第17話 お母さん
陽子さんは、洸太さんの前に立っていた。
「洸太さん」
私は、いつもより少し硬い声で洸太さんを呼んだ。
「会わせたい人がいます」
「会わせたい人?」
洸太さんは顔を上げた。
私の後ろに、一人の老婆が立っている。
修道院で何度も顔を合わせている人。
子供たちの服を繕ったり、台所を手伝ったりしている、物静かな老婆。
洸太さんは、少し考えるように目を細めた。
「ヨナさん、でしたか」
その名を呼ばれて、陽子さんの肩が小さく震えた。
顔は伏せたままだった。
洸太さんは、不思議そうに私を見る。
「ソフィア?」
私は、一度だけ目を閉じた。
祈るように。
けれど、もう祈るだけではない。
私は、洸太さんに向き直る。
「紹介します」
声は震えていなかった。
「この方は、ヨナさん」
私は続けた。
「本名を、陽子さんと言います」
時間が、止まった。
「……ようこ」
洸太さんが、その音を口の中で転がした。
知っている名前のはずだった。
忘れたことなど、一度もなかった名前のはずだった。
けれど、すぐには意味にならないようだった。
陽子さんは、まだ顔を上げられない。
洸太さんは、ゆっくりと立ち上がった。
その顔から、表情が消えていた。
「なんで」
それは、怒鳴り声ではなかった。
責める声でもなかった。
ただ、十二歳の子供が、置いていかれた夜の続きを尋ねるような声だった。
「なんで、その名前を」
陽子さんの手が、震えた。
私は、二人の間に立たない。
けれど、離れもしない。
洸太さんの隣にいる。
陽子さんの手が届く場所にもいる。
これから何が起こるのか、私には分からない。
許されるのか。
許されないのか。
抱きしめられるのか。
拒まれるのか。
分からない。
けれど、もう逃げない。
逃がさない。
陽子さんが、ようやく顔を上げた。
涙で濡れた顔だった。
「洸太」
その声に、洸太さんの息が止まった。
「ごめんね」
陽子さんは、震える声で言った。
「母さん、帰れなかった」
その瞬間。
洸太さんの瞳が、大きく揺れた。
「洸太」
老婆が、俺の名前を呼んだ。
聞き慣れたはずの声だった。
修道院で何度も聞いた。
子供たちを叱る時の声。
服を繕いながら、何気なく俺に声をかけてくれた時の声。
ソフィアと話している時の、少しだけ掠れた優しい声。
ヨナさんの声。
そのはずだった。
「ごめんね」
老婆は、顔を上げていた。
深い皺の刻まれた顔。
白くなった髪。
少し曲がった背。
細く、節くれだった手。
俺の記憶の中にある母の姿とは、何もかもが違っていた。
母さんは、もっと若かった。
当たり前だ。
俺が最後に母さんを見たのは、俺が十二歳の時だ。
だから、目の前の老婆と、記憶の中の母が、すぐには繋がらなかった。
繋がらない。
繋がるはずがない。
繋がってほしくない。
それなのに。
「母さん、帰れなかった」
その言葉だけが、胸の奥へ落ちた。
陽子。
忘れたことなど、一度もなかった名前。
書類の中に残っていた。
親戚の家で、聞きたくもない会話の中に出てきた。
誰かが同情する時に、誰かが困った顔をする時に、いつもその名前があった。
陽子。
俺の母親の名前。
俺を置いて、いなくなった人の名前。
「……なんで」
喉の奥から、かすれた声が出た。
自分の声とは思えなかった。
もっと怒鳴るのだと思っていた。
もし会えたなら。
もし、母さんにもう一度会えたなら。
どうしていなくなったのか。
どうして帰ってこなかったのか。
どうして俺を置いていったのか。
そう怒鳴るのだと思っていた。
だが、怒りは来なかった。
いや、来ていたのかもしれない。
腹の奥で何かが熱くなりかけていた気はする。
けれど、それより先に、頭が真っ白になった。
「なんで」
もう一度、言った。
目の前の老婆は、酷く怯えていた。
俺を見る目が震えていた。
口元が、今にも崩れそうだった。
逃げたいのに逃げられない者の顔だった。
その顔を、俺は知っている。
知っていた。
ソフィアに何度も見抜かれた時の、自分の顔だ。
自分には資格がない。
自分が近づけば相手を傷つける。
だから離れていた方がいい。
だから黙っていた方がいい。
だから、いない方がいい。
そんな理屈で逃げようとする時の顔。
目の前の老婆は、俺と同じ顔をしていた。
「なんで、今ここにいるんだ」
責めるつもりで言ったのか。
縋るつもりで言ったのか。
自分でも分からなかった。
陽子は、震える唇で息を吸った。
「ごめんね、洸太」
最初に出てきたのは、謝罪だった。
「ごめんね」
同じ言葉を、もう一度。
「帰れなかった」
陽子は、俺から目を逸らさなかった。
逸らさないように、必死に耐えている顔だった。
「帰りたかった」
「ずっと、帰りたかった」
「あなたを置いていくつもりなんて、なかった」
声が震えていた。
「でも、帰れなかった」
「ごめんね」
俺は何も言えなかった。
ソフィアは、俺の隣にいた。
俺と陽子の間には入らない。
陽子の前にも立たない。
俺の腕を掴むこともしない。
ただ、そこにいた。
俺が逃げようとすれば止める。
陽子が逃げようとすれば止める。
けれど、今は何も言わない。
そう決めているようだった。
「……帰れなかったって、なんだよ」
俺は、ようやくそれだけ言った。
「帰れなかったって、何なんだよ」
陽子は、少しだけ目を伏せた。
それから、もう一度俺を見た。
「ある日、突然だった」
ぽつりと、陽子は話し始めた。
「買い物に行った帰りだったと思う。道を歩いていて、気がついたら、この世界にいた」
「……」
「理由は分からなかった。誰かに呼ばれたわけでもない。何かを頼まれたわけでもない。神様なんて、見なかった。特別な力もなかった」
俺は黙って聞いていた。
「ただ、言葉だけは分かった」
陽子は苦しそうに笑った。
「それだけだった。言葉が分かるだけ。魔法も使えない。戦うこともできない。帰る方法も知らない。どうして来たのかも、どうやって来たのかも、何も分からなかった」
手が震えていた。
陽子は、その手を握りしめた。
「探したよ」
その声が、少しだけ掠れた。
「何年も、何年も、探した」
「帰る方法を」
「元の世界へ戻る方法を」
「あなたのところへ帰る方法を」
俺の胸の奥が、ぎしりと鳴った。
「あなたが待っていると思った」
「泣いていると思った」
「私が帰らなければ、あなたは一人になるって、分かっていた」
陽子の顔が歪んだ。
「分かっていたのに」
その言葉だけが、ひどく重かった。
「見つけられなかった」
「歩いて、働いて、騙されて、逃げて、また歩いた」
「何度も、何度も、人に聞いた」
「異世界から来た者を知らないか」
「元の世界へ帰った者はいないか」
「でも、何も分からなかった」
俺は、母の姿を見ていた。
背の曲がった老婆。
白髪になった髪。
痩せた頬。
皺の刻まれた手。
その全部が、ただ老いたのではないと分かった。
苦労して。
削れて。
折れかけて。
それでも生きてしまった人の姿だった。
「最後は、疲れてしまった」
陽子は、静かに言った。
「心も、身体も、もう動かなくなって」
「この町に流れ着いて」
「修道院に拾われた」
ヨナ。
修道院で子供たちの服を繕っていた老婆。
孤児たちを叱り、抱きしめ、食事を配り、夜泣きする子供の背をさすっていた人。
「ヨナという名をもらって、ここで生きた」
「子供たちの世話をした」
陽子の声が詰まった。
「でも、それは立派なことじゃない」
俺は息を止めた。
「自分の子のところへ帰れないくせに、他人の子を抱いた」
「自分の子を一人にしたくせに、孤児たちの世話をした」
「罪滅ぼしにもならない」
「そんなもの、何の償いにもならない」
陽子は、もう一度頭を下げた。
「ごめんね、洸太」
「どんな理由があっても、あなたが一人だったことは変わらない」
「あなたが親戚の家を転々としたことも」
「良い子でいようとしたことも」
「役に立とうとしたことも」
「邪魔にならないようにしたことも」
「全部、私がいなかったせいだ」
違う。
そう言いかけた。
けれど、言えなかった。
違わないからだ。
母がいなくなってから、俺は覚えた。
静かにすること。
迷惑をかけないこと。
手伝えることを探すこと。
要らない子だと思われないようにすること。
良い子でいること。
役に立つこと。
そうすれば、少しだけそこにいられる。
捨てられるまでの時間を、少しだけ引き伸ばせる。
そう思って生きてきた。
「だから、許してほしいとは言えない」
陽子は言った。
「母親だと名乗る資格があるとも思っていない」
「でも」
陽子の目から、涙が落ちた。
「謝りたかった」
「会いたかった」
「あなたの名前を、呼びたかった」
俺は、息がうまくできなかった。
胸の奥に、十二歳の自分がいた。
夜、布団の中で息を潜めていた自分。
親戚の家の天井を見上げながら、泣かないようにしていた自分。
母さんはどこへ行ったのか。
なぜ帰ってこないのか。
自分が悪かったのか。
良い子にしていなかったからか。
泣いたからか。
手がかかったからか。
邪魔だったからか。
ずっと、聞けなかった問い。
もう聞く相手はいないと思っていた問い。
俺は、唇を噛んだ。
「……母さんは」
声が震えた。
その呼び方を、まだ自分が口にしたことに気づかなかった。
「俺を、捨てたのか」
陽子の表情が、壊れた。
けれど、逃げなかった。
目を逸らさなかった。
ただ、涙を流しながら、頷いた。
「そうだよ」
胸が、止まった気がした。
「私は、あなたを一人にした」
「捨てたかったわけじゃないなんて、言い訳にしかならない」
「帰りたかったなんて、あなたの寂しさを消せる理由にはならない」
「あなたから見れば、私は帰ってこなかった母親だ」
陽子は、泣きながら言った。
「だから、そうだ」
「私は、あなたを捨てた」
「そう言われても仕方がない」
その言葉は、刃のようだった。
けれど、その刃を握っているのは陽子自身だった。
俺に向けているのではない。
自分の手を切り裂きながら、差し出している。
責めていい。
恨んでいい。
捨てられたと言っていい。
そう言っている。
なのに。
「……なんでだよ」
俺の声は、怒鳴り声にはならなかった。
「なんで、そんな顔してるんだよ」
陽子が、息を呑んだ。
「捨てたなら」
喉が痛い。
「捨てたって言うなら」
「なんで、そんなに悲しそうな顔してるんだよ」
陽子は何も言えなかった。
「なんで、そんなにやつれてるんだよ」
「なんで、そんなに怯えてるんだよ」
「なんで、俺のことを」
言葉が詰まった。
それでも、止まらなかった。
「そんなに優しい目で見るんだよ」
涙が出ていた。
いつからか分からない。
「俺は、ずっと」
「母さんに捨てられたんだと思ってた」
「俺が悪かったんじゃないかって」
「良い子じゃなかったから」
「泣いたから」
「邪魔だったから」
「だから、いなくなったんじゃないかって」
陽子は、口を押さえた。
「捨てたなら」
「俺を捨てたなら」
「もっと平気な顔しててくれよ」
「俺のことなんか忘れて、幸せそうにしててくれよ」
そうすれば、怒れた。
恨めた。
罵れた。
どうして今さら現れたのだと。
俺を置いていったくせにと。
母親面するなと。
言えたはずだった。
なのに。
目の前の陽子は、酷く怯えていた。
酷く痩せていた。
酷く傷ついていた。
そして、それでも俺を見ていた。
俺を、まだ子供のように見ていた。
「こんなので」
声が、ぐちゃぐちゃになった。
「こんなので、怒れるはずがないだろ」
陽子は、泣いていた。
ソフィアは、何も言わなかった。
ただ、俺の隣にいてくれた。
俺は、自分の中で何かがほどけていくのを感じていた。
思い出したくなかったものが、勝手に浮かんでくる。
畳の匂い。
薄い布団。
天井の木目。
夜の暗さ。
怖くて眠れない時、背中を叩いてくれた手。
歌。
あの歌。
ソフィアが歌ってくれた子守唄。
俺が、覚えていた歌。
「……あの歌」
俺は呟いた。
陽子が、はっと顔を上げた。
「あの歌も」
言葉にするたび、胸が痛んだ。
「母さんだったのか」
陽子は、震えるように頷いた。
「夜、怖がって眠れない時に、よく歌った」
「熱を出した時にも」
「試合の前の日にも」
「泣くのを我慢している時にも」
試合。
剣道の試合。
ざわめき。
床の匂い。
面の中にこもる息。
相手の竹刀。
怖くて足が止まった時。
母さんの声。
何を止まってるの。
まだ負けたと決まったわけじゃない。
前を見なさい。
あなたが勝ちたいんでしょう。
その声が、記憶の奥から蘇った。
俺は目を見開いた。
ルークに言った言葉。
ミーナを助けに行かせるために、俺がルークを叩き起こした言葉。
そして、ルークが俺に返した言葉。
馬鹿野郎。
なにをボサっとしてる。
今やれるのはお前しかいねえ。
お前がやれ。
あれは。
俺の中に残っていた、母の声だったのか。
忘れたと思っていた。
捨てたと思っていた。
押し込めて、蓋をして、もう残っていないと思っていた。
けれど、残っていた。
母さんの歌が。
母さんの手が。
母さんの声が。
俺の中に、ずっと。
「洸太」
陽子が、俺の名前を呼んだ。
今度は、はっきりと母の声に聞こえた。
「あなたは、何も悪くなかった」
俺の身体が、強張った。
「良い子じゃなかったからじゃない」
「泣いたからじゃない」
「負けたからじゃない」
「手がかかったからじゃない」
「あなたが邪魔だったことなんて、一度もない」
陽子は、一つ一つ、言葉を置いた。
俺の中の十二歳へ届くように。
「あなたは、何も悪くなかった」
「母さんが帰れなかった」
「母さんが、帰れなかったんだよ」
胸の奥で、何かが折れた。
違う。
折れたのではない。
ずっと固まっていた何かが、砕けた。
「……母さん」
その言葉が、口から漏れた。
陽子が息を止めた。
ソフィアも、ほんの少しだけ目を伏せた。
俺はその時になって、ようやく気づいた。
自分が、母さんと呼んだことに。
ソフィアが、静かに一歩下がった。
俺は振り向かなかった。
けれど、分かった。
ソフィアは、分かっていた。
今は、自分の出番ではないと。
この傷に触れられるのは、自分ではないと。
ソフィアは扉の方へ歩いた。
足音は小さかった。
扉の前で、一度だけ立ち止まる気配がした。
「……お義母さん」
小さな声だった。
「お願いします」
それだけ言って、ソフィアは部屋を出た。
扉が、静かに閉まる。
俺と陽子だけが残った。
急に、部屋が広く感じた。
いや、違う。
十二歳の頃に戻ったような気がした。
広い家。
暗い部屋。
布団の中。
帰ってこない母を待っていた夜。
その夜の続きが、今ここにあった。
「母さん」
もう一度呼んだ。
陽子は、泣きながら返事をした。
「……なに、洸太」
その返事が、昔と同じだった。
それだけで、息が詰まった。
「一つだけ」
俺は言った。
「お願いがあるんだ」
陽子は、何度も頷いた。
「私にできることなら」
「何でもする」
「何でも」
俺は、少しだけ笑おうとした。
うまく笑えなかった。
喉が震えた。
「昔みたいに」
言葉が、途中で止まりそうになった。
それでも言った。
「頭を、撫でてほしいんだ」
陽子の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
彼女は手を伸ばしかけた。
けれど、途中で止めた。
皺だらけの手。
細くなった指。
震えている手。
触れていいのか分からない。
そんな顔をしていた。
「……いいのかい」
陽子は、まるで許しを乞うように言った。
「私が」
「触っても、いいのかい」
俺は頷いた。
声が出なかった。
陽子の手が、恐る恐る伸びた。
震えながら、俺の頭に触れた。
昔より、ずっと軽い手だった。
骨ばっていた。
皺があった。
少し冷たかった。
けれど。
撫で方が、同じだった。
髪の流れに沿って、ゆっくりと。
強くしすぎないように。
それでも、そこにいると分かるように。
母さんの手だった。
間違いなかった。
「……母さん」
声が震えた。
陽子の手も震えた。
「お母さん」
子供みたいな声だった。
自分でも驚くほど、幼い声だった。
「お母さん……」
もう駄目だった。
堪えようとしたものが、全部崩れた。
十二歳の夜からずっと押し込めていたものが、声になって溢れた。
「お母さん」
俺は泣いた。
嗚咽が漏れた。
息が乱れた。
みっともなく、肩が震えた。
陽子が、俺を抱きしめた。
最初はためらうように。
けれど、すぐに強く。
細い腕だった。
昔よりずっと細い。
それでも、確かに母の腕だった。
「洸太」
陽子も泣いていた。
「ごめんね」
「洸太、ごめんね」
「ごめんね」
「ごめんね」
謝罪ばかりだった。
それでも、その声が欲しかった。
帰ってこなかった理由より。
世界が違ったという説明より。
仕方なかったという理屈より。
俺は、ずっと、この声が欲しかったのかもしれない。
俺は陽子の服を掴んだ。
離したら、またいなくなるような気がした。
そんなはずはない。
もう子供ではない。
目の前の母は、逃げることもできないほど老いている。
それでも、掴まずにはいられなかった。
「遅いんだよ」
俺は泣きながら言った。
「ずっと」
「ずっと、待ってたんだぞ」
「ごめんね」
陽子は、俺の頭を抱きしめた。
「ごめんね、洸太」
「母さん、帰れなくて」
「帰れなくて、ごめんね」
許したわけではない。
そんな簡単な話ではなかった。
十二歳の夜が消えたわけではない。
親戚の家を転々とした記憶がなくなるわけでもない。
役に立たなければ居場所がないと思い込んだ時間が、なかったことになるわけでもない。
それでも。
母の手が、俺の頭にあった。
母の腕が、俺を抱いていた。
母の声が、俺の名前を呼んでいた。
俺は初めて、置き去りにされた子供として泣いた。
陽子は初めて、帰れなかった母として俺を抱いた。
どれくらい、そうしていただろう。
泣き疲れて、息が少しずつ落ち着いた。
俺はまだ陽子の服を掴んでいた。
離すのが、少し怖かった。
陽子はそれに気づいているのか、何も言わずに俺の頭を撫で続けていた。
手は止まらなかった。
まるで、止めたらまた過去に戻ってしまうとでも思っているように。
「洸太」
しばらくして、陽子が言った。
「……なに」
涙のせいで、声が掠れていた。
「ソフィアちゃんを、逃がしたら駄目だよ」
俺は、思わず顔を上げた。
「……急に何を」
「急じゃないよ」
陽子は、泣いた後の顔で、それでも少しだけ笑った。
「あんないい子、二度と現れないよ」
俺は黙った。
「ソフィアちゃんは、あんたを本気で救おうとしている」
「自分のことみたいに」
「ううん」
「自分のこと以上に」
その言葉に、俺は視線を逸らした。
ソフィア。
俺を救うと決めた人。
俺が自分を数えないことを許さない人。
必要だからではなく、愛しているから必要なのだと教えてくれた人。
俺が逃げようとするたび、正面から立ち塞がる人。
「私をここに立たせたのも、あの子だよ」
陽子は言った。
「あの子がいなければ、私はまだ逃げていた」
「あんたの近くにいながら、名乗らずに、遠くから見るだけで許してもらおうとしていた」
陽子は、小さく首を振った。
「あの子は強い」
「優しいだけじゃない」
「逃げ道を塞ぐのが上手い」
「……それは分かる」
俺が言うと、陽子は少しだけ笑った。
「だから、逃がしたら駄目だよ」
「ちゃんと掴んでおきなさい」
「幸せになるのが怖くても」
「自分には過ぎた人だと思っても」
「離したら駄目だよ」
母親の声だった。
叱る声。
諭す声。
試合場で、止まった俺に飛んできた声。
前を見なさい。
あなたが勝ちたいんでしょう。
その声と同じだった。
俺は、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ息を吐いた。
「逃がすも何も」
陽子が首を傾げる。
俺は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、言った。
「捕まってるのは、俺だよ、母さん」
陽子は一瞬、きょとんとした。
それから、泣き笑いのような顔になった。
「……そうかい」
「うん」
「なら、ちゃんと捕まっておきなさい」
「……努力する」
「そこは、はい、だよ」
思わず、昔みたいに背筋が伸びた。
「はい」
返事をした瞬間、陽子の顔がまた歪んだ。
泣きそうに笑って、俺の頭を撫でる。
「変わってないねえ」
「……変わっただろ」
「変わったよ」
陽子は頷いた。
「大きくなった」
「強くなった」
「優しい人になった」
そして、少しだけ声を震わせた。
「でも、返事の仕方は、昔のままだ」
俺は、何も言えなかった。
陽子の手が、また俺の頭を撫でる。
昔と同じように。
少し冷たくて。
少し細くて。
けれど確かに、母の手で。
許したわけではない。
傷が消えたわけでもない。
けれど、十二歳の夜は、ようやく続きを始めた。
帰ってこなかった母は、ここにいた。
帰れなかった母は、俺の頭を撫でていた。
そして母は、俺の未来を叱った。
ソフィアを逃がすな、と。
その言葉に、俺は少しだけ笑った。
逃がすも何も。
捕まっているのは、つくづく俺の方だった。




