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第18話 家族になる日

 翌朝。


 修道院の食堂は、妙な空気に包まれていた。


 いつもなら、子供たちの声で騒がしい。

 パンを取り合う声。

 水をこぼして叱られる声。

 ミーナが小さい子の面倒を見る声。

 ルークが何かを運ばされて文句を言う声。


 そういう、いつもの朝の音があるはずだった。


 だが今日は、その声の端々に、ちらちらとした視線が混じっていた。


 その視線の先にいるのは、陽子だった。


 昨日まで、皆にとってはヨナさんだった老婆。


 修道院で子供たちの服を繕い、食事を配り、夜泣きする子を抱き、時には叱り飛ばす人。


 その人が、俺の母親だった。


 そう知らされたのだから、無理もない。


「……ヨナさんが」


 ミーナが、まじまじと陽子を見ていた。


「洸太のお母さん……」


 陽子は、困ったように小さく笑った。


「そうだよ」


 その声は、昨日より少しだけ柔らかかった。


 けれど、まだどこか怯えている。

 この場にいていいのか、分からないという顔だった。


 俺はそれを見て、胸の奥が少し痛んだ。


 昨日、俺は陽子を母さんと呼んだ。

 頭を撫でてもらった。

 泣いた。

 抱きしめられた。


 それでも、すべてが終わったわけではない。


 俺の傷も。

 陽子の罪悪感も。


 そんな簡単に消えるものではなかった。


「顔は……似てねえな」


 ルークが、腕を組んで陽子と俺を見比べた。


「ルーク」


 ミーナが肘で小突く。


「いや、悪い意味じゃねえよ」


「悪い意味に聞こえたよ」


「だから悪い意味じゃねえって」


 ルークは少しだけ気まずそうに頭を掻いた。


「ただ、顔じゃねえんだよな」


「何が?」


「なんつうか……」


 ルークは俺を見た。

 それから陽子を見た。


「叱り方」


 陽子が瞬きをした。


「叱り方?」


「ああ」


 ルークは少し考えるように目を細めた。


「小さい頃さ。俺が何か失敗して、泣いてるだけだった時があっただろ」


「何度もあったねえ」


「何度もは余計だ」


 陽子が、少しだけ笑った。


 それを見て、ルークは少し安心したように続けた。


「その時、ヨナさん……いや、陽子さんはよく言ってた」


 ルークは、陽子の声を真似るように少し口調を整えた。


「泣いている暇があるなら、まず手を動かしなさい」

「まだ終わったと決まったわけじゃない」

「あんたがやるんだろう」


 俺の身体が、わずかに固まった。


 覚えがあった。


 言葉そのものではない。

 響きに。


 ミーナが刺されて倒れた日。


 ミーナを助けるために、俺がルークを叩き起こした時。


 そして、ソフィアを助けるために、ルークが俺を叩き起こした時。


 あの言葉の根に、確かに陽子の声があった。


「……そういえば」


 ミーナも、ぽんと手を打った。


「私も、小さい頃よく言われた」


「ミーナも?」


「うん。お姉ちゃんが無理してるのに、私が泣いてばっかりだった時とか」


 ミーナは、少しだけ陽子を見た。


「泣くのは後でいい」

「今は、お姉ちゃんの手を握ってあげなさい」

「寂しいのはあんただけじゃないんだよ」


 陽子の顔が、少しだけ歪んだ。


 ミーナはそれに気づかず、明るく続ける。


「言い方、ちょっと洸太に似てるかも」


「逆だろ」


 ルークが言った。


「洸太が、ヨナさんに似てんだよ」


「そっか」


 ミーナは納得したように頷いた。


「じゃあ洸太、ヨナさんの子だね」


「ものすごく雑な確認だな」


 俺が言うと、ミーナは笑った。


「でも、分かるもん」


 陽子は、泣きそうに笑っていた。


「そんなところまで、似るんだねえ」


 その声は、嬉しそうで、苦しそうだった。


 自分が洸太の中に残っていた。

 知らないところで、言葉や叱り方として残っていた。


 それはきっと、陽子にとって救いであり、同時に痛みでもあったのだろう。


 ソフィアは、そんな陽子を静かに見ていた。


 昨日、俺と陽子を二人きりにしてくれた人。


 俺が母さんと呼んだ瞬間、自分の出番ではないと、静かに場を譲った人。


 そして、今日もまた、何かを見抜いている顔をしていた。


「じゃあ」


 そこで、ミーナがまた明るい声を出した。


 その時点で、俺は少し嫌な予感がした。


 ルークも同じだったらしい。


 横で、小さく息を吐く音がした。


「私も、おかーさんって呼んでいい?」


 食堂が、止まった。


 陽子も止まった。

 俺も止まった。

 ソフィアも、ほんの少しだけ固まった。


 ルークだけが、額に手を当てた。


「まーた始まった……」


「だって」


 ミーナは真顔だった。


「私はお姉ちゃんの妹だよ」


「それはそうだな」


「お姉ちゃんは、洸太のお嫁さんになるんでしょ?」


 ソフィアの頬が、ほんの少し赤くなった。


 だが否定しなかった。


「……そのつもりです」


「じゃあ、陽子さんはお姉ちゃんのお義母さんだよね?」


「はい」


「だったら、私にとってもおかーさんみたいなものだよね?」


「……」


 ソフィアが黙った。


 その沈黙は、いつもの理詰めの沈黙ではなかった。


 少しだけ、困っている。


 いや、違う。


 少しだけ、惜しんでいる。


「お姉ちゃん?」


 ミーナが首を傾げる。


 ソフィアは、陽子を見た。

 それからミーナを見た。


「それは……」


「駄目?」


「駄目、というわけではありませんが」


 ソフィアは、珍しく歯切れが悪かった。


 ミーナがじっと見つめる。


「では、いいよね?」


「ですが」


「ですが?」


 ソフィアは、少しだけ視線を逸らした。


 それから、小さな声で言った。


「お義母さんは、私の……」


「私の?」


「……私のお義母さんです」


 俺は思わず水を飲みかけて止まった。


 ルークが目を丸くした。


 ミーナは一瞬きょとんとして、それから頬を膨らませた。


「お姉ちゃん、ずるい」


「ずるくありません」


「ずるいよ。お姉ちゃんだけ、お母さんが増えるの?」


「そういう話ではありません」


「そういう話だよ」


「違います」


「じゃあ、私も呼んでいいよね」


「それとこれとは」


「私はお姉ちゃんの妹です」


 ミーナは胸を張った。


「お姉ちゃんが幸せになるなら、私も混ぜてほしい」


 ソフィアの表情が変わった。


 それは、反論を止められた顔だった。


 ミーナは、ソフィアから何かを奪いたいわけではない。


 洸太が欲しいわけではない。

 陽子を独占したいわけでもない。


 ただ、ソフィアが得た家族の輪に、自分も入りたいのだ。


 ミーナは、ソフィアの妹だから。


 ずっと守られてきた妹だから。


 最近ようやく、くだらないことで姉妹喧嘩ができるようになった妹だから。


 ソフィアは、ゆっくりと息を吐いた。


「……理屈が強引です」


「お姉ちゃんほどじゃないもん」


「ミーナ」


「だって本当だもん」


 ルークがぼそりと言った。


「それは否定できねえな」


「ルーク」


 ソフィアが静かに名を呼ぶ。


「俺は何も言ってない」


「言いました」


「言ってません」


「言いました」


「すみません」


 早かった。


 ルークは強い。

 魔物相手なら頼りになる。


 だが、ソフィア相手には判断が早い。


 ソフィアはもう一度、ミーナを見た。


 そして、少しだけ困ったように笑った。


「……仕方ありませんね」


「いいの?」


「お義母さんに聞いてください」


 ミーナの顔がぱっと明るくなった。


 そして陽子に向き直る。


「おかーさん!」


「もう聞く前に呼んでるじゃないかい」


 陽子が、困ったように笑った。


 けれど、その声は震えていた。


「だめ?」


 ミーナが聞く。


 その顔は、ずるかった。


 陽子は、しばらく言葉を探していた。


 洸太に母さんと呼ばれたばかりだった。

 まだ、その重さに慣れていないはずだった。


 なのに、今度はミーナが、太陽みたいな顔でその名を差し出してくる。


 自分が母と呼ばれていいのか。

 自分はそんな資格があるのか。


 たぶん、陽子はまたそう考えていた。


 だが、ミーナは待たない。


 待たないことで、人を救うことがある。


「……好きに呼びなさい」


 陽子が言った。


 それだけで、ミーナは笑った。


「うん。おかーさん!」


 そして、陽子に抱きついた。


 陽子の身体が、びくりと震えた。


 けれど、すぐにその背へ手を回す。


 恐る恐るではあったが、確かに抱き返した。


「まったく」


 陽子は、ミーナの頭を撫でながら言った。


「昔から、あんたは急に飛び込んでくるねえ」


「昔も?」


「そうだよ。小さい頃、泣きながらよく私の膝に乗ってきた」


「覚えてない」


「お姉ちゃんに叱られた時なんか、特にね」


「おかーさん、それは言わなくていいよ」


「おや、もう都合の悪い時だけ黙らせるのかい」


 ミーナが少しだけ赤くなった。


 ルークが笑いを堪えている。


 それに気づいたミーナが、くるりと振り返った。


「ルークも呼んでいいんだよ?」


「呼ばねえよ!」


「なんで?」


「なんでって、なんでだよ!」


 ルークの声が裏返った。


 陽子が、にこりと笑った。


「あんたも小さい頃は、泣くたびに私の後ろに隠れてたじゃないか」


「ヨナさん!」


「今はお母さんでもいいんだよ?」


「呼ばねえって言ってるだろ!」


 食堂に笑いが起きた。


 ルークは真っ赤になっている。


 ミーナは楽しそうだ。

 ソフィアも口元を押さえて笑っている。

 俺も、少し笑ってしまった。


 その笑いの中で、陽子も笑っていた。


 けれど。


 俺には分かった。


 陽子は、まだほんの少しだけ外側にいた。


 笑っている。

 受け入れている。

 ミーナを抱き返している。


 それでも、どこかで線を引いている。


 自分はこの輪を外から見ているだけでいい。

 母と呼ばれても、家族と呼ばれても、本当に中に入ってはいけない。


 そんな顔をしていた。


 そして、それを見逃さない人がいた。


「お義母さん」


 ソフィアが、静かに呼んだ。


 陽子が顔を上げる。


「はい?」


「ひょっとして、まだ自分がこの中に入ってはいけないと思っていませんか?」


 空気が、ほんの少し止まった。


 陽子の笑みも止まった。


「そんなことは――」


「ありますね」


 ソフィアは微笑んだ。


 柔らかい笑みだった。


 だが、逃げ道のない笑みでもあった。


 俺はその笑みを知っている。


 何度も見た。


 俺が自分を数えない時。

 俺が自分には資格がないと言い出す時。

 俺が、静かに逃げようとする時。


 ソフィアは、いつもその笑みで道を塞ぐ。


 陽子は少しだけ目を伏せた。


「ソフィアちゃんは、鋭いねえ」


「洸太さんで慣れていますから」


 即答だった。


「親子揃って、同じ逃げ方をするということですね」


「そうなのかい?」


「はい」


 ソフィアはためらわなかった。


 俺と陽子が、同時に少しだけ視線を逸らした。


 ルークが小さく笑う。


「似てるな」


「うるさい」


 俺が言うと、ルークは肩をすくめた。


 ソフィアは陽子へ一歩近づいた。


「私は、力を貸してくださいとお願いしたはずです」


 陽子は黙った。


「洸太さんを救うために」

「私に力を貸してくださいと」

「そうお願いしました」


 ソフィアの声は穏やかだった。


 だが、強かった。


「でしたら、お義母さんはもう、外に立っている人ではありません」

「私たちの中にいてくださらなければ困ります」


 陽子は、困ったように眉を下げた。


「手厳しいねえ」


「必要なことです」


「洸太に似て、頑固だね」


「そこは、お義母さんに似たのでは?」


 陽子が、目を丸くした。


 それから、やれやれと肩を落とす。


「隠せないねえ、ソフィアちゃんには」


「隠させません」


「そこまで言うかい」


「言います」


 陽子は、しばらくソフィアを見ていた。


 そして、ふっと笑った。


 その笑みは、さっきより自然だった。


「なら、お詫びにひとつ、教えてあげようかね」


「何をですか?」


「洸太が小さい頃、好きだった料理の作り方」


 ソフィアの目が変わった。


 本当に変わった。


 俺はその瞬間、嫌な予感がした。


「母さん」


「なんだい」


「余計なことは言わなくていい」


「余計なことじゃないよ。大事なことだ」


「いや、でも」


 ソフィアが、俺の方を向いた。


「洸太さん」


「はい」


「ちょっと静かにしていてください」


「……はい」


 返事が早かったのは、俺の意思が弱いからではない。


 あれは逆らってはいけない声だった。


 陽子が口元を押さえて笑った。


「いいのかい、洸太。ずいぶん尻に敷かれているじゃないか」


「母さんまでそういうことを言うのか」


「いいじゃないか。幸せそうで」


「……否定しづらいから困る」


 ソフィアは、俺たちの会話を聞いているようで、ほとんど聞いていなかった。


 陽子の前に座り、真剣な顔をしている。


「お義母さん」


「なんだい」


「私は、洸太さんの今を知っています」


 ソフィアは言った。


「疲れた時の顔も」

「無理をしている時の目も」

「私に何かを隠そうとして失敗する時の癖も」

「少しずつ、分かるようになってきました」


「ソフィア」


「静かにしていてください」


「はい」


 ルークが必死に声を殺しながら肩を震わせている。


 後で覚えておけ。


「でも、私は洸太さんの昔を知りません」


 ソフィアは陽子を見つめた。


「子供の頃、何が好きだったのか」

「どんな時に甘えたのか」

「どんな味で安心したのか」

「どんな言葉で立ち上がったのか」


 陽子の表情が、静かになった。


「それは、私には分かりません」


 ソフィアは、深く頭を下げた。


「だから、教えてください」

「私がこれから、洸太さんを迎え続けるために」


 陽子は、しばらく何も言わなかった。


 その沈黙は、重くはなかった。


 むしろ、何かを受け取っている沈黙だった。


 母として知っている過去。

 嫁となる人が受け取ろうとしている未来。


 その二つが、静かに繋がっていく。


「……そんなふうに言われたら、断れないねえ」


 陽子は、小さく笑った。


「では」


「まずは、卵粥かねえ」


「卵粥、ですか」


「あの子は熱を出すと、決まってそれを欲しがったんだよ」


「母さん」


「静かにしていなさい」


「……はい」


 母にも止められた。


 逃げ場がない。


「あの子は普段、我慢ばかりするくせにね。熱が出ると、少しだけ素直になる」

「素直に」


 ソフィアが真剣に頷く。


「梅干しを少し崩して入れると、よく食べた」


「梅干し……」


「この世界には同じものはないけれど、似た酸味の実ならあるよ。あとで一緒に探そうかね」


「はい。お願いします」


 ソフィアは、まるで大切な魔法を習うように頷いた。


「他には?」


「そうだねえ。甘い卵焼きも好きだった」


「甘い卵焼き」


「弁当に入れると喜んでねえ。でも、喜んでいる顔を見られるのが恥ずかしいのか、いつも普通の顔をするんだよ」


「お義母さん」


「なんだい」


「今もそうです」


「そうかい」


「はい」


 二人で頷き合わないでほしい。


 ミーナが興味津々で聞いていた。


「洸太、子供の頃もそんな感じだったんだ」


「そうみたいだね」


 陽子が笑う。


「嬉しいのに、嬉しいと言わない」

「寂しいのに、寂しいと言わない」

「甘えたいのに、甘えない」


「お義母さん」


「今もです」


 ソフィアがまた頷く。


「ソフィア」


「事実です」


「母さん」


「事実だねえ」


 母娘で挟まれると、本当に逃げ場がない。


 俺はそこで、あることに気づいた。


 この場には、ルークがいる。


 俺だけが昔の話を掘り返される道理はない。


「そういえば」


 俺は何気ない声を装った。


「ルークも小さい頃は、ヨナさんの後ろに隠れて泣いていたらしいな」


 ルークが、即座にこちらを見た。


「おい、余計なこと言うな!」


「俺だけが昔の話をされる道理はない」


「巻き込むな!」


 ミーナの目が輝いた。


「えっ、ルークの小さい頃の話? 聞きたい!」


「聞くな!」


 陽子が、楽しそうに手を叩いた。


「あの子もねえ、強がりだけど寂しがりで」


「ヨナさん!」


「今はお母さんでもいいんだよ?」


「呼ばねえって言ってるだろ!」


 ミーナが陽子の隣に座り直す。


「おかーさん、続き!」


「続けんな!」


「ルークはねえ、小さい頃、怖い夢を見ると私のところに来てね」


「やめろ!」


「でも、泣いてないって言うんだよ。目を真っ赤にしながら」


「やめろって!」


 俺は、少しだけ勝った気分になった。


 なるほど。


 ルークに振れば、俺への追及が薄まる。


 これは使える。


「洸太さん」


 ソフィアが静かに呼んだ。


「はい」


「あとで、続きを聞きます」


「……はい」


 使えなかった。


 ルークが俺を睨む。


「お前、最低だな」


「助け合いだろ」


「今のは押し付け合いだ!」


「家族なら分け合うものだ」


「恥まで分けるな!」


 そのやり取りに、食堂がまた笑った。


 ミーナは楽しそうに笑い、陽子も肩を揺らしていた。


 ソフィアは口元に手を当てながら、目を細めている。


 グレイスさんがいたら、きっと「帳簿に載せにくい価値ね」とでも言っただろう。


 俺は、その場を見ていた。


 陽子が笑っている。


 ヨナとして、ここで積み重ねてきた時間。

 ミーナを抱き、ルークを叱り、ソフィアを見守り、子供たちの世話をしてきた日々。


 陽子は、それを罪滅ぼしだと言った。


 自分の子のところへ帰れないくせに、他人の子を抱いたと。


 けれど。


 ミーナは陽子を母と呼んだ。

 ルークは恥ずかしがりながらも、昔のことを否定しきれなかった。

 ソフィアは陽子に力を貸してほしいと頭を下げた。


 陽子がこの世界で生きてきた時間は、罪だけではなかった。


 ちゃんと、誰かに届いていた。


 俺は、そのことに少しだけ救われた。


 母さんが、ただ苦しんでいただけではなかったのだと。


 帰れなかった時間の中にも、誰かを抱いた温度があったのだと。


 そう思えたから。



 その日の午後、陽子とソフィアは台所に並んでいた。


 俺は追い出された。


 正確には、ソフィアに「洸太さんがいると集中できません」と言われ、陽子に「外でルークと薪でも運んできなさい」と言われた。


 母と嫁に同時に指示されると、人は逆らえない。


 俺とルークは、修道院の裏手で薪を運んでいた。


「洸太」


「なんだ」


「お前、さっき俺を売ったな」


「必要な犠牲だった」


「何の必要だよ」


「俺の精神的平穏」


「俺の精神はどうなる」


「家族なら助け合うものだろ」


「だから、それは助け合いじゃねえって言ってんだろ!」


 ルークは文句を言いながらも、薪を運ぶ手を止めない。


 俺も同じように薪を積む。


 少し離れた場所から、台所の声が聞こえた。


 陽子の声。

 ソフィアの声。

 時々、ミーナの声も混じる。


 何かを教える声。

 何かを覚える声。

 笑う声。


「……よかったな」


 ルークが、不意に言った。


「何がだ」


「洸太の母さん、見つかって」


 俺は手を止めた。


 ルークはこっちを見ていなかった。

 薪を抱えたまま、少し乱暴に積み上げている。


「まあ、いろいろあるんだろうけどよ」

「でも、よかっただろ」


 俺は少し考えた。


 許したわけではない。

 傷が消えたわけでもない。

 十二歳の夜がなかったことになるわけでもない。


 それでも。


「……ああ」


 俺は頷いた。


「よかった」


「ならいい」


 ルークはそれだけ言った。


 それ以上は聞いてこない。


 そういうところが、こいつの良いところだと思う。


 少しして、台所からミーナの明るい声が聞こえた。


「ルークー! あとで味見してね!」


 ルークの肩が跳ねた。


「なんで俺なんだよ!」


「ルークが一番正直な顔するから!」


「しねえよ!」


 俺は笑った。


「頑張れ」


「他人事みたいに言うな。どう考えてもお前の好物だろ」


「味見は任せた」


「おい」


 たぶん、これも家族なのだろう。


 押し付けて。

 押し付けられて。

 文句を言いながら、結局手を貸す。


 そういう、逃げてもあまり意味のない場所。



 夜。


 長い一日が、ようやく終わった。


 陽子は修道院の部屋へ戻った。

 ミーナとルークも、それぞれの場所へ帰っていった。

 昼間の騒がしさが嘘のように、部屋の中は静かだった。


 ソフィアは、俺を抱いていた。


 正確には、俺の頭を胸元に抱き込むようにして、ゆっくりと髪を撫でていた。


 肌に触れる温度が近い。


 昼間とは違う静けさの中で、ソフィアの息遣いだけが聞こえる。


 今日は、ずっと誰かに撫でられている気がする。


 母さんの手。

 ソフィアの手。


 どちらも違う。

 けれど、どちらも俺をここに留めようとする手だった。


「ソフィア」


「はい」


 呼ぶと、すぐに返事があった。


 その声が、近い。


「母さんのこと、ありがとう」


 ソフィアの手が、ほんの少しだけ止まった。


 それから、またゆっくりと動き始める。


「いえ」


 彼女は静かに言った。


「私が、したかっただけです」


「……そうか」


「はい」


 ソフィアらしい答えだった。


 誰かに褒められるためではない。

 正しいことだからでもない。

 俺のために。

 そして、自分がそうしたかったから。


 この人は、そう言い切る。


 俺は少しだけ目を閉じた。


「ソフィア」


「はい」


「それでも、ありがとう」


 今度は、ソフィアが少しだけ黙った。


 そして、小さく笑った気配がした。


「はい」


 それで終わると思った。


 だが、終わらなかった。


「でも」


「でも?」


「愛してる、がありませんでした」


 俺は、思わず苦笑した。


 顔を上げようとすると、ソフィアの腕に少しだけ力が入った。


 逃がさない、というほど強くはない。

 けれど、ここにいてほしいという意思ははっきり伝わってくる。


 俺はその腕の中で、諦めたように息を吐いた。


「ソフィア」


「はい」


「愛してるよ」


 返事は、すぐにはなかった。


 ただ、俺を抱く腕が少しだけ強くなった。


 それから、胸元の奥で、小さな声がした。


「はい」


 その声は、泣きそうなくらい嬉しそうだった。


「私も、愛しています」


 帰る場所が増えていく。


 母の手。

 恋人の腕。

 妹のように笑う少女。

 兄弟のように怒鳴る少年。

 そして、帰ってこいと言う声。


 逃げ場は、少しずつなくなっていた。


 けれど、不思議と怖くはなかった。


 逃げられないということは。


 ここにいていいと言われ続けることでもあるのだと。


 俺は、ようやく少しだけ分かり始めていた。

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