入った。
ソフィアは、その日の夕方、真剣な顔で陽子のもとへ向かった。
「お義母さん」
「なんだい、ソフィアちゃん」
「浮かれポンチとは、どういう意味ですか」
陽子は、わずかに目を逸らした。
「……誰から聞いたんだい」
「ミーナです」
「ミーナちゃんかい」
「ルークも知っていました」
「広まってるねえ」
「お義母さん」
ソフィアはじっと陽子を見た。
陽子は小さく咳払いをした。
「まあ、褒め言葉ではないねえ」
「私は浮かれてなどいません」
「ソフィアちゃん」
「はい」
「今日、薬草屋の前で三回言ってたよ」
「何をですか」
「もうすぐ洸太さんの妻になる、って」
「……それは、事実です」
「そういうところだよ」
ソフィアは黙った。
しばらく考えていた。
それから、小さく頷いた。
「では、仕方ありません」
「仕方ないのかい」
「はい」
ソフィアは、少しだけ頬を赤くした。
「私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのですから」
陽子は少しだけ目を丸くした。
それから、とうとう吹き出した。
「まったく」
「お義母さん?」
「前に良い女になったって言ったけどね」
「はい」
「今のソフィアちゃんは、浮かれポンチも混じってるねえ」
「……褒めていませんね」
「褒めてないね」
ソフィアは少しだけ頬を膨らませた。
けれど、すぐにその表情もほどけた。
嬉しさが、隠しきれていなかった。
隠す気も、あまりなかったのかもしれない。
その様子を見て、陽子は目を細めた。
ソフィアは、本当に幸せそうだった。
両親を亡くし、妹を守り、修道院で生きてきた女。
自分の望みを、ずっと後回しにしてきた女。
そのソフィアが今、町中に言って回っている。
私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです。
それは、少し困った浮かれ方だった。
けれど。
陽子には、その浮かれ方を笑い飛ばす気にはなれなかった。
からかいはする。
呆れもする。
浮かれポンチとも言う。
それでも、胸の奥は温かかった。
ソフィアがこれほど幸せそうにしていることが。
そして、その相手が洸太であることが。
陽子には、どうしようもなく嬉しかった。
*
三 お義母さん頼み
*
ソフィアが陽子のもとを訪ねたのは、それから数日後のことだった。
結婚式の準備は、少しずつ形になっていた。
修道院の礼拝堂には、白い布が掛けられた。
子供たちは花を集め、ミーナはそれを何度も並べ替えていた。
グレイスは商会の人間を使い、必要な物を抜け目なく揃えていく。
俺は何か手伝おうとして、そのたびに誰かに止められていた。
その頃、ソフィアはひとつ、胸の内で決めていたことがあった。
洸太さんの世界では、花嫁は父親と共に歩き、新郎のもとへ向かうのだと聞きました。
その言葉を、何度も胸の中で繰り返していた。
父親。
ソフィアには、もういない。
母も、父も、幼い頃に失った。
それからずっと、自分がミーナを守る側だった。
誰かに手を引かれて歩く日など、もう自分には来ないと思っていた。
けれど、あの夜、洸太さんは言った。
花嫁が、父親と一緒に歩くのだと。
新郎のところまで、連れていくのだと。
その話を聞いた時、ソフィアの胸に浮かんだ顔は、父ではなかった。
陽子だった。
洸太さんの母。
自分に「お義母さん」と呼ばせてくれた人。
洸太さんが帰れなかった場所の痛みを抱え、それでももう一度、母として立とうとしている人。
だからソフィアは、その日の夕方、陽子の部屋を訪ねた。
「お義母さん」
「なんだい、ソフィアちゃん」
陽子は椅子に腰掛け、子供たちの服を繕っていた。
この人は、いつも何かを直している。
服。
布。
ほつれた糸。
そしてたぶん、言葉にならないものも。
「お願いがあります」
ソフィアがそう言うと、陽子は針を止めた。
「改まってどうしたんだい」
「洸太さんの世界では、花嫁は父親と共に歩き、新郎のもとへ向かうのだと聞きました」
「まあ、そういう式もそれなりに見かけるねえ」
陽子は懐かしそうに目を細めた。
「向こうでも、皆が皆そうするわけじゃないけどね。白い服を着て、教会で、父親と歩いて……そういうのは、まあ、それなりに見かけたよ」
「はい」
「それがどうかしたのかい」
「その役目を、お義母さんにお願いしたいのです」
陽子の手が止まった。
針を持つ指が、わずかに震える。
「……あたしに?」
「はい」
「ソフィアちゃん」
「はい」
「あたしは、あんたの父親じゃないよ」
「はい」
「母親でもない」
「はい」
「それに」
陽子は、少しだけ言いにくそうに続けた。
「あたしは、洸太の母だよ」
「だから、お願いしたいのです」
ソフィアは、迷わず答えた。
陽子が黙る。
部屋の外から、子供たちの笑い声が聞こえた。
遠くでミーナが何かを注意している声もする。
日常の音。
その中で、ソフィアは背筋を伸ばした。
「父親としてではなく、洸太さんの母親として」
陽子をまっすぐ見つめる。
「私に、洸太さんを託してほしいのです」
陽子の唇が、かすかに動いた。
おそらく、何かを言おうとしたのだろう。
自分には資格がない。
そんな役目を受け取るには、足りない。
母親として何もしてやれなかった。
そういう言葉が、出かけたのかもしれない。
だが、ソフィアはその言葉を待たなかった。
「資格の話ではありません」
「……ソフィアちゃん」
「私は、お義母さんにお願いしています」
ソフィアは、一歩も引かなかった。
「私のしたいことを、手伝ってください」
陽子は目を伏せた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、困ったように笑った。
「……ああ、親子だねえ」
「親子、ですか」
「洸太は、自分を数えないことで逃げる。あたしは、資格がないって言って逃げる」
陽子は、膝の上の布を見下ろした。
「言葉が違うだけで、似たような逃げ方をしてるんだねえ」
「似ています」
「そこは否定してくれないのかい」
「はい」
ソフィアは、真面目に頷いた。
「親子ですから」
「それを言われると、弱いねえ」
陽子は深く息を吐いた。
けれど、まだ逃げ道を探しているようにも見えた。
だからソフィアは、さらに続けた。
「こういう時の為にも、私はあの時、お義母さんに力を貸してくださいとお願いしたのです」
「……あんたねえ」
「はい」
「まさか、あの時からこんなことまで考えていたのかい」
「全てを考えていたわけではありません」
ソフィアは、少しだけ胸を張った。
「ですが、私は私の出来ること全てで、私の望みを叶えます。そうも言いましたよ、お義母さん?」
陽子は、呆れたようにソフィアを見た。
だが、その目は少し潤んでいた。
「その望みってのは、洸太と夫婦になることかい」
「はい」
ソフィアは頷いた。
「ですが、それだけではありません」
「それだけじゃない?」
「洸太さんに、幸せになってほしいのです」
「ああ」
「ミーナにも。ルークにも。修道院の子供たちにも」
「欲張りだねえ」
「はい」
ソフィアは、陽子をまっすぐ見た。
「お義母さんにも、幸せでいてほしいのです」
陽子は、何も言えなかった。
責められているわけではない。
赦されているわけでもない。
慰められているわけでもない。
ただ、逃げ道を塞がれていた。
それも、優しさで。
ソフィアの望みの中に、自分まで入れられていた。
陽子はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと針を布の上に置く。
「……降参だよ」
「お義母さん」
「前に、良い女になったって言ったのは撤回させてもらうよ」
陽子は、困ったように笑った。
「もう、男前になっちまってるからね」
ソフィアは少しだけ瞬きをした。
「それは、褒めていただいているのでしょうか」
「褒めてるよ。悔しいくらいにね」
「ありがとうございます」
「そこで素直に受け取るところも、また腹が立つねえ」
ソフィアは、少しだけ微笑んだ。
陽子は椅子から立ち上がった。
そして、ソフィアの前に立つ。
背は、ソフィアの方が少し高い。
けれど、その時の陽子は、紛れもなく母親の顔をしていた。
「分かったよ」
「はい」
「あたしは、あんたの父親にはなれない」
「はい」
「あんたの母親にも、なれないかもしれない」
ソフィアは何も言わなかった。
陽子も、それ以上は言い訳しなかった。
「だけど、洸太の母親として、あんたにあの子を託すことはできる」
ソフィアの瞳が揺れた。
陽子は続けた。
「洸太を、頼むよ」
「はい」
「あの子は、帰るのが下手な子だからね」
「知っています」
「助けることはできても、助けてもらうのは下手だ」
「知っています」
「誰かの幸せは願えるくせに、自分の幸せは数え忘れる」
「知っています」
「なら」
陽子は、ソフィアの手を取った。
「安心だ」
ソフィアはその手を、両手で包んだ。
「はい。安心して、私に託してください」
そして、静かに言った。
「必ず、今以上に幸せにしてみせます」
陽子の顔が、くしゃりと歪んだ。
泣きそうで、笑いそうで。
そのどちらでもある顔だった。
「……頼んだよ」
「はい」
ソフィアは、迷わず頷いた。
その日の会話を、洸太は知らない。
自分が知らないところで、自分の未来が母と妻になる女の間で受け渡しされていたことを。
もちろん、まだ知らなかった。
*
四 ルークの相談
*
商会の仕事が、珍しく休みになった日があった。
正確に言えば、休みにされた。
グレイスさんに、今日は手伝わなくていいと言われたのだ。
式の準備で十分働いたから、という理由らしい。
俺としては、働かせてもらった方が落ち着くのだが、そう言うとグレイスさんに睨まれた。
「洸太さん」
「はい」
「あなたは、休む練習も覚えた方がいいわ」
「練習が必要ですか」
「必要よ」
そう言われて、俺は商会から追い出された。
休み。
やることがない。
とても困る。
修道院に戻れば、式の準備がある。
けれど、そこでも俺は邪魔者扱いだった。
椅子を運ぼうとすると、ミーナに止められた。
飾り布を直そうとすると、子供たちに止められた。
床の汚れを拭こうとすると、陽子に布を取り上げられた。
「あんた、式の前に奉仕活動でもするつもりかい」
「落ち着かないんだよ」
「だろうねえ」
陽子は呆れたように笑った。
「ルーク、ちょっとこの子を連れていっておくれ」
「俺かよ」
「剣でも振らせておけば、少しは落ち着くだろう」
「犬じゃねえんだから」
「似たようなもんだよ」
俺は否定したかった。
だが、何かを咥えて走り回る犬よりは、木剣を振っていた方がましだった。
結局、俺はルークに連れられて、修道院の庭の端へ向かった。
ルークは木剣を二本持ってきた。
「本当にやるのか」
「休みの日に剣を持ってきたのは、お前じゃねえ。陽子さんだ」
「そうだな」
「で、振るのはお前だ」
「そうなるな」
木剣を受け取る。
ルークは軽く肩を回した。
「怪我すんなよ。ソフィア姉に怒られる」
「そこまで本気でやる気はない」
「俺もだよ」
そう言った直後、ルークの木剣が鋭く振られた。
俺は慌てて受ける。
乾いた音が庭に響いた。
「本気じゃないと言っただろ」
「本気じゃねえよ」
「俺には十分速い」
「なら動け」
「厳しいな」
「休めねえ奴への処置だ」
何度か打ち合う。
ルークは強い。
剣のことは、俺よりずっと分かっている。
俺は身体を動かしながら、ようやく少し呼吸が整ってきた。
仕事でもなく、誰かを助けるためでもなく、ただ身体を動かす。
そういう時間は、まだ少し苦手だった。
「なあ、洸太」
木剣を交えながら、ルークが言った。
「なんだ」
「お前、ソフィア姉にどうやって求婚したんだ」
木剣が止まった。
いや、俺の方だけが止まった。
ルークの木剣が肩に軽く当たる。
「痛っ」
「隙だらけだ」
「誰のせいだ」
「俺のせいじゃねえ」
「今聞くことか」
「今聞かねえと聞けねえだろ」
ルークは顔を逸らした。
耳が少し赤い。
俺は木剣を下ろした。
「ミーナですか」
「名前を出すな」
「出さなくても分かるだろ」
「急に現実になるんだよ」
「もう十分現実では」
「うるせえ」
ルークは木剣を肩に担いだ。
「お前だって見てただろ」
「何をだよ」
「俺が色んな人にアドバイス貰って、全部失敗して、最後には倒れたところ」
「見た」
「なら、何を聞くんですか」
「だから、そこからなんで良い感じになったのかを聞いてんだろうが」
なるほど。
そこか。
ルークが聞きたいのは、指輪の渡し方でも、台詞の形でもない。
どうして、あのどうしようもない状態から、最後に言えたのか。
そこなのだ。
俺は少し考えた。
格好良い答えは、たぶんない。
「最後は、すごく格好悪く開き直っただけだよ」
「開き直った?」
「ああ」
「どういう意味だ」
「自分一人じゃ無理だって認めた」
ルークは黙った。
「だから、ソフィアに頼んだ。君が俺に勇気をくれたら、出来るかもしれないって」
「求婚する相手に、求婚する勇気をもらったのかよ」
「そうだよ」
「格好悪いな」
「格好悪いだろ」
「……でも、上手くいったんだよな」
「上手くいった」
「なんでだよ」
俺は、救護室でのソフィアの顔を思い出した。
あの人は、俺を笑わなかった。
格好悪い俺を、失敗した俺を、逃げかけた俺を。
ただ見ていた。
待っていた。
俺が言えるように、勇気をくれた。
「ソフィアが、いつも通り、俺に勇気をくれただけだ」
ルークは何も言わなかった。
木剣を握る手に、少しだけ力が入る。
俺は続けた。
「それにな、ソフィアとミーナは姉妹だ」
「……それがなんだよ」
「逃げ続ける男を、そのまま逃がしてくれると思うか」
「……」
「ソフィアは待ってくれた。でも、逃がしてはくれなかった」
「ミーナも同じだって言いたいのか」
「同じかどうかは分からない。でも、姉妹だ」
「雑だな」
「経験則だ」
「お前、砕けて倒れただけだろ」
「ああ」
俺は頷いた。
「だから言ってる。砕けても終わりじゃなかった」
ルークは、少しだけ目を細めた。
「どうせ逃げても無駄だから、当たって砕けろってことか」
「俺は砕けてきた」
「本当に格好悪いな」
「でも、終わりじゃなかった」
「……」
「格好良くやろうとしなくていいと思う」
「お前が言うと説得力あるな」
「倒れたからな」
「説得力の方向がひどい」
「でも、言わなきゃ伝わらない」
ルークは黙った。
俺は少しだけ笑った。
「ミーナは、たぶん笑う」
「笑うのかよ」
「笑うと思う」
「おい」
「でも、馬鹿にして笑うんじゃない」
「……」
「泣きながら笑うんじゃないか」
ルークは顔をしかめた。
「想像できるのが腹立つな」
「だろう」
「俺は、あいつに格好悪いところを見せたくねえんだよ」
「もうだいぶ見られてるだろ」
「うるせえ」
「ミーナは、それでもお前がいいんだろ」
ルークは、言葉に詰まった。
木剣の先が、地面に下がる。
「だったら、格好悪いまま行け」
「簡単に言いやがって」
「俺は難しかった」
「知ってる」
「だから言ってる」
ルークはしばらく黙っていた。
やがて、ぼそりと言った。
「指輪は?」
「用意した方がいいと思う」
「やっぱりか」
「ミーナ、欲しがってたんだろ」
「……欲しがってた」
「なら、用意しろ」
「簡単に言うな」
「グレイスさんに相談すればいい」
「あの人に知られたら終わりだろ」
「たぶん、もう知ってる」
「なんでだよ」
「グレイスさんだから」
「理由になってねえのに、理由になってるのが腹立つ」
俺は笑った。
ルークは木剣を握り直した。
「洸太」
「なんだ」
「お前、よくやったな」
「急にどうした」
「いや」
ルークは、少しだけ視線を逸らした。
「格好悪くても、ちゃんと言ったんだろ」
「ああ」
「なら、すげえよ」
「……そうですか」
「そうだよ」
そこで、ルークは一瞬だけ口ごもった。
「兄……」
「ん?」
「なんでもねえ」
「今、何か言いかけたな」
「言ってねえ」
「兄、までは聞こえた」
「聞こえてねえ」
「聞こえた」
「忘れろ」
「無理だな」
ルークは舌打ちした。
それから、木剣を構える。
「もう一本」
「まだやるのか」
「お前が落ち着いてねえからな」
「相談したかったのはそっちだろ」
「うるせえ。構えろ」
俺は苦笑して、木剣を構えた。
ルークの顔はまだ少し赤かったが、目は先ほどよりも落ち着いていた。
きっと、彼もそのうち砕けに行くのだろう。
俺は心の中で、少しだけ手を合わせた。
頑張れ、ルーク。
たぶん、そっちの戦場は、やはり俺には助けられない。
*
五 姉妹の支度
*
式の前日、ソフィアの部屋はいつもより少し賑やかだった。
白い衣装。
花。
髪飾り。
薄い布。
グレイスが用意した品々が、机や椅子の上に丁寧に並べられている。
ミーナは、その中を何度も行ったり来たりしていた。
「お姉ちゃん、こっちの花も合うと思う」
「そうですか」
「でもこっちもいい。どうしよう。こっちだと綺麗。こっちだと可愛い」
「ミーナ」
「待って。今すごく大事なところだから」
「はい」
ソフィアは椅子に座っていた。
長い髪を下ろし、ミーナがその髪を梳いている。
いつもは自分で整える髪だ。
修道女として、姉として、生活者として。
手早く、乱れなく、邪魔にならないように。
けれど今日は違う。
ミーナは、まるで宝物を扱うように、ソフィアの髪を梳いていた。
「お姉ちゃん、本当にお嫁さんになるんだね」
「はい」
「洸太のお嫁さん」
「はい」
ソフィアは、少しだけ頬を赤くした。
「洸太さんの妻になります」
「うん。知ってる」
「……またですか」
「だって、お姉ちゃんが毎日言うから」
「そんなに言っていません」
「言ってるよ」
「……少しだけです」
「かなりだよ」
ミーナは笑った。
ソフィアも、少しだけ困ったように笑った。
それから、ミーナの手が止まった。
「でも」
「はい」
「嬉しい」
ミーナの声が少しだけ小さくなる。
「お姉ちゃんが、こんなに幸せそうなの、嬉しい」
「ミーナ」
「本当だよ」
ミーナは、ソフィアの髪をそっと手に取った。
「昔のお姉ちゃんは、いつも私のことばっかりだった」
「私は姉ですから」
「うん。知ってる」
ミーナは、少しだけ唇を尖らせた。
「でも、時々思ってた。お姉ちゃんは、自分のことはどうするんだろうって」
ソフィアは黙った。
ミーナは続ける。
「私が笑えば、お姉ちゃんは嬉しそうだった。私が泣けば、すぐ来てくれた。私が欲しいものがあれば、だいたい譲ってくれた」
「それは」
「分かってる。嬉しかったよ。すごく」
ミーナは、ソフィアの髪に花を当てて、少し角度を変えた。
「でも、少し寂しかった」
その言葉は、以前にも聞いた。
焼き菓子を巡って、くだらない姉妹喧嘩をした日。
ミーナが、ずっと憧れていたと言った。
普通の姉妹喧嘩に。
ソフィアは、静かに息を吐いた。
「私は、まだ姉です」
「うん」
「洸太さんの妻になっても、ミーナの姉でなくなるわけではありません」
「ほんと?」
「本当です」
「じゃあ、これからも喧嘩していい?」
「時々なら」
「焼き菓子取ったら怒るからね」
「あれは、私が悪かったです」
「うん。かなり悪かった」
「ミーナ」
「でも、嬉しかった」
ミーナは笑った。
「お姉ちゃんが、ちょっと子供っぽくなったみたいで」
ソフィアは少しだけ目を伏せた。
「私は、子供っぽいでしょうか」
「洸太のことになるとね」
「……」
「お姉ちゃん?」
「否定できません」
ミーナは声を上げて笑った。
しばらく笑って、それからふと思い出したように言った。
「ねえ、お姉ちゃん」
「何ですか」
「洸太が求婚した時のこと、聞いてもいい?」
ソフィアの手が止まった。
膝の上で重ねていた指が、そっと指輪に触れる。
「……はい」
返事の声が、少し柔らかくなった。
ミーナは目を輝かせた。
「あの時の洸太、どうだった?」
「格好悪かったです」
「えっ」
「とても」
「お姉ちゃん、言い切るね」
「はい」
ソフィアは、指輪を見つめたまま微笑んだ。
「何度も言おうとして、何度も失敗していました」
「うん。見てた」
「皆さんから助言を受けて、それを全て真面目に受け取りすぎて、かえって分からなくなっていました」
「それも見てた」
「最後には倒れました」
「それも見た」
「本当に、格好悪かったです」
ソフィアは、そう言ってから、胸に手を当てた。
「でも」
「でも?」
「とても、愛しかったです」
ミーナは、瞬きをした。
「愛しかった」
「はい」
「格好悪いのに?」
「格好悪いから、ではありません」
ソフィアは少し考えてから、言葉を選ぶように言った。
「格好悪くても、逃げずに言おうとしてくださったからです」
ミーナは黙って聞いている。
「洸太さんは、最後に私へ言いました」
「なんて?」
「君が俺に勇気をくれたら、出来るかもしれない、と」
「求婚する相手に?」
「はい」
「それ、格好悪くない?」
「格好悪いです」
「お姉ちゃん、やっぱり言い切るね」
「はい。ですが、とても嬉しかったのです」
「なんで?」
ソフィアは、指輪を撫でた。
「あの人が、私を頼ってくださったからです」
その言葉は、静かだった。
けれど、深かった。
「洸太さんは、誰かを助ける時は迷いません。自分が傷つくことも、苦しむことも、あまり数えません」
「うん」
「でも、自分が誰かに助けてもらうことは、とても下手です」
「うん」
「だから、私に勇気をくださいと言ってくださったことが、嬉しかった」
ソフィアは、柔らかく笑った。
「あの人が、私を、隣に立つ者として見てくださった気がしたのです」
ミーナは、黙っていた。
しばらくして、小さく頷いた。
「ふんふん」
「ミーナ?」
「なるほど」
ミーナは真剣な顔をしていた。
「格好悪くてもいいんだ」
「はい」
「逃げずに言おうとしてくれるなら」
「はい」
「相手に勇気をもらいに来るのも、あり」
「はい」
「でも、倒れるのはできればなし」
「そうですね」
「ふんふん」
ミーナは、完全に何かを学習している顔だった。
ソフィアは少しだけ苦笑した。
「ミーナ」
「なあに?」
「追い詰めすぎてはいけませんよ」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に出ています」
「お姉ちゃんも、そういうところ洸太に似てきたね」
「そうでしょうか」
「うん。すぐ見抜く」
ミーナは、ソフィアの髪に白い花を挿した。
「でも、ルークは逃げるよ」
「逃げますね」
「お姉ちゃん、否定してよ」
「事実ですから」
「うん。事実」
ミーナは少しだけ頬を膨らませた。
「逃げ道を塞いでもいい?」
「ほどほどに」
「ほどほどってどれくらい?」
「ルークが泣かないくらいです」
「難しいなあ」
「ミーナ」
ソフィアは、振り返ってミーナを見た。
「ルークは、ミーナに照らされると逃げられません」
「うん」
「ですが、焼きすぎてはいけません」
「……うん」
「照らしてあげてください。帰ってこられるように」
ミーナは目を伏せた。
いつもの明るい太陽のような顔ではなかった。
少しだけ不安そうな、ひとりの女の子の顔だった。
「待てるかな」
「待てます」
「ほんと?」
「はい」
「お姉ちゃんが言うなら、そうなのかな」
「ただし」
「ただし?」
「忘れさせてはいけません」
ミーナはぱっと顔を上げた。
「逃げ道を残すのと、忘れさせるのは違います」
「……お姉ちゃん」
「はい」
「それ、すごく私向き」
「でしょうね」
二人は顔を見合わせて、笑った。
ミーナは、ソフィアの髪飾りを整えた。
白い花。
薄い布。
淡い金の髪。
その姿は、いつもの姉とは違っていた。
姉であり、修道女であり、子供たちを見守る人であり。
そして明日、妻になる女。
「お姉ちゃん」
「はい」
「幸せになってね」
「はい」
「でも、幸せにしてもらうだけじゃ駄目だよ」
「はい」
「お姉ちゃんも、洸太を幸せにするんでしょ」
「もちろんです」
「あと」
「はい」
「時々は、私のお姉ちゃんでもいてね」
ソフィアは、ゆっくりと立ち上がった。
そして、ミーナを抱きしめた。
「私は、ずっとミーナの姉です」
「うん」
「洸太さんの妻になっても」
「うん」
「それは変わりません」
ミーナは、ソフィアの胸に顔を埋めた。
「お姉ちゃん、綺麗」
「ありがとうございます」
「明日、泣くかも」
「今も泣いていますよ」
「これは違うの」
「違いますか」
「うん。練習」
「泣く練習ですか」
「そう」
ミーナは涙を拭いながら笑った。
「明日は、もっと泣くから」
「困りましたね」
「困って」
「はい。困ります」
二人はまた笑った。
その笑い声は、部屋の外まで漏れていた。
廊下で通りかかったルークが、足を止める。
何を話しているのかまでは聞こえない。
ただ、ミーナが泣いているようで、笑っているようでもあった。
ルークは少しだけ扉の方を見た。
そして、頭をかいた。
「……格好悪くても、か」
小さく呟いてから、逃げるようにその場を離れた。
だが、その足取りは、以前より少しだけ前を向いていた。
*
六 託されたもの
*
結婚式の朝、俺は三度目の雑巾を取り上げられた。
一度目は、礼拝堂の椅子を拭いていた時だった。
二度目は、入口の床を磨いていた時だった。
三度目は、飾り布の下に見えた小さな汚れを拭こうとした時だった。
「洸太さん」
グレイスさんが、俺の手から雑巾を取り上げた。
「あなた、何をしているの」
「汚れが」
「今日はあなたが床を磨く日じゃないわ」
「でも」
「でもじゃないわ」
グレイスさんは、笑顔だった。
笑顔だったが、目は笑っていなかった。
「主役が床を磨いていたら、式場ではなく奉仕活動よ」
「……すみません」
「謝るところでもないわ」
グレイスさんは小さく息を吐いた。
「落ち着かないのね」
「はい」
「でしょうね」
なぜか納得された。
俺は礼拝堂を見回した。
白い布。
花。
木の長椅子。
小さな祭壇。
陽の光が、窓から斜めに差し込んでいる。
いつもの礼拝堂のはずなのに、今日はまるで別の場所のようだった。
そこに自分が立つのだと思うと、どうにも落ち着かない。
誰かのために動くなら、まだ分かる。
荷物を運ぶ。
掃除をする。
誰かを手伝う。
それなら、身体が動く。
けれど今日は違う。
俺は、祝われる側なのだという。
それが難しい。
非常に難しい。
「洸太」
声をかけられた。
振り向くと、母さんが立っていた。
いつもより少しきちんとした服を着ている。
派手ではない。
けれど、どこか背筋が伸びて見えた。
「何だよ、母さん」
「あんた、また何かしようとしてるね」
「してない」
「雑巾取り上げられた顔で言うんじゃないよ」
言い返せなかった。
母さんは近づいてきて、俺の襟元を直した。
少し乱れていたらしい。
「今日はね、誰も助けなくていい日だよ」
その言葉に、俺は黙った。
「誰かの役に立とうとしなくていい日だ」
「……難しいな」
「難しいだろうねえ」
母さんは、困ったように笑った。
「あんたは、祝われる側になるのが下手だ」
「そうかもしれない」
「そこは否定しないんだね」
「自覚はあります」
「なら、練習しな」
「何を」
「幸せになる練習をさ」
母さんは、俺の襟を整え終えると、軽く胸元を叩いた。
「今日は、あんたが幸せになっていい日だ」
「……」
「ソフィアちゃんと一緒にね」
何か返そうとしたが、うまく言葉が出なかった。
母さんはそれを見て、少しだけ笑った。
「ほら、そういう顔をしてればいいんだよ」
「どんな顔だよ」
「締まらない顔」
「ひどいな」
「今日くらい締まらなくていいんだよ」
母さんはそう言って、礼拝堂の入口の方を見た。
そこに、まだソフィアはいない。
けれど母さんは、何かを待つような顔をしていた。
やがて、人々が集まり始めた。
修道院の子供たち。
町の人々。
商会の者たち。
グレイスさん。
ルーク。
ミーナ。
ミーナはすでに泣きそうだった。
「まだ始まってないぞ」
ルークが小声で言う。
「分かってる」
「なら泣くなよ」
「無理」
「早いだろ」
「早くない」
ミーナは目元を押さえた。
「お姉ちゃんが結婚するんだよ」
「それは知ってる」
「洸太の妻になるんだよ」
「それも知ってる」
「私のお姉ちゃんでもあるんだよ」
「それも知ってる」
「じゃあ泣くでしょ」
「いや、そこは分かんねえよ」
ルークは困った顔をしていた。
だが、その目は優しかった。
その時、ミーナがふとルークを見た。
「ルーク」
「なんだよ」
「格好悪くてもいいよ」
「……何の話だ」
「分かってるくせに」
「今言うことか?」
「今だから言うの」
ミーナは泣きそうな顔で笑った。
「それでいい。格好悪くても、ちゃんと私に言いに来てくれるなら」
ルークは黙った。
「今じゃなくていい」
「……」
「でも、いつかちゃんと頑張ってね」
ルークは顔を逸らした。
耳が赤い。
「……分かったよ」
「本当?」
「本当だ」
「逃げたら?」
「逃げねえ」
「逃げたら追いかけるよ」
「知ってる」
「うん。知ってるならいい」
ミーナは満足そうに頷いた。
ルークは、少しだけ諦めたように息を吐いた。
「指輪は」
小さな声だった。
だが、ミーナには届いた。
「うん」
「ちゃんと用意する」
「……うん」
「だから、少し待て」
「待つよ」
ミーナは笑った。
「ちゃんと、待つ」
ルークは何か言おうとして、やめた。
その代わり、俺の方を見た。
目が合う。
俺は、小さく頷いた。
ルークは、気まずそうに顔を逸らした。
頑張れ、ルーク。
やはりその戦場は、俺には助けられない。
やがて、礼拝堂の扉の向こうが静かになった。
空気が変わる。
子供たちも、町の人たちも、自然と口を閉じた。
扉が開く。
陽の光が差し込んだ。
そこに、ソフィアがいた。
白い衣装。
薄い布。
淡い金の髪。
花を挿した髪は、いつもより柔らかく見えた。
修道女として何度も見た人。
薬草を仕分ける手。
子供たちを叱る声。
俺に帰ってきてくださいと言った瞳。
そのすべてを知っているはずなのに。
その日だけは、まるで知らない人のように綺麗だった。
いや、違う。
知らない人ではない。
俺が知っているソフィアが、俺の知らないほど綺麗だった。
そして、その隣に母さんがいた。
母さんが、ソフィアの手を取っている。
その光景を見た瞬間、俺は思い出した。
あの夜、俺が話したことを。
花嫁が、父親と歩く。
新郎のところまで、連れていく。
ソフィアは、それを母さんに頼んだのだ。
俺は、自分の口の軽さを少しだけ呪った。
けれど、それ以上に、胸が詰まった。
母さんが、ソフィアを連れてくる。
俺のところへ。
俺の妻になる人を。
母さんが。
「洸太」
母さんの声で、ようやく息をした。
「口、開いてるよ」
「……悪い」
「謝るところじゃないねえ」
周囲から小さな笑いが漏れた。
俺は耳が熱くなるのを感じた。
こんな日まで締まらない。
本当に、締まらない。
母さんとソフィアが、ゆっくりと歩いてくる。
ソフィアは俺を見ていた。
真っ直ぐに。
逃げずに。
嬉しそうに。
そして少しだけ、誇らしげに。
俺の前で、二人は立ち止まった。
母さんは、ソフィアの手をそっと持ち上げた。
そして、俺に渡す前に、ソフィアを見た。
「ソフィアちゃん」
「はい」
「この子のことを頼んだよ」
「はい」
即答だった。
「……それは普通、俺に言うんじゃないのか」
思わず口を挟むと、母さんは俺を見た。
「あんたは頼りないからね」
「母さん」
「ソフィアちゃんなら、その点安心だよ」
「はい、お義母さん」
ソフィアは、迷いなく頷いた。
「安心して私に託してください。必ず、今以上に幸せにしてみせます」
「頼んだよ」
「はい」
俺は、自分の結婚式で、自分の今後について、自分以外の二人が固く頷き合っているのを見ていた。
何か大事なものを受け渡しされていることだけは分かった。
ただ、その受け渡しに、俺の意見はあまり必要とされていないらしかった。
母さんは、ようやく俺にソフィアの手を渡した。
細い手だった。
けれど、強い手だった。
何度も俺を引き戻した手。
俺に帰る場所を教えた手。
その手が、俺の手の中にある。
母さんは、俺を見た。
「洸太」
「……何だよ」
「ソフィアちゃんを幸せにしな」
「うん」
「それと」
「何だよ」
「あんたも、幸せになりな」
言葉が詰まった。
何度も聞いたようで、初めて聞く言葉だった。
幸せになりな。
それは命令ではなく、願いだった。
母さんの、母としての願いだった。
「……うん」
俺は、ようやく頷いた。
「なるよ」
母さんは、満足そうに笑った。
そして、ほんの少しだけ目元を押さえた。
「まったく。良い日だねえ」
誰かが小さく笑った。
ミーナはもう泣いていた。
ルークは目を逸らしていた。
グレイスさんは、扇で口元を隠しながら、こちらを見ている。
商人の顔ではなかった。
友人として、祝ってくれている顔だった。
こうして、俺はソフィアの手を取った。
母さんから。
託されたものとして。
そして、俺もまた。
ソフィアを託されたのだと、遅れて理解した。
*
七 誓いの口づけ
*
式は、静かに始まった。
この世界の古い祈りの言葉が捧げられる。
命を共にする者へ。
喜びの日も、苦しみの日も。
帰る場所として、互いを選ぶ者へ。
司式を務める年長の修道女の声は、穏やかだった。
俺はその言葉を、どこか遠くで聞いていた。
手の中には、ソフィアの手がある。
細くて、温かい。
何度も俺を引き戻してきた手。
その手が、今は俺の隣にあった。
母さんから託された手。
そして、母さんがソフィアに託した俺の手でもある。
不思議な気分だった。
俺は、誰かを助けるためにここに立っているわけではない。
誰かの代わりに傷つくためでもない。
ただ、ソフィアの隣に立つために、ここにいる。
それが、こんなにも難しい。
それが、こんなにも嬉しい。
「では、指輪を」
その言葉で、俺は我に返った。
グレイスさんが用意してくれた小さな皿に、指輪が載せられていた。
見覚えのある指輪だった。
俺が、救護室でソフィアに渡したもの。
あの日、ソフィアの左手薬指に嵌めたもの。
それを今、もう一度、皆の前で嵌める。
あの夜、俺が話したことを。
ソフィアは、やはり覚えていた。
覚えていたどころではない。
しっかり、式の中に組み込んでいた。
俺は、心の中でため息をついた。
この人は本当に、俺が渡したものを大切にしすぎる。
そして、俺が口を滑らせたことまで、大切にしてしまう。
逃げ場がない。
いや、逃げるつもりはない。
ただ、少しだけ心の準備が欲しかった。
指輪を手に取る。
たったそれだけで、指先が少し震えた。
一度は嵌めた指輪だ。
それなのに、皆の前だと思うと、ひどく緊張する。
「洸太さん」
ソフィアが小さく俺を呼んだ。
見ると、彼女は笑っていた。
あの日と同じように。
俺に勇気をくれる顔で。
「大丈夫です」
「……はい」
俺は頷いた。
まただ。
俺はまた、この人に勇気をもらっている。
ソフィアの左手を取る。
薬指に、もう一度指輪を通す。
ゆっくりと。
確かめるように。
その指に収まった瞬間、ソフィアの瞳が潤んだ。
救護室で見た、あの泣き笑いと同じ顔だった。
けれど今日は違う。
あの日は、二人だけの約束だった。
今日は、皆の前で交わす誓いだった。
ソフィアは、指輪を見つめた。
それから、俺を見た。
「洸太さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「……こちらこそ」
自分でも、何に対して礼を言っているのか分からなかった。
指輪を受け取ってくれたことか。
ここに立ってくれていることか。
俺を、託されるものとして受け取ってくれたことか。
たぶん、その全部だった。
次に、ソフィアが俺の手を取った。
俺のための指輪は、こちらの世界の職人が急いで作ってくれたものだった。
派手ではない。
細く、飾りも少ない。
けれど、丁寧に磨かれている。
ソフィアはその指輪を、両手で大切そうに持った。
そして、俺の左手を取る。
その時の手つきが、あまりにも真剣だったので、俺は少し笑いそうになった。
だが、笑えなかった。
ソフィアの指が震えていたからだ。
浮かれポンチとまで言われた人が。
町中に、もうすぐ俺の妻になると言って回った人が。
今、俺の指に指輪を嵌めようとして、少し震えている。
そのことが、胸に来た。
ソフィアは、指輪をゆっくりと通した。
俺の左手薬指に。
収まる。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、俺は息を止めていた。
「これで」
ソフィアが、小さく言った。
「洸太さんも、私の夫です」
「……はい」
俺は頷いた。
「そうですね」
ソフィアは、満足そうに微笑んだ。
その笑顔を見て、俺はまた思った。
こんな日まで、本当に格好悪いな、と。
指輪を嵌めるだけで震える。
母さんに託されて、言葉に詰まる。
皆の前で、自分が祝われることにも慣れない。
普通なら、男が堂々とするものなのだろう。
妻になる人を幸せにすると、格好良く言うものなのだろう。
なのに俺は、最初から最後まで、どうにも締まらない。
「こんな日まで、本当に格好悪いな」
思わず、口から漏れた。
ソフィアが瞬きをする。
「そんなことありません」
「普通は、男が幸せにするって言うものなんだろうけどな」
「幸せにしてくれないのですか?」
「……」
「……」
またやった。
俺は馬鹿だ。
格好がいいとか、悪いとか。
男ならどうだとか、普通ならどうだとか。
ソフィアは、そんなことで俺を見ていないと、もう分かっているはずなのに。
この人は、俺が格好良いからここにいるわけではない。
俺が何かを上手くできるから、隣にいるわけでもない。
俺が格好悪く倒れても。
自分一人では無理だと認めても。
それでも、手を伸ばしてくれた人だ。
ソフィアは、さっき母さんに言っていた。
俺を、今以上に幸せにしてみせると。
なら、俺が言うことは一つだけだ。
俺は、息を吸った。
「ソフィア」
「はい」
「君を、必ず……」
言葉が少し詰まった。
必ず。
そう言うのは簡単だ。
けれど、俺は知っている。
人生は、思った通りにはいかない。
突然、世界から引き剥がされることもある。
大切な人を失うこともある。
助けたいものに、手が届かないこともある。
だから、軽々しく永遠を約束することはできない。
それでも。
俺は、この人と生きたい。
この人を、今よりもっと幸せにしたい。
この人が、俺の隣で笑っている未来を、何度でも選びたい。
「……いつか、今以上に幸せにするよ」
それは、格好良い誓いではなかったかもしれない。
少し躊躇って。
少し不器用で。
どこか頼りない言葉だったかもしれない。
けれど、俺の言葉だった。
ソフィアは、花が咲くように笑った。
「はい」
満面の笑みだった。
その返事だけで、俺はまた少しだけ勇気をもらった。
礼拝堂の空気が、ふっと緩む。
誰かが小さく息を吐いた。
ミーナは、両手で口元を押さえていた。
目から涙が零れている。
ルークは、何か言いたそうな顔で俺を見ていた。
たぶん、格好悪いと言いたいのだろう。
だが、口にはしなかった。
その代わり、少しだけ笑っていた。
グレイスさんは、扇で口元を隠していた。
その目が、商人のものではなくなっている。
母さんは、困ったように笑っていた。
嬉しそうで、泣きそうで。
それでも、ちゃんと笑っていた。
年長の修道女が、穏やかに告げた。
「では、誓いの口づけを」
場が静かになった。
俺は固まった。
いや、聞いていた。
知っていた。
言ったのは俺だ。
俺の世界では、誓いのキスをする式がある。
そう話した。
それを、ソフィアは覚えていた。
覚えていたのだ。
つまり、これは俺の自業自得である。
ただ、実際に皆の前でとなると、話が違う。
違うはずだ。
たぶん。
ソフィアが、少しだけ首を傾げた。
「洸太さん」
「はい」
「また、勇気が必要ですか」
「……少し」
「では」
ソフィアは、一歩近づいた。
俺の頬に、両手を添える。
細い指。
温かい手のひら。
その手が、俺の逃げ道を塞ぐように、優しく顔を包んだ。
「何度でも、差し上げます」
「ソフィア」
「はい」
「今のあなたは、とても素敵です」
「……格好悪くても?」
「はい」
ソフィアは笑った。
「格好悪くても、私の夫です」
そう言って、ソフィアは俺に口づけた。
奪われた。
そう思った。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、ああ、またこの人に連れていかれたのだと思った。
助けるために前に出るのではなく。
逃げるために目を逸らすのでもなく。
ただ、ソフィアの手に顔を包まれて。
ソフィアの方から、俺を選びに来てくれた。
長い口づけではなかった。
けれど、短いとも言えなかった。
ソフィアが離れた時、俺は完全に固まっていた。
彼女は、少しだけ頬を赤くしながらも、ひどく満足そうだった。
「洸太さん」
「……はい」
「私は、あなたの妻になりました」
「……はい」
「もうすぐ、ではありません」
「そうですね」
「妻です」
「はい」
「洸太さんの、妻です」
何か返そうとして、言葉が詰まった。
するとソフィアは、少しだけ不満そうに俺を見た。
「言ってください」
「何をですか」
「私が、あなたの何なのかを」
「……」
最後の最後まで逃がしてくれない。
本当に、この人は。
俺は、小さく息を吐いた。
「俺の妻です」
ソフィアは、満足そうに笑った。
「はい」
その瞬間だった。
誰かが手を叩いた。
一人ではなかった。
二人。
三人。
やがて、礼拝堂いっぱいに拍手が広がっていく。
子供たちが声を上げる。
「ソフィア先生、きすした!」
「洸太、顔赤い!」
「先生、奥さんになった!」
ミーナは泣きながら笑っていた。
「お姉ちゃん、綺麗……!」
ルークは、顔を赤くして目を逸らしている。
「見てらんねえ……」
だが、その口元は少し笑っていた。
グレイスさんは、拍手をしながら俺たちを見ていた。
「なるほど。指輪に、誓いの口づけね」
「グレイスさん」
俺は嫌な予感がした。
「流行るわね」
「今それを言いますか」
「幸せは鮮度が命よ」
「商売にしないでください」
「嫌よ。町が明るくなる商売なら、大歓迎だわ」
母さんが笑った。
「まったく、商人だねえ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてるかねえ」
礼拝堂に笑いが起きる。
拍手は、まだ止まなかった。
祝福。
たぶん、それはこういうものなのだろう。
誰かを助けたからではない。
何かの役に立ったからでもない。
ただ、ソフィアの隣に立つ俺を。
ソフィアの妻としての笑顔を。
二人が二人らしいまま夫婦になったことを。
皆が祝ってくれている。
俺はまだ、それを上手く受け取れたとは言えない。
けれど、ソフィアが隣にいる。
この人が、俺の手を握っている。
だから、少しずつ覚えていけるのかもしれない。
幸せになる練習を。
祝われることを。
誰かに幸せにされることを。
そして、誰かを幸せにすることを。
*
式が終わった後も、礼拝堂の周りはしばらく騒がしかった。
子供たちは花びらを集めて、もう一度撒こうとしていた。
グレイスさんは商会の者たちに何か指示を出している。
ミーナはソフィアに抱きついて、何度も「綺麗だった」と繰り返していた。
ルークはその横で、どうしていいか分からない顔をしている。
母さんは、少し離れた場所でその様子を見ていた。
俺とソフィアは、礼拝堂の外へ出た。
夕方の光が、石畳を柔らかく照らしている。
春の終わりの風が、ソフィアの髪を揺らした。
彼女の左手には、指輪がある。
俺の左手にも、指輪がある。
同じではない。
けれど、対になるもの。
「洸太さん」
「はい」
「帰る場所が、夫婦になりましたね」
その言葉に、俺は少し笑った。
「そうですね」
「これからは、ただいまの後に、もう少し甘えてもいいですか」
「今までも十分甘えてませんでしたか」
「まだです」
「まだですか」
「はい」
ソフィアは、当然のように言った。
「夫婦ですから」
「それは便利な言葉ですね」
「はい。とても」
ソフィアは俺の手を握った。
指輪と指輪が、触れる。
「洸太さん」
「はい」
「今日は、格好悪かったです」
「……否定しないんですね」
「はい」
「そこは少しくらい」
「格好悪かったです」
「二回言わなくても」
「ですが」
ソフィアは、俺を見上げた。
「とても愛しかったです」
何も言えなくなった。
「あなたが、何度も勇気を出してくださった日でしたから」
「……そうですか」
「はい」
ソフィアは微笑む。
「私は、幸せです」
「はい」
「今も」
「はい」
「でも、もっと幸せになります」
「……はい」
「洸太さんも、です」
「そうですね」
「そこは、はい、と言ってください」
俺は苦笑した。
逃がしてくれない。
本当に、逃がしてくれない。
「はい」
そう答えると、ソフィアは満足そうに頷いた。
礼拝堂の向こうから、子供たちの声が聞こえる。
ミーナの泣き笑いの声。
ルークの困ったような声。
グレイスさんの明るい指示。
母さんの笑い声。
それらが、夕方の風に混じって届いた。
俺はその音を聞きながら、ゆっくり息を吐いた。
帰る場所。
そう呼べる場所がある。
ただいまと言えば、返してくれる人がいる。
そして今日、その人は俺の妻になった。
「ソフィア」
「はい」
「ただいま」
ソフィアは、少しだけ驚いた顔をした。
それから、泣きそうなくらい幸せそうに笑った。
「おかえりなさい、洸太さん」
俺は、もう一度その手を握った。
託されたものは、重かった。
けれど、その重さは不思議なほど温かかった。
母さんから。
ソフィアから。
そして、俺自身から。
俺はようやく、それを少しだけ受け取れた気がした。
帰る場所は、今日、俺の妻になった。




