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後日譚 託されたもの

*後日譚「俺と、君の望み」の続編です。

一 指輪と、余計な話


   *



 その夜、俺はソフィアの部屋にいた。


 いや、正確に言えば、連れていかれた、の方が近いかもしれない。


 救護室で指輪を渡した。


 愛していると告げた。


 俺と結婚してほしい、と言った。


 ソフィアは、返事もできないまま泣いて、何度も何度も頷いてくれた。


 そのあと、俺は左手の薬指に指輪を嵌めた。


 俺の世界の作法だと、そう説明した。


 妻にしたい相手に、指輪を渡すことがあるのだと。


 ソフィアは、それを聞いて、また泣いた。


 泣きながら笑った。


 その笑顔を見て、俺は自分の選択が間違っていなかったのだと、ようやく少しだけ思えた。


 そこまではよかった。


 問題は、その後だった。


 ソフィアは、俺が思っていた以上に、その意味を全身で受け止めてくれた。


 文字通り。


 本当に、全身で。


 だから今、俺はたいへん疲れていた。


 寝台の上で、布を肩まで引き上げながら、ひどく重くなった身体を横たえている。


 年齢を忘れそうになる世界だ。


 命の感覚も、家族の距離も、元の世界とは違う。


 けれど、身体は正直だった。


 俺は若返ったわけではない。


 四十一歳の身体は、愛されたからといって二十歳には戻らない。


 そんな当たり前の事実を、俺は今、骨身に染みて感じていた。


 隣で、ソフィアが身じろぎした。


 ソフィアは、寝台の上で左手を胸の前にかざしていた。


 薬指に嵌まった指輪を、何度も、何度も見つめている。


 小さな灯りが、少し乱れた金の髪を照らしていた。


 普段はきちんと整えられている髪が、今は肩から胸元へほどけるように流れている。


 白い肌。


 赤く残った頬。


 まだ熱を帯びた瞳。


 けれど、その視線は俺ではなく、指輪に向けられていた。


 つい先ほどまで、あれほど俺を離さなかった人が、今はまるで世界で一番大切な宝物を見るような顔で、自分の左手を見つめている。


「……そんなに嬉しいですか」


 俺がそう言うと、ソフィアは即座に頷いた。


「はい」


 迷いのない返事だった。


「とても」


 ソフィアは、指輪にそっと唇を寄せた。


 その仕草を見た瞬間、胸の奥が妙にくすぐったくなった。


 俺は視線を逸らした。


 駄目だ。


 こういう時、どういう顔をすればいいのか分からない。


 人を助けた後の礼なら、まだ分かる。


 仕事の感謝なら、受け流せる。


 けれど、自分が渡したものを、こんなふうに大切にされると、どうしていいか分からなくなる。


 ソフィアは、指輪を見つめたまま微笑んでいる。


 その横顔があまりにも幸せそうで。


 俺は、つい余計なことを言った。


「俺のいた世界だと、結婚式でも指輪を嵌めるんですよ」


 ソフィアの視線が、ゆっくりこちらへ向いた。


「結婚式でも、ですか」


「はい。みんなの前で、もう一度」


「もう一度」


「誓いの言葉を言って、指輪を交換して……まあ、式の形にもよりますけど」


「はい」


「それから、誓いのキスをして」


「……誓いの、キス」


 ソフィアが小さく繰り返した。


 俺は、その時点ではまだ気づいていなかった。


 気づくべきだった。


 目の前にいるのは、俺が指輪の話をしただけで、あそこまで幸せそうに泣き笑いした人なのだ。


 俺の世界の結婚式の作法など、うかつに話すべきではなかった。


 だが、その時の俺は少し浮かれていた。


 いや、かなり浮かれていた。


 プロポーズは受けてもらえた。


 ソフィアは幸せそうだった。


 俺も、たぶん幸せだった。


 疲れ切ってはいたが、それでも幸せだった。


 だから、口が軽くなっていた。


「あと、花嫁が父親と一緒に歩いて、新郎のところまで来る式もありました」


「父親と」


「はい」


 言ってから、少しだけしまったと思った。


 ソフィアには、父親がいない。


 両親を亡くし、ミーナを守り、修道院で生きてきた人だ。


 けれど、ソフィアは悲しそうな顔をしなかった。


 ただ、静かに頷いた。


「そうなのですね」


「まあ、全部がそうというわけではないですけど」


「はい」


「俺のいた国でも、人によりますし」


「はい」


 ソフィアは、それ以上は聞かなかった。


 ただ、もう一度、自分の左手を見つめた。


「素敵ですね」


「そうですか」


「はい。とても」


 そう言って、ソフィアは微笑んだ。


 俺は少しだけ安心した。


 今思えば、安心するところではなかった。


 ソフィアは、ただ聞いていただけではなかった。


 覚えていたのだ。


 指輪を、もう一度。


 皆の前で。


 誓いの言葉。


 誓いのキス。


 花嫁が父親と歩き、新郎のもとへ向かう道。


 そのすべてを。


「洸太さん」


「はい」


「幸せです」


 ソフィアは、ぽつりと言った。


 俺は返事に詰まった。


 その言葉は、ただ嬉しいだけではなかった。


 重かった。


 けれど、不思議なほど温かかった。


「……そうですか」


「はい」


 ソフィアは俺の方へ身体を寄せた。


 そして、指輪を嵌めた左手を俺の胸にそっと置く。


「洸太さん」


「はい」


「もう一度、言ってください」


「何をですか」


「私を、妻にしたいと」


「……」


 俺は天井を見た。


 今それを言うのか。


 いや、さっき言った。


 かなり必死に言った。


 言うまでに、何度も失敗した。


 最後には倒れた。


 それでも、ソフィアは見逃してくれないらしい。


「……ソフィア」


「はい」


「俺と、結婚してください」


 ソフィアは、ふわりと笑った。


「はい」


 その返事は、さっきよりも穏やかだった。


 けれど、重みは変わらなかった。


「何度聞いても、嬉しいです」


「何度も言うものですかね、これは」


「私が聞きたいので」


「そうですか」


「はい」


 ソフィアは、俺の胸に頬を寄せた。


「私は、あなたの妻になります」


「……はい」


「洸太さんの妻です」


「はい」


「もうすぐ、妻になるのです」


 そう言うソフィアの声は、眠たげで、幸せそうで、少しだけ誇らしげだった。


 俺は、その髪をそっと撫でた。


 何も考えずに撫でた。


 ソフィアは、目を細める。


 その顔を見て、また余計なことを言いそうになった。


 だが、さすがに今度は口を閉じた。


 もう十分だ。


 今日の俺は、これ以上余計な文化情報を流出させるべきではない。


 そう思った。


 思っただけだった。


 すでに、手遅れだった。



   *



二 浮かれポンチ


   *



 結婚式の準備は、思ったより早く始まった。


 というより、俺が何かを考えるより先に、周囲が動いていた。


 グレイスさんは、さすが商会の主だった。


 式に使う布。


 花。


 飾り。


 料理。


 人の手配。


 そうしたものが、気づけば少しずつ整っていく。


「グレイスさん、早くないですか」


「何が?」


「準備が」


「商売も式も、段取りが九割よ」


「いや、でも」


「あなたは口を出さなくていいわ」


「俺の結婚式ですよね」


「だからよ」


 言い返せなかった。


 その横で、ソフィアは幸せそうに微笑んでいた。


「グレイスさん、ありがとうございます」


「いいのよ。こういう幸せな支度は、こちらまで楽しくなるから」


「はい。私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」


「ええ、知っているわ」


 グレイスさんは笑った。


 最初は、皆そんな反応だった。


 微笑ましい。


 可愛らしい。


 幸せそうで何より。


 そんな空気だった。


 だが、三日も経つ頃には、町の人々の反応は少しずつ変わっていった。


「おはようございます」


「ああ、おはよう、ソフィアちゃん」


「私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」


「知ってるよ」


 修道院でも。


「ソフィア先生、今日は何するの?」


「洗濯物を畳みます。それから私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」


「昨日も聞いた!」


 商会でも。


「ソフィアさん、こちらの布でよろしいですか」


「はい。とても綺麗です。私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」


「ええ、存じております」


 井戸端でも。


「今日はいい天気ですね」


「はい。私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」


「天気の話はどこへ行ったんだい」


 ソフィアは、会う人ごとにそれを言った。


 まるで挨拶の一部のように。


 いや、本人の中では、おそらく挨拶だったのだろう。


 おはようございます。


 今日は良い天気ですね。


 私はもうすぐ洸太さんの妻になります。


 たぶん、同じくらい自然な言葉になっていた。


 俺は何度か止めようとした。


 だが、ソフィアがあまりにも幸せそうに言うので、何も言えなかった。


 正直に言えば、恥ずかしい。


 ものすごく恥ずかしい。


 商会で荷の確認をしている時に、向こうの方から、


「私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」


 と聞こえてくると、俺は帳簿に顔を埋めたくなる。


 実際、何度か埋めた。


 そんなある日のことだった。


 修道院の庭で、ソフィアが洗濯物を抱えて通りかかった。


「ミーナ」


「なあに、お姉ちゃん」


「私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」


「知ってる」


「ルーク」


「なんだよ、ソフィア姉」


「私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです」


「知ってる」


 ソフィアは少し不満そうに首を傾げた。


「もう少し、祝福してくれてもいいと思います」


「祝福はしてる」


 ルークが真顔で言った。


「でも、毎回初耳みたいな反応は無理だ」


「そうでしょうか」


「そうだよ」


 ミーナが頷いた。


「お姉ちゃん、それ今日何回目?」


「三回目くらいでしょうか」


「八回目だよ」


「そんなに言いましたか?」


「言ったよ」


 ソフィアは少し考え込んだ。


 たぶん、本当に自覚がなかったのだと思う。


 そこへ、庭先にいた陽子が声をかけた。


「本当に、ソフィアちゃん浮かれてるねえ」


「「そう思う」」


 ルークとミーナの声が、見事に重なった。


 陽子は肩を揺らして笑った。


「あれじゃ、まるで浮かれポンチだよ」


「浮かれポンチ?」


 ミーナが首をかしげた。


「なんだそれ」


 ルークも眉を寄せる。


 陽子は、少し得意げに言った。


「浮かれポンチってのはね、浮かれすぎて周りが見えなくなった人間のことさ」


「「なるほど」」


 二人は、妙に納得した顔で頷いた。


「浮かれポンチ……」


 ルークが小さく呟く。


 ミーナも、何度か口の中でその言葉を転がすように繰り返した。


「なんでかな。初めて聞く言葉なのに、すごくしっくり来ちゃう」


「だな」


 陽子は楽しそうに笑った。


「浮かれポンチは、世界が違っても共通だねえ」


 三人は、少し離れた場所で花を選んでいるソフィアを見た。


 ソフィアは、白い花を一輪手に取り、うっとりと眺めている。


 たぶん、式の日の自分を想像しているのだろう。


 洸太さんの妻になる自分を。


 三人は揃って、呆れたような顔をした。


 けれど、誰も嫌そうではなかった。


 呆れながら。


 困りながら。


 それでも、笑っていた。


 そこから先は早かった。


 町には、ひとつ新しい言葉が広まり始めた。


 浮かれポンチ。


 意味は、浮かれすぎて周りが見えなくなった者。


 誰も聞いたことのない言葉だったはずなのに、町の人々はすぐに意味を理解した。


 理由は簡単だった。


 目の前に、これ以上ない実例がいたからである。


「最近のソフィアちゃん、何というかねえ」


「浮かれポンチだね」


「ああ、それだ」


「実に分かりやすい」


 薬草屋の前でも。


「ソフィア先生、今日も浮かれポンチ?」


「こら、子供がそういうことを言うんじゃありません」


「でも陽子ばあちゃんが言ってた!」


「陽子さん、また変な言葉を」


 修道院でも。


「ソフィアさん、式の布はこちらでいいですか」


「はい。とても素敵です。私はもうすぐ――」


「洸太さんの妻になるんですよね」


「はい」


「浮かれポンチですね」


「……浮かれ、何ですか?」


 ついに本人の耳にも入った。


 ソフィアは、その日の夕方、真剣な顔で陽子のもとへ向かった。


「お義母さん」


「なんだい、ソフィアちゃん」


「浮かれポンチとは、どういう意味ですか」


 陽子は、わずかに目を逸らした。


「……誰から聞いたんだい」


「ミーナです」


「ミーナちゃんかい」


「ルークも知っていました」


「広まってるねえ」


「お義母さん」


 ソフィアはじっと陽子を見た。


 陽子は小さく咳払いをした。


「まあ、褒め言葉ではないねえ」


「私は浮かれてなどいません」


「ソフィアちゃん」


「はい」


「今日、薬草屋の前で三回言ってたよ」


「何をですか」


「もうすぐ洸太さんの妻になる、って」


「……それは、事実です」


「そういうところだよ」


 ソフィアは黙った。


 しばらく考えていた。


 それから、小さく頷いた。


「では、仕方ありません」


「仕方ないのかい」


「はい」


 ソフィアは、少しだけ頬を赤くした。


「私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのですから」


 陽子は少しだけ目を丸くした。


 それから、とうとう吹き出した。


「まったく」


「お義母さん?」


「前に良い女になったって言ったけどね」


「はい」


「今のソフィアちゃんは、浮かれポンチも混じってるねえ」


「……褒めていませんね」


「褒めてないね」


 ソフィアは少しだけ頬を膨らませた。


 けれど、すぐにその表情もほどけた。


 嬉しさが、隠しきれていなかった。


 隠す気も、あまりなかったのかもしれない。


 その様子を見て、陽子は目を細めた。


 ソフィアは、本当に幸せそうだった。


 両親を亡くし、妹を守り、修道院で生きてきた女。


 自分の望みを、ずっと後回しにしてきた女。


 そのソフィアが今、町中に言って回っている。


 私はもうすぐ、洸太さんの妻になるのです。


 それは、少し困った浮かれ方だった。


 けれど。


 陽子には、その浮かれ方を笑い飛ばす気にはなれなかった。


 からかいはする。


 呆れもする。


 浮かれポンチとも言う。


 それでも、胸の奥は温かかった。


 ソフィアがこれほど幸せそうにしていることが。


 そして、その相手が洸太であることが。


 陽子には、どうしようもなく嬉しかった。



   *



三 お義母さん頼み


   *



 ソフィアが陽子のもとを訪ねたのは、それから数日後のことだった。


 結婚式の準備は、少しずつ形になっていた。


 修道院の礼拝堂には、白い布が掛けられた。


 子供たちは花を集め、ミーナはそれを何度も並べ替えていた。


 グレイスは商会の人間を使い、必要な物を抜け目なく揃えていく。


 俺は何か手伝おうとして、そのたびに誰かに止められていた。


 その頃、ソフィアはひとつ、胸の内で決めていたことがあった。


 洸太さんの世界では、花嫁は父親と共に歩き、新郎のもとへ向かうのだと聞きました。


 その言葉を、何度も胸の中で繰り返していた。


 父親。


 ソフィアには、もういない。


 母も、父も、幼い頃に失った。


 それからずっと、自分がミーナを守る側だった。


 誰かに手を引かれて歩く日など、もう自分には来ないと思っていた。


 けれど、あの夜、洸太さんは言った。


 花嫁が、父親と一緒に歩くのだと。


 新郎のところまで、連れていくのだと。


 その話を聞いた時、ソフィアの胸に浮かんだ顔は、父ではなかった。


 陽子だった。


 洸太さんの母。


 自分に「お義母さん」と呼ばせてくれた人。


 洸太さんが帰れなかった場所の痛みを抱え、それでももう一度、母として立とうとしている人。


 だからソフィアは、その日の夕方、陽子の部屋を訪ねた。


「お義母さん」


「なんだい、ソフィアちゃん」


 陽子は椅子に腰掛け、子供たちの服を繕っていた。


 この人は、いつも何かを直している。


 服。


 布。


 ほつれた糸。


 そしてたぶん、言葉にならないものも。


「お願いがあります」


 ソフィアがそう言うと、陽子は針を止めた。


「改まってどうしたんだい」


「洸太さんの世界では、花嫁は父親と共に歩き、新郎のもとへ向かうのだと聞きました」


「まあ、そういう式もそれなりに見かけるねえ」


 陽子は懐かしそうに目を細めた。


「向こうでも、皆が皆そうするわけじゃないけどね。白い服を着て、教会で、父親と歩いて……そういうのは、まあ、それなりに見かけたよ」


「はい」


「それがどうかしたのかい」


「その役目を、お義母さんにお願いしたいのです」


 陽子の手が止まった。


 針を持つ指が、わずかに震える。


「……あたしに?」


「はい」


「ソフィアちゃん」


「はい」


「あたしは、あんたの父親じゃないよ」


「はい」


「母親でもない」


「はい」


「それに」


 陽子は、少しだけ言いにくそうに続けた。


「あたしは、洸太の母だよ」


「だから、お願いしたいのです」


 ソフィアは、迷わず答えた。


 陽子が黙る。


 部屋の外から、子供たちの笑い声が聞こえた。


 遠くでミーナが何かを注意している声もする。


 日常の音。


 その中で、ソフィアは背筋を伸ばした。


「父親としてではなく、洸太さんの母親として」


 陽子をまっすぐ見つめる。


「私に、洸太さんを託してほしいのです」


 陽子の唇が、かすかに動いた。


 おそらく、何かを言おうとしたのだろう。


 自分には資格がない。


 そんな役目を受け取るには、足りない。


 母親として何もしてやれなかった。


 そういう言葉が、出かけたのかもしれない。


 だが、ソフィアはその言葉を待たなかった。


「資格の話ではありません」


「……ソフィアちゃん」


「私は、お義母さんにお願いしています」


 ソフィアは、一歩も引かなかった。


「私のしたいことを、手伝ってください」


 陽子は目を伏せた。


 しばらく、何も言わなかった。


 それから、困ったように笑った。


「……ああ、親子だねえ」


「親子、ですか」


「洸太は、自分を数えないことで逃げる。あたしは、資格がないって言って逃げる」


 陽子は、膝の上の布を見下ろした。


「言葉が違うだけで、似たような逃げ方をしてるんだねえ」


「似ています」


「そこは否定してくれないのかい」


「はい」


 ソフィアは、真面目に頷いた。


「親子ですから」


「それを言われると、弱いねえ」


 陽子は深く息を吐いた。


 けれど、まだ逃げ道を探しているようにも見えた。


 だからソフィアは、さらに続けた。


「こういう時の為にも、私はあの時、お義母さんに力を貸してくださいとお願いしたのです」


「……あんたねえ」


「はい」


「まさか、あの時からこんなことまで考えていたのかい」


「全てを考えていたわけではありません」


 ソフィアは、少しだけ胸を張った。


「ですが、私は私の出来ること全てで、私の望みを叶えます。そうも言いましたよ、お義母さん?」


 陽子は、呆れたようにソフィアを見た。


 だが、その目は少し潤んでいた。


「その望みってのは、洸太と夫婦になることかい」


「はい」


 ソフィアは頷いた。


「ですが、それだけではありません」


「それだけじゃない?」


「洸太さんに、幸せになってほしいのです」


「ああ」


「ミーナにも。ルークにも。修道院の子供たちにも」


「欲張りだねえ」


「はい」


 ソフィアは、陽子をまっすぐ見た。


「お義母さんにも、幸せでいてほしいのです」


 陽子は、何も言えなかった。


 責められているわけではない。


 赦されているわけでもない。


 慰められているわけでもない。


 ただ、逃げ道を塞がれていた。


 それも、優しさで。


 ソフィアの望みの中に、自分まで入れられていた。


 陽子はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと針を布の上に置く。


「……降参だよ」


「お義母さん」


「前に、良い女になったって言ったのは撤回させてもらうよ」


 陽子は、困ったように笑った。


「もう、男前になっちまってるからね」


 ソフィアは少しだけ瞬きをした。


「それは、褒めていただいているのでしょうか」


「褒めてるよ。悔しいくらいにね」


「ありがとうございます」


「そこで素直に受け取るところも、また腹が立つねえ」


 ソフィアは、少しだけ微笑んだ。


 陽子は椅子から立ち上がった。


 そして、ソフィアの前に立つ。


 背は、ソフィアの方が少し高い。


 けれど、その時の陽子は、紛れもなく母親の顔をしていた。


「分かったよ」


「はい」


「あたしは、あんたの父親にはなれない」


「はい」


「あんたの母親にも、なれないかもしれない」


 ソフィアは何も言わなかった。


 陽子も、それ以上は言い訳しなかった。


「だけど、洸太の母親として、あんたにあの子を託すことはできる」


 ソフィアの瞳が揺れた。


 陽子は続けた。


「洸太を、頼むよ」


「はい」


「あの子は、帰るのが下手な子だからね」


「知っています」


「助けることはできても、助けてもらうのは下手だ」


「知っています」


「誰かの幸せは願えるくせに、自分の幸せは数え忘れる」


「知っています」


「なら」


 陽子は、ソフィアの手を取った。


「安心だ」


 ソフィアはその手を、両手で包んだ。


「はい。安心して、私に託してください」


 そして、静かに言った。


「必ず、今以上に幸せにしてみせます」


 陽子の顔が、くしゃりと歪んだ。


 泣きそうで、笑いそうで。


 そのどちらでもある顔だった。


「……頼んだよ」


「はい」


 ソフィアは、迷わず頷いた。


 その日の会話を、洸太は知らない。


 自分が知らないところで、自分の未来が母と妻になる女の間で受け渡しされていたことを。


 もちろん、まだ知らなかった。



   *



四 ルークの相談


   *



 商会の仕事が、珍しく休みになった日があった。


 正確に言えば、休みにされた。


 グレイスさんに、今日は手伝わなくていいと言われたのだ。


 式の準備で十分働いたから、という理由らしい。


 俺としては、働かせてもらった方が落ち着くのだが、そう言うとグレイスさんに睨まれた。


「洸太さん」


「はい」


「あなたは、休む練習も覚えた方がいいわ」


「練習が必要ですか」


「必要よ」


 そう言われて、俺は商会から追い出された。


 休み。


 やることがない。


 とても困る。


 修道院に戻れば、式の準備がある。


 けれど、そこでも俺は邪魔者扱いだった。


 椅子を運ぼうとすると、ミーナに止められた。


 飾り布を直そうとすると、子供たちに止められた。


 床の汚れを拭こうとすると、陽子に布を取り上げられた。


「あんた、式の前に奉仕活動でもするつもりかい」


「落ち着かないんだよ」


「だろうねえ」


 陽子は呆れたように笑った。


「ルーク、ちょっとこの子を連れていっておくれ」


「俺かよ」


「剣でも振らせておけば、少しは落ち着くだろう」


「犬じゃねえんだから」


「似たようなもんだよ」


 俺は否定したかった。


 だが、何かを咥えて走り回る犬よりは、木剣を振っていた方がましだった。


 結局、俺はルークに連れられて、修道院の庭の端へ向かった。


 ルークは木剣を二本持ってきた。


「本当にやるのか」


「休みの日に剣を持ってきたのは、お前じゃねえ。陽子さんだ」


「そうだな」


「で、振るのはお前だ」


「そうなるな」


 木剣を受け取る。


 ルークは軽く肩を回した。


「怪我すんなよ。ソフィア姉に怒られる」


「そこまで本気でやる気はない」


「俺もだよ」


 そう言った直後、ルークの木剣が鋭く振られた。


 俺は慌てて受ける。


 乾いた音が庭に響いた。


「本気じゃないと言っただろ」


「本気じゃねえよ」


「俺には十分速い」


「なら動け」


「厳しいな」


「休めねえ奴への処置だ」


 何度か打ち合う。


 ルークは強い。


 剣のことは、俺よりずっと分かっている。


 俺は身体を動かしながら、ようやく少し呼吸が整ってきた。


 仕事でもなく、誰かを助けるためでもなく、ただ身体を動かす。


 そういう時間は、まだ少し苦手だった。


「なあ、洸太」


 木剣を交えながら、ルークが言った。


「なんだ」


「お前、ソフィア姉にどうやって求婚したんだ」


 木剣が止まった。


 いや、俺の方だけが止まった。


 ルークの木剣が肩に軽く当たる。


「痛っ」


「隙だらけだ」


「誰のせいだ」


「俺のせいじゃねえ」


「今聞くことか」


「今聞かねえと聞けねえだろ」


 ルークは顔を逸らした。


 耳が少し赤い。


 俺は木剣を下ろした。


「ミーナですか」


「名前を出すな」


「出さなくても分かるだろ」


「急に現実になるんだよ」


「もう十分現実では」


「うるせえ」


 ルークは木剣を肩に担いだ。


「お前だって見てただろ」


「何をだよ」


「俺が色んな人にアドバイス貰って、全部失敗して、最後には倒れたところ」


「見た」


「なら、何を聞くんですか」


「だから、そこからなんで良い感じになったのかを聞いてんだろうが」


 なるほど。


 そこか。


 ルークが聞きたいのは、指輪の渡し方でも、台詞の形でもない。


 どうして、あのどうしようもない状態から、最後に言えたのか。


 そこなのだ。


 俺は少し考えた。


 格好良い答えは、たぶんない。


「最後は、すごく格好悪く開き直っただけだよ」


「開き直った?」


「ああ」


「どういう意味だ」


「自分一人じゃ無理だって認めた」


 ルークは黙った。


「だから、ソフィアに頼んだ。君が俺に勇気をくれたら、出来るかもしれないって」


「求婚する相手に、求婚する勇気をもらったのかよ」


「そうだよ」


「格好悪いな」


「格好悪いだろ」


「……でも、上手くいったんだよな」


「上手くいった」


「なんでだよ」


 俺は、救護室でのソフィアの顔を思い出した。


 あの人は、俺を笑わなかった。


 格好悪い俺を、失敗した俺を、逃げかけた俺を。


 ただ見ていた。


 待っていた。


 俺が言えるように、勇気をくれた。


「ソフィアが、いつも通り、俺に勇気をくれただけだ」


 ルークは何も言わなかった。


 木剣を握る手に、少しだけ力が入る。


 俺は続けた。


「それにな、ソフィアとミーナは姉妹だ」


「……それがなんだよ」


「逃げ続ける男を、そのまま逃がしてくれると思うか」


「……」


「ソフィアは待ってくれた。でも、逃がしてはくれなかった」


「ミーナも同じだって言いたいのか」


「同じかどうかは分からない。でも、姉妹だ」


「雑だな」


「経験則だ」


「お前、砕けて倒れただけだろ」


「ああ」


 俺は頷いた。


「だから言ってる。砕けても終わりじゃなかった」


 ルークは、少しだけ目を細めた。


「どうせ逃げても無駄だから、当たって砕けろってことか」


「俺は砕けてきた」


「本当に格好悪いな」


「でも、終わりじゃなかった」


「……」


「格好良くやろうとしなくていいと思う」


「お前が言うと説得力あるな」


「倒れたからな」


「説得力の方向がひどい」


「でも、言わなきゃ伝わらない」


 ルークは黙った。


 俺は少しだけ笑った。


「ミーナは、たぶん笑う」


「笑うのかよ」


「笑うと思う」


「おい」


「でも、馬鹿にして笑うんじゃない」


「……」


「泣きながら笑うんじゃないか」


 ルークは顔をしかめた。


「想像できるのが腹立つな」


「だろう」


「俺は、あいつに格好悪いところを見せたくねえんだよ」


「もうだいぶ見られてるだろ」


「うるせえ」


「ミーナは、それでもお前がいいんだろ」


 ルークは、言葉に詰まった。


 木剣の先が、地面に下がる。


「だったら、格好悪いまま行け」


「簡単に言いやがって」


「俺は難しかった」


「知ってる」


「だから言ってる」


 ルークはしばらく黙っていた。


 やがて、ぼそりと言った。


「指輪は?」


「用意した方がいいと思う」


「やっぱりか」


「ミーナ、欲しがってたんだろ」


「……欲しがってた」


「なら、用意しろ」


「簡単に言うな」


「グレイスさんに相談すればいい」


「あの人に知られたら終わりだろ」


「たぶん、もう知ってる」


「なんでだよ」


「グレイスさんだから」


「理由になってねえのに、理由になってるのが腹立つ」


 俺は笑った。


 ルークは木剣を握り直した。


「洸太」


「なんだ」


「お前、よくやったな」


「急にどうした」


「いや」


 ルークは、少しだけ視線を逸らした。


「格好悪くても、ちゃんと言ったんだろ」


「ああ」


「なら、すげえよ」


「……そうですか」


「そうだよ」


 そこで、ルークは一瞬だけ口ごもった。


「兄……」


「ん?」


「なんでもねえ」


「今、何か言いかけたな」


「言ってねえ」


「兄、までは聞こえた」


「聞こえてねえ」


「聞こえた」


「忘れろ」


「無理だな」


 ルークは舌打ちした。


 それから、木剣を構える。


「もう一本」


「まだやるのか」


「お前が落ち着いてねえからな」


「相談したかったのはそっちだろ」


「うるせえ。構えろ」


 俺は苦笑して、木剣を構えた。


 ルークの顔はまだ少し赤かったが、目は先ほどよりも落ち着いていた。


 きっと、彼もそのうち砕けに行くのだろう。


 俺は心の中で、少しだけ手を合わせた。


 頑張れ、ルーク。


 たぶん、そっちの戦場は、やはり俺には助けられない。



   *



五 姉妹の支度


   *



 式の前日、ソフィアの部屋はいつもより少し賑やかだった。


 白い衣装。


 花。


 髪飾り。


 薄い布。


 グレイスが用意した品々が、机や椅子の上に丁寧に並べられている。


 ミーナは、その中を何度も行ったり来たりしていた。


「お姉ちゃん、こっちの花も合うと思う」


「そうですか」


「でもこっちもいい。どうしよう。こっちだと綺麗。こっちだと可愛い」


「ミーナ」


「待って。今すごく大事なところだから」


「はい」


 ソフィアは椅子に座っていた。


 長い髪を下ろし、ミーナがその髪を梳いている。


 いつもは自分で整える髪だ。


 修道女として、姉として、生活者として。


 手早く、乱れなく、邪魔にならないように。


 けれど今日は違う。


 ミーナは、まるで宝物を扱うように、ソフィアの髪を梳いていた。


「お姉ちゃん、本当にお嫁さんになるんだね」


「はい」


「洸太のお嫁さん」


「はい」


 ソフィアは、少しだけ頬を赤くした。


「洸太さんの妻になります」


「うん。知ってる」


「……またですか」


「だって、お姉ちゃんが毎日言うから」


「そんなに言っていません」


「言ってるよ」


「……少しだけです」


「かなりだよ」


 ミーナは笑った。


 ソフィアも、少しだけ困ったように笑った。


 それから、ミーナの手が止まった。


「でも」


「はい」


「嬉しい」


 ミーナの声が少しだけ小さくなる。


「お姉ちゃんが、こんなに幸せそうなの、嬉しい」


「ミーナ」


「本当だよ」


 ミーナは、ソフィアの髪をそっと手に取った。


「昔のお姉ちゃんは、いつも私のことばっかりだった」


「私は姉ですから」


「うん。知ってる」


 ミーナは、少しだけ唇を尖らせた。


「でも、時々思ってた。お姉ちゃんは、自分のことはどうするんだろうって」


 ソフィアは黙った。


 ミーナは続ける。


「私が笑えば、お姉ちゃんは嬉しそうだった。私が泣けば、すぐ来てくれた。私が欲しいものがあれば、だいたい譲ってくれた」


「それは」


「分かってる。嬉しかったよ。すごく」


 ミーナは、ソフィアの髪に花を当てて、少し角度を変えた。


「でも、少し寂しかった」


 その言葉は、以前にも聞いた。


 焼き菓子を巡って、くだらない姉妹喧嘩をした日。


 ミーナが、ずっと憧れていたと言った。


 普通の姉妹喧嘩に。


 ソフィアは、静かに息を吐いた。


「私は、まだ姉です」


「うん」


「洸太さんの妻になっても、ミーナの姉でなくなるわけではありません」


「ほんと?」


「本当です」


「じゃあ、これからも喧嘩していい?」


「時々なら」


「焼き菓子取ったら怒るからね」


「あれは、私が悪かったです」


「うん。かなり悪かった」


「ミーナ」


「でも、嬉しかった」


 ミーナは笑った。


「お姉ちゃんが、ちょっと子供っぽくなったみたいで」


 ソフィアは少しだけ目を伏せた。


「私は、子供っぽいでしょうか」


「洸太のことになるとね」


「……」


「お姉ちゃん?」


「否定できません」


 ミーナは声を上げて笑った。


 しばらく笑って、それからふと思い出したように言った。


「ねえ、お姉ちゃん」


「何ですか」


「洸太が求婚した時のこと、聞いてもいい?」


 ソフィアの手が止まった。


 膝の上で重ねていた指が、そっと指輪に触れる。


「……はい」


 返事の声が、少し柔らかくなった。


 ミーナは目を輝かせた。


「あの時の洸太、どうだった?」


「格好悪かったです」


「えっ」


「とても」


「お姉ちゃん、言い切るね」


「はい」


 ソフィアは、指輪を見つめたまま微笑んだ。


「何度も言おうとして、何度も失敗していました」


「うん。見てた」


「皆さんから助言を受けて、それを全て真面目に受け取りすぎて、かえって分からなくなっていました」


「それも見てた」


「最後には倒れました」


「それも見た」


「本当に、格好悪かったです」


 ソフィアは、そう言ってから、胸に手を当てた。


「でも」


「でも?」


「とても、愛しかったです」


 ミーナは、瞬きをした。


「愛しかった」


「はい」


「格好悪いのに?」


「格好悪いから、ではありません」


 ソフィアは少し考えてから、言葉を選ぶように言った。


「格好悪くても、逃げずに言おうとしてくださったからです」


 ミーナは黙って聞いている。


「洸太さんは、最後に私へ言いました」


「なんて?」


「君が俺に勇気をくれたら、出来るかもしれない、と」


「求婚する相手に?」


「はい」


「それ、格好悪くない?」


「格好悪いです」


「お姉ちゃん、やっぱり言い切るね」


「はい。ですが、とても嬉しかったのです」


「なんで?」


 ソフィアは、指輪を撫でた。


「あの人が、私を頼ってくださったからです」


 その言葉は、静かだった。


 けれど、深かった。


「洸太さんは、誰かを助ける時は迷いません。自分が傷つくことも、苦しむことも、あまり数えません」


「うん」


「でも、自分が誰かに助けてもらうことは、とても下手です」


「うん」


「だから、私に勇気をくださいと言ってくださったことが、嬉しかった」


 ソフィアは、柔らかく笑った。


「あの人が、私を、隣に立つ者として見てくださった気がしたのです」


 ミーナは、黙っていた。


 しばらくして、小さく頷いた。


「ふんふん」


「ミーナ?」


「なるほど」


 ミーナは真剣な顔をしていた。


「格好悪くてもいいんだ」


「はい」


「逃げずに言おうとしてくれるなら」


「はい」


「相手に勇気をもらいに来るのも、あり」


「はい」


「でも、倒れるのはできればなし」


「そうですね」


「ふんふん」


 ミーナは、完全に何かを学習している顔だった。


 ソフィアは少しだけ苦笑した。


「ミーナ」


「なあに?」


「追い詰めすぎてはいけませんよ」


「まだ何も言ってないよ」


「顔に出ています」


「お姉ちゃんも、そういうところ洸太に似てきたね」


「そうでしょうか」


「うん。すぐ見抜く」


 ミーナは、ソフィアの髪に白い花を挿した。


「でも、ルークは逃げるよ」


「逃げますね」


「お姉ちゃん、否定してよ」


「事実ですから」


「うん。事実」


 ミーナは少しだけ頬を膨らませた。


「逃げ道を塞いでもいい?」


「ほどほどに」


「ほどほどってどれくらい?」


「ルークが泣かないくらいです」


「難しいなあ」


「ミーナ」


 ソフィアは、振り返ってミーナを見た。


「ルークは、ミーナに照らされると逃げられません」


「うん」


「ですが、焼きすぎてはいけません」


「……うん」


「照らしてあげてください。帰ってこられるように」


 ミーナは目を伏せた。


 いつもの明るい太陽のような顔ではなかった。


 少しだけ不安そうな、ひとりの女の子の顔だった。


「待てるかな」


「待てます」


「ほんと?」


「はい」


「お姉ちゃんが言うなら、そうなのかな」


「ただし」


「ただし?」


「忘れさせてはいけません」


 ミーナはぱっと顔を上げた。


「逃げ道を残すのと、忘れさせるのは違います」


「……お姉ちゃん」


「はい」


「それ、すごく私向き」


「でしょうね」


 二人は顔を見合わせて、笑った。


 ミーナは、ソフィアの髪飾りを整えた。


 白い花。


 薄い布。


 淡い金の髪。


 その姿は、いつもの姉とは違っていた。


 姉であり、修道女であり、子供たちを見守る人であり。


 そして明日、妻になる女。


「お姉ちゃん」


「はい」


「幸せになってね」


「はい」


「でも、幸せにしてもらうだけじゃ駄目だよ」


「はい」


「お姉ちゃんも、洸太を幸せにするんでしょ」


「もちろんです」


「あと」


「はい」


「時々は、私のお姉ちゃんでもいてね」


 ソフィアは、ゆっくりと立ち上がった。


 そして、ミーナを抱きしめた。


「私は、ずっとミーナの姉です」


「うん」


「洸太さんの妻になっても」


「うん」


「それは変わりません」


 ミーナは、ソフィアの胸に顔を埋めた。


「お姉ちゃん、綺麗」


「ありがとうございます」


「明日、泣くかも」


「今も泣いていますよ」


「これは違うの」


「違いますか」


「うん。練習」


「泣く練習ですか」


「そう」


 ミーナは涙を拭いながら笑った。


「明日は、もっと泣くから」


「困りましたね」


「困って」


「はい。困ります」


 二人はまた笑った。


 その笑い声は、部屋の外まで漏れていた。


 廊下で通りかかったルークが、足を止める。


 何を話しているのかまでは聞こえない。


 ただ、ミーナが泣いているようで、笑っているようでもあった。


 ルークは少しだけ扉の方を見た。


 そして、頭をかいた。


「……格好悪くても、か」


 小さく呟いてから、逃げるようにその場を離れた。


 だが、その足取りは、以前より少しだけ前を向いていた。



   *



六 託されたもの


   *



 結婚式の朝、俺は三度目の雑巾を取り上げられた。


 一度目は、礼拝堂の椅子を拭いていた時だった。


 二度目は、入口の床を磨いていた時だった。


 三度目は、飾り布の下に見えた小さな汚れを拭こうとした時だった。


「洸太さん」


 グレイスさんが、俺の手から雑巾を取り上げた。


「あなた、何をしているの」


「汚れが」


「今日はあなたが床を磨く日じゃないわ」


「でも」


「でもじゃないわ」


 グレイスさんは、笑顔だった。


 笑顔だったが、目は笑っていなかった。


「主役が床を磨いていたら、式場ではなく奉仕活動よ」


「……すみません」


「謝るところでもないわ」


 グレイスさんは小さく息を吐いた。


「落ち着かないのね」


「はい」


「でしょうね」


 なぜか納得された。


 俺は礼拝堂を見回した。


 白い布。


 花。


 木の長椅子。


 小さな祭壇。


 陽の光が、窓から斜めに差し込んでいる。


 いつもの礼拝堂のはずなのに、今日はまるで別の場所のようだった。


 そこに自分が立つのだと思うと、どうにも落ち着かない。


 誰かのために動くなら、まだ分かる。


 荷物を運ぶ。


 掃除をする。


 誰かを手伝う。


 それなら、身体が動く。


 けれど今日は違う。


 俺は、祝われる側なのだという。


 それが難しい。


 非常に難しい。


「洸太」


 声をかけられた。


 振り向くと、母さんが立っていた。


 いつもより少しきちんとした服を着ている。


 派手ではない。


 けれど、どこか背筋が伸びて見えた。


「何だよ、母さん」


「あんた、また何かしようとしてるね」


「してない」


「雑巾取り上げられた顔で言うんじゃないよ」


 言い返せなかった。


 母さんは近づいてきて、俺の襟元を直した。


 少し乱れていたらしい。


「今日はね、誰も助けなくていい日だよ」


 その言葉に、俺は黙った。


「誰かの役に立とうとしなくていい日だ」


「……難しいな」


「難しいだろうねえ」


 母さんは、困ったように笑った。


「あんたは、祝われる側になるのが下手だ」


「そうかもしれない」


「そこは否定しないんだね」


「自覚はあります」


「なら、練習しな」


「何を」


「幸せになる練習をさ」


 母さんは、俺の襟を整え終えると、軽く胸元を叩いた。


「今日は、あんたが幸せになっていい日だ」


「……」


「ソフィアちゃんと一緒にね」


 何か返そうとしたが、うまく言葉が出なかった。


 母さんはそれを見て、少しだけ笑った。


「ほら、そういう顔をしてればいいんだよ」


「どんな顔だよ」


「締まらない顔」


「ひどいな」


「今日くらい締まらなくていいんだよ」


 母さんはそう言って、礼拝堂の入口の方を見た。


 そこに、まだソフィアはいない。


 けれど母さんは、何かを待つような顔をしていた。


 やがて、人々が集まり始めた。


 修道院の子供たち。


 町の人々。


 商会の者たち。


 グレイスさん。


 ルーク。


 ミーナ。


 ミーナはすでに泣きそうだった。


「まだ始まってないぞ」


 ルークが小声で言う。


「分かってる」


「なら泣くなよ」


「無理」


「早いだろ」


「早くない」


 ミーナは目元を押さえた。


「お姉ちゃんが結婚するんだよ」


「それは知ってる」


「洸太の妻になるんだよ」


「それも知ってる」


「私のお姉ちゃんでもあるんだよ」


「それも知ってる」


「じゃあ泣くでしょ」


「いや、そこは分かんねえよ」


 ルークは困った顔をしていた。


 だが、その目は優しかった。


 その時、ミーナがふとルークを見た。


「ルーク」


「なんだよ」


「格好悪くてもいいよ」


「……何の話だ」


「分かってるくせに」


「今言うことか?」


「今だから言うの」


 ミーナは泣きそうな顔で笑った。


「それでいい。格好悪くても、ちゃんと私に言いに来てくれるなら」


 ルークは黙った。


「今じゃなくていい」


「……」


「でも、いつかちゃんと頑張ってね」


 ルークは顔を逸らした。


 耳が赤い。


「……分かったよ」


「本当?」


「本当だ」


「逃げたら?」


「逃げねえ」


「逃げたら追いかけるよ」


「知ってる」


「うん。知ってるならいい」


 ミーナは満足そうに頷いた。


 ルークは、少しだけ諦めたように息を吐いた。


「指輪は」


 小さな声だった。


 だが、ミーナには届いた。


「うん」


「ちゃんと用意する」


「……うん」


「だから、少し待て」


「待つよ」


 ミーナは笑った。


「ちゃんと、待つ」


 ルークは何か言おうとして、やめた。


 その代わり、俺の方を見た。


 目が合う。


 俺は、小さく頷いた。


 ルークは、気まずそうに顔を逸らした。


 頑張れ、ルーク。


 やはりその戦場は、俺には助けられない。


 やがて、礼拝堂の扉の向こうが静かになった。


 空気が変わる。


 子供たちも、町の人たちも、自然と口を閉じた。


 扉が開く。


 陽の光が差し込んだ。


 そこに、ソフィアがいた。


 白い衣装。


 薄い布。


 淡い金の髪。


 花を挿した髪は、いつもより柔らかく見えた。


 修道女として何度も見た人。


 薬草を仕分ける手。


 子供たちを叱る声。


 俺に帰ってきてくださいと言った瞳。


 そのすべてを知っているはずなのに。


 その日だけは、まるで知らない人のように綺麗だった。


 いや、違う。


 知らない人ではない。


 俺が知っているソフィアが、俺の知らないほど綺麗だった。


 そして、その隣に母さんがいた。


 母さんが、ソフィアの手を取っている。


 その光景を見た瞬間、俺は思い出した。


 あの夜、俺が話したことを。


 花嫁が、父親と歩く。


 新郎のところまで、連れていく。


 ソフィアは、それを母さんに頼んだのだ。


 俺は、自分の口の軽さを少しだけ呪った。


 けれど、それ以上に、胸が詰まった。


 母さんが、ソフィアを連れてくる。


 俺のところへ。


 俺の妻になる人を。


 母さんが。


「洸太」


 母さんの声で、ようやく息をした。


「口、開いてるよ」


「……悪い」


「謝るところじゃないねえ」


 周囲から小さな笑いが漏れた。


 俺は耳が熱くなるのを感じた。


 こんな日まで締まらない。


 本当に、締まらない。


 母さんとソフィアが、ゆっくりと歩いてくる。


 ソフィアは俺を見ていた。


 真っ直ぐに。


 逃げずに。


 嬉しそうに。


 そして少しだけ、誇らしげに。


 俺の前で、二人は立ち止まった。


 母さんは、ソフィアの手をそっと持ち上げた。


 そして、俺に渡す前に、ソフィアを見た。


「ソフィアちゃん」


「はい」


「この子のことを頼んだよ」


「はい」


 即答だった。


「……それは普通、俺に言うんじゃないのか」


 思わず口を挟むと、母さんは俺を見た。


「あんたは頼りないからね」


「母さん」


「ソフィアちゃんなら、その点安心だよ」


「はい、お義母さん」


 ソフィアは、迷いなく頷いた。


「安心して私に託してください。必ず、今以上に幸せにしてみせます」


「頼んだよ」


「はい」


 俺は、自分の結婚式で、自分の今後について、自分以外の二人が固く頷き合っているのを見ていた。


 何か大事なものを受け渡しされていることだけは分かった。


 ただ、その受け渡しに、俺の意見はあまり必要とされていないらしかった。


 母さんは、ようやく俺にソフィアの手を渡した。


 細い手だった。


 けれど、強い手だった。


 何度も俺を引き戻した手。


 俺に帰る場所を教えた手。


 その手が、俺の手の中にある。


 母さんは、俺を見た。


「洸太」


「……何だよ」


「ソフィアちゃんを幸せにしな」


「うん」


「それと」


「何だよ」


「あんたも、幸せになりな」


 言葉が詰まった。


 何度も聞いたようで、初めて聞く言葉だった。


 幸せになりな。


 それは命令ではなく、願いだった。


 母さんの、母としての願いだった。


「……うん」


 俺は、ようやく頷いた。


「なるよ」


 母さんは、満足そうに笑った。


 そして、ほんの少しだけ目元を押さえた。


「まったく。良い日だねえ」


 誰かが小さく笑った。


 ミーナはもう泣いていた。


 ルークは目を逸らしていた。


 グレイスさんは、扇で口元を隠しながら、こちらを見ている。


 商人の顔ではなかった。


 友人として、祝ってくれている顔だった。


 こうして、俺はソフィアの手を取った。


 母さんから。


 託されたものとして。


 そして、俺もまた。


 ソフィアを託されたのだと、遅れて理解した。



   *



七 誓いの口づけ


   *



 式は、静かに始まった。


 この世界の古い祈りの言葉が捧げられる。


 命を共にする者へ。


 喜びの日も、苦しみの日も。


 帰る場所として、互いを選ぶ者へ。


 司式を務める年長の修道女の声は、穏やかだった。


 俺はその言葉を、どこか遠くで聞いていた。


 手の中には、ソフィアの手がある。


 細くて、温かい。


 何度も俺を引き戻してきた手。


 その手が、今は俺の隣にあった。


 母さんから託された手。


 そして、母さんがソフィアに託した俺の手でもある。


 不思議な気分だった。


 俺は、誰かを助けるためにここに立っているわけではない。


 誰かの代わりに傷つくためでもない。


 ただ、ソフィアの隣に立つために、ここにいる。


 それが、こんなにも難しい。


 それが、こんなにも嬉しい。


「では、指輪を」


 その言葉で、俺は我に返った。


 グレイスさんが用意してくれた小さな皿に、指輪が載せられていた。


 見覚えのある指輪だった。


 俺が、救護室でソフィアに渡したもの。


 あの日、ソフィアの左手薬指に嵌めたもの。


 それを今、もう一度、皆の前で嵌める。


 あの夜、俺が話したことを。


 ソフィアは、やはり覚えていた。


 覚えていたどころではない。


 しっかり、式の中に組み込んでいた。


 俺は、心の中でため息をついた。


 この人は本当に、俺が渡したものを大切にしすぎる。


 そして、俺が口を滑らせたことまで、大切にしてしまう。


 逃げ場がない。


 いや、逃げるつもりはない。


 ただ、少しだけ心の準備が欲しかった。


 指輪を手に取る。


 たったそれだけで、指先が少し震えた。


 一度は嵌めた指輪だ。


 それなのに、皆の前だと思うと、ひどく緊張する。


「洸太さん」


 ソフィアが小さく俺を呼んだ。


 見ると、彼女は笑っていた。


 あの日と同じように。


 俺に勇気をくれる顔で。


「大丈夫です」


「……はい」


 俺は頷いた。


 まただ。


 俺はまた、この人に勇気をもらっている。


 ソフィアの左手を取る。


 薬指に、もう一度指輪を通す。


 ゆっくりと。


 確かめるように。


 その指に収まった瞬間、ソフィアの瞳が潤んだ。


 救護室で見た、あの泣き笑いと同じ顔だった。


 けれど今日は違う。


 あの日は、二人だけの約束だった。


 今日は、皆の前で交わす誓いだった。


 ソフィアは、指輪を見つめた。


 それから、俺を見た。


「洸太さん」


「はい」


「ありがとうございます」


「……こちらこそ」


 自分でも、何に対して礼を言っているのか分からなかった。


 指輪を受け取ってくれたことか。


 ここに立ってくれていることか。


 俺を、託されるものとして受け取ってくれたことか。


 たぶん、その全部だった。


 次に、ソフィアが俺の手を取った。


 俺のための指輪は、こちらの世界の職人が急いで作ってくれたものだった。


 派手ではない。


 細く、飾りも少ない。


 けれど、丁寧に磨かれている。


 ソフィアはその指輪を、両手で大切そうに持った。


 そして、俺の左手を取る。


 その時の手つきが、あまりにも真剣だったので、俺は少し笑いそうになった。


 だが、笑えなかった。


 ソフィアの指が震えていたからだ。


 浮かれポンチとまで言われた人が。


 町中に、もうすぐ俺の妻になると言って回った人が。


 今、俺の指に指輪を嵌めようとして、少し震えている。


 そのことが、胸に来た。


 ソフィアは、指輪をゆっくりと通した。


 俺の左手薬指に。


 収まる。


 それだけのことだった。


 それだけのことなのに、俺は息を止めていた。


「これで」


 ソフィアが、小さく言った。


「洸太さんも、私の夫です」


「……はい」


 俺は頷いた。


「そうですね」


 ソフィアは、満足そうに微笑んだ。


 その笑顔を見て、俺はまた思った。


 こんな日まで、本当に格好悪いな、と。


 指輪を嵌めるだけで震える。


 母さんに託されて、言葉に詰まる。


 皆の前で、自分が祝われることにも慣れない。


 普通なら、男が堂々とするものなのだろう。


 妻になる人を幸せにすると、格好良く言うものなのだろう。


 なのに俺は、最初から最後まで、どうにも締まらない。


「こんな日まで、本当に格好悪いな」


 思わず、口から漏れた。


 ソフィアが瞬きをする。


「そんなことありません」


「普通は、男が幸せにするって言うものなんだろうけどな」


「幸せにしてくれないのですか?」


「……」


「……」


 またやった。


 俺は馬鹿だ。


 格好がいいとか、悪いとか。


 男ならどうだとか、普通ならどうだとか。


 ソフィアは、そんなことで俺を見ていないと、もう分かっているはずなのに。


 この人は、俺が格好良いからここにいるわけではない。


 俺が何かを上手くできるから、隣にいるわけでもない。


 俺が格好悪く倒れても。


 自分一人では無理だと認めても。


 それでも、手を伸ばしてくれた人だ。


 ソフィアは、さっき母さんに言っていた。


 俺を、今以上に幸せにしてみせると。


 なら、俺が言うことは一つだけだ。


 俺は、息を吸った。


「ソフィア」


「はい」


「君を、必ず……」


 言葉が少し詰まった。


 必ず。


 そう言うのは簡単だ。


 けれど、俺は知っている。


 人生は、思った通りにはいかない。


 突然、世界から引き剥がされることもある。


 大切な人を失うこともある。


 助けたいものに、手が届かないこともある。


 だから、軽々しく永遠を約束することはできない。


 それでも。


 俺は、この人と生きたい。


 この人を、今よりもっと幸せにしたい。


 この人が、俺の隣で笑っている未来を、何度でも選びたい。


「……いつか、今以上に幸せにするよ」


 それは、格好良い誓いではなかったかもしれない。


 少し躊躇って。


 少し不器用で。


 どこか頼りない言葉だったかもしれない。


 けれど、俺の言葉だった。


 ソフィアは、花が咲くように笑った。


「はい」


 満面の笑みだった。


 その返事だけで、俺はまた少しだけ勇気をもらった。


 礼拝堂の空気が、ふっと緩む。


 誰かが小さく息を吐いた。


 ミーナは、両手で口元を押さえていた。


 目から涙が零れている。


 ルークは、何か言いたそうな顔で俺を見ていた。


 たぶん、格好悪いと言いたいのだろう。


 だが、口にはしなかった。


 その代わり、少しだけ笑っていた。


 グレイスさんは、扇で口元を隠していた。


 その目が、商人のものではなくなっている。


 母さんは、困ったように笑っていた。


 嬉しそうで、泣きそうで。


 それでも、ちゃんと笑っていた。


 年長の修道女が、穏やかに告げた。


「では、誓いの口づけを」


 場が静かになった。


 俺は固まった。


 いや、聞いていた。


 知っていた。


 言ったのは俺だ。


 俺の世界では、誓いのキスをする式がある。


 そう話した。


 それを、ソフィアは覚えていた。


 覚えていたのだ。


 つまり、これは俺の自業自得である。


 ただ、実際に皆の前でとなると、話が違う。


 違うはずだ。


 たぶん。


 ソフィアが、少しだけ首を傾げた。


「洸太さん」


「はい」


「また、勇気が必要ですか」


「……少し」


「では」


 ソフィアは、一歩近づいた。


 俺の頬に、両手を添える。


 細い指。


 温かい手のひら。


 その手が、俺の逃げ道を塞ぐように、優しく顔を包んだ。


「何度でも、差し上げます」


「ソフィア」


「はい」


「今のあなたは、とても素敵です」


「……格好悪くても?」


「はい」


 ソフィアは笑った。


「格好悪くても、私の夫です」


 そう言って、ソフィアは俺に口づけた。


 奪われた。


 そう思った。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、ああ、またこの人に連れていかれたのだと思った。


 助けるために前に出るのではなく。


 逃げるために目を逸らすのでもなく。


 ただ、ソフィアの手に顔を包まれて。


 ソフィアの方から、俺を選びに来てくれた。


 長い口づけではなかった。


 けれど、短いとも言えなかった。


 ソフィアが離れた時、俺は完全に固まっていた。


 彼女は、少しだけ頬を赤くしながらも、ひどく満足そうだった。


「洸太さん」


「……はい」


「私は、あなたの妻になりました」


「……はい」


「もうすぐ、ではありません」


「そうですね」


「妻です」


「はい」


「洸太さんの、妻です」


 何か返そうとして、言葉が詰まった。


 するとソフィアは、少しだけ不満そうに俺を見た。


「言ってください」


「何をですか」


「私が、あなたの何なのかを」


「……」


 最後の最後まで逃がしてくれない。


 本当に、この人は。


 俺は、小さく息を吐いた。


「俺の妻です」


 ソフィアは、満足そうに笑った。


「はい」


 その瞬間だった。


 誰かが手を叩いた。


 一人ではなかった。


 二人。


 三人。


 やがて、礼拝堂いっぱいに拍手が広がっていく。


 子供たちが声を上げる。


「ソフィア先生、きすした!」


「洸太、顔赤い!」


「先生、奥さんになった!」


 ミーナは泣きながら笑っていた。


「お姉ちゃん、綺麗……!」


 ルークは、顔を赤くして目を逸らしている。


「見てらんねえ……」


 だが、その口元は少し笑っていた。


 グレイスさんは、拍手をしながら俺たちを見ていた。


「なるほど。指輪に、誓いの口づけね」


「グレイスさん」


 俺は嫌な予感がした。


「流行るわね」


「今それを言いますか」


「幸せは鮮度が命よ」


「商売にしないでください」


「嫌よ。町が明るくなる商売なら、大歓迎だわ」


 母さんが笑った。


「まったく、商人だねえ」


「お褒めにあずかり光栄です」


「褒めてるかねえ」


 礼拝堂に笑いが起きる。


 拍手は、まだ止まなかった。


 祝福。


 たぶん、それはこういうものなのだろう。


 誰かを助けたからではない。


 何かの役に立ったからでもない。


 ただ、ソフィアの隣に立つ俺を。


 ソフィアの妻としての笑顔を。


 二人が二人らしいまま夫婦になったことを。


 皆が祝ってくれている。


 俺はまだ、それを上手く受け取れたとは言えない。


 けれど、ソフィアが隣にいる。


 この人が、俺の手を握っている。


 だから、少しずつ覚えていけるのかもしれない。


 幸せになる練習を。


 祝われることを。


 誰かに幸せにされることを。


 そして、誰かを幸せにすることを。


   *


 式が終わった後も、礼拝堂の周りはしばらく騒がしかった。


 子供たちは花びらを集めて、もう一度撒こうとしていた。


 グレイスさんは商会の者たちに何か指示を出している。


 ミーナはソフィアに抱きついて、何度も「綺麗だった」と繰り返していた。


 ルークはその横で、どうしていいか分からない顔をしている。


 母さんは、少し離れた場所でその様子を見ていた。


 俺とソフィアは、礼拝堂の外へ出た。


 夕方の光が、石畳を柔らかく照らしている。


 春の終わりの風が、ソフィアの髪を揺らした。


 彼女の左手には、指輪がある。


 俺の左手にも、指輪がある。


 同じではない。


 けれど、対になるもの。


「洸太さん」


「はい」


「帰る場所が、夫婦になりましたね」


 その言葉に、俺は少し笑った。


「そうですね」


「これからは、ただいまの後に、もう少し甘えてもいいですか」


「今までも十分甘えてませんでしたか」


「まだです」


「まだですか」


「はい」


 ソフィアは、当然のように言った。


「夫婦ですから」


「それは便利な言葉ですね」


「はい。とても」


 ソフィアは俺の手を握った。


 指輪と指輪が、触れる。


「洸太さん」


「はい」


「今日は、格好悪かったです」


「……否定しないんですね」


「はい」


「そこは少しくらい」


「格好悪かったです」


「二回言わなくても」


「ですが」


 ソフィアは、俺を見上げた。


「とても愛しかったです」


 何も言えなくなった。


「あなたが、何度も勇気を出してくださった日でしたから」


「……そうですか」


「はい」


 ソフィアは微笑む。


「私は、幸せです」


「はい」


「今も」


「はい」


「でも、もっと幸せになります」


「……はい」


「洸太さんも、です」


「そうですね」


「そこは、はい、と言ってください」


 俺は苦笑した。


 逃がしてくれない。


 本当に、逃がしてくれない。


「はい」


 そう答えると、ソフィアは満足そうに頷いた。


 礼拝堂の向こうから、子供たちの声が聞こえる。


 ミーナの泣き笑いの声。


 ルークの困ったような声。


 グレイスさんの明るい指示。


 母さんの笑い声。


 それらが、夕方の風に混じって届いた。


 俺はその音を聞きながら、ゆっくり息を吐いた。


 帰る場所。


 そう呼べる場所がある。


 ただいまと言えば、返してくれる人がいる。


 そして今日、その人は俺の妻になった。


「ソフィア」


「はい」


「ただいま」


 ソフィアは、少しだけ驚いた顔をした。


 それから、泣きそうなくらい幸せそうに笑った。


「おかえりなさい、洸太さん」


 俺は、もう一度その手を握った。


 託されたものは、重かった。


 けれど、その重さは不思議なほど温かかった。


 母さんから。


 ソフィアから。


 そして、俺自身から。


 俺はようやく、それを少しだけ受け取れた気がした。


 帰る場所は、今日、俺の妻になった。


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