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第16話 陽子

 気づいてしまった。


 そう思った瞬間から、世界の見え方が変わった。


 修道院の朝は、いつもと同じだった。


 子供たちが食堂へ駆け込んでくる。

 ミーナがそれを叱る。

 ルークがパンを片手に欠伸を噛み殺す。

 洸太さんは、眠そうな顔で席につきながらも、私の方を見ると少しだけ表情を緩める。


「おはようございます、ソフィア」


「おはようございます、洸太さん」


 その名を呼ばれるだけで、胸が温かくなる。


 けれど、今朝の私は、それだけに浸ってはいられなかった。


 昨夜のことが、頭から離れない。


 子守唄。


 この町に古くから伝わる歌。


 修道院の子供たちを寝かしつける時に、何度も歌ってきた歌。


 その歌を聞いて、洸太さんは言った。


 母さんに、小さい頃よく歌ってもらった、と。


 それだけなら、偶然かもしれない。


 古い歌が、別の土地へ伝わることもあるのかもしれない。


 私の知らないところで、同じ歌が歌われていたのかもしれない。


 そう思おうとした。


 けれど、できなかった。


 なぜなら、その歌を、あの人も口ずさんでいたから。


 庭の端で。

 古い布を繕いながら。

 誰に聞かせるでもなく、ひとりで。


 ヨナさん。


 修道院に古くからいる老婆。


 子供たちの服を繕い、台所を手伝い、時に小さな子を寝かしつける人。


 私が修道院に来た頃には、もうそこにいた人。


 私とミーナを、ずっと見てきてくれた人。


 その人の姿が、今日はやけに目についた。


 ヨナさんは、食堂の端で子供の服のほつれを直していた。


 洸太さんが、子供に頼まれて棚の上の器を取ってやる。


 子供が笑う。


 洸太さんは困ったように笑う。


 その時、ヨナさんの手が止まった。


 ほんの一瞬。


 本当に、ほんの一瞬だった。


 でも、私は見てしまった。


 ヨナさんが、洸太さんを見る目。


 懐かしむような。

 痛むような。

 手を伸ばしたいのに、伸ばせないような目。


 胸の奥が、ざわりとした。


 違う。


 まだ、分からない。


 確証などない。


 私は自分にそう言い聞かせた。


 けれど、一度気になってしまうと、もう駄目だった。


 ヨナさんの仕草が、ひとつひとつ目に入る。


 洸太さんが近くを通ると、少しだけ顔を伏せる。

 洸太さんが子供に礼を言われて困った顔をすると、ヨナさんもどこか苦しそうに目を細める。

 洸太さんが自分のことを軽く扱うような冗談を言うと、ヨナさんの指先が小さく震える。


 似ている。


 そう思った。


 顔ではない。


 洸太さんとヨナさんの顔は、似ていない。


 少なくとも、ぱっと見て親子だと思うような似方ではない。


 けれど。


 困った時に、笑ってごまかそうとするところ。

 誰かから優しさを向けられると、受け取り方が分からないように目を逸らすところ。

 自分の痛みを、自分だけのものにしてしまうところ。


 似ている。


 そう見えてしまった。


 見えてしまった以上、もう見えなかったことにはできなかった。


「お姉ちゃん」


 ミーナの声で、私は我に返った。


「はい」


「さっきから、ヨナおばあちゃんのこと見すぎ」


「見ていません」


「見てるよ」


「見ていません」


「洸太を見る時と同じ顔してる」


「していません」


 思わず即答してしまった。


 ミーナは怪しむように目を細めた。


「してる」


「していません」


「うーん……」


 ミーナは私を見て、それからヨナさんを見て、最後に洸太さんを見た。


 やめてほしい。


 ミーナは時々、妙に鋭い。


 ルークのことになると真正面から突っ込むくせに、こういう時だけ余計なところに目が届く。


「何か気になることがあるの?」


「……少しだけです」


「少しだけ?」


「はい。少しだけ」


「お姉ちゃんの少しだけは、だいたい少しじゃないよ」


 否定できなかった。


 私は小さく息を吐いた。


「まだ、分かりません」


「何が?」


「分からないことが、分からないのです」


「なにそれ」


 ミーナは眉を寄せた。


 それから少し考えて、真面目な顔になった。


「洸太のこと?」


 私は答えなかった。


 答えなかったことで、答えたようなものだった。


 ミーナの表情が変わる。


「お姉ちゃん」


「大丈夫です」


「本当に?」


「はい」


 私は微笑んだ。


 ミーナを安心させるための笑みだった。


 けれど、ミーナは完全には納得していないようだった。


 それでも、それ以上は聞かなかった。


 ミーナは私が話すまで待ってくれる。


 昔の私は、何でもミーナの前に立って隠そうとしていた。


 けれど今のミーナは、時々私を待つ。


 そのことが、少し嬉しかった。



 昼過ぎ。


 私はルークに声をかけた。


 洸太さんは商会へ出ている。

 ミーナは子供たちと洗濯物を干している。

 ヨナさんは、庭の隅でいつものように布を繕っていた。


 私はあえて、少し離れた場所でルークと話すことにした。


「ルーク」


「なんだ?」


「聞きたいことがあります」


「改まってなんだよ。怖えな」


「怖くはありません」


「そういう時ほど怖えんだよ」


 ルークは警戒していた。


 失礼だと思う。


 けれど、今はその反応に構っている余裕はなかった。


「あなたが洸太さんに言った言葉を、覚えていますか」


「俺が洸太に?」


「はい。私が倒れた日です」


 ルークの顔から、軽さが消えた。


 あの日のことを、誰も忘れていない。


 私も。

 洸太さんも。

 ミーナも。

 ルークも。


 あの日、私は死にかけた。


 洸太さんは絶望しかけた。


 そして、ルークが叩き起こした。


「ああ」


 ルークは少し気まずそうに頭を掻いた。


「馬鹿野郎、なにをボサっとしてる。今やれるのはお前しかいねえ。お前がやれ。……そんなようなことだろ」


「はい」


「それがどうした」


「その言葉は、誰かに似ていましたか」


「誰か?」


 ルークは首を傾げた。


「いや、分かんねえよ。あん時は必死だったし」


「そうですか」


「でも」


 ルークはそこで言葉を切った。


 何かを思い出した顔だった。


「似てるっつうか、俺がミーナの時に動けなくなった時、洸太に似たようなこと言われたな」


「洸太さんに」


「ああ。泣いてる暇があるなら動け、助けたいなら立て、みたいな感じでな」


 やはり。


 胸の奥で、ひとつ線が繋がる。


 洸太さんがルークを立たせた。

 ルークが洸太さんを立たせた。


 同じ形の言葉。


 絶望して止まった者に、泣いている暇を与えない言葉。


 まだ終わっていない。

 お前が行け。

 お前が助けろ。


 その言葉。


「でも、そういや」


 ルークが眉を寄せた。


「ソフィア姉も、ミーナの時に婆さんに言われてたよな」


 私は息を止めた。


「覚えているのですか」


「覚えてるよ」


 ルークは当然のように言った。


「早く行け、まだ死んだと決まってない、お姉ちゃんなんだろ、って」


 あの時の声が、耳の奥に蘇る。


 ミーナが倒れた日。


 私は絶望していた。


 自分の回復魔法では届かないと理解して、立てなくなっていた。


 そこにヨナさんが来た。


 そして、私を叱った。


 早く行きなさい。

 まだ死んだと決まっていない。

 お姉ちゃんなんでしょう。


 あの言葉で、私は立った。


 あの言葉がなければ、私は動けなかったかもしれない。


「なんつうか、似てるよな」


 ルークが言った。


「何がですか」


「洸太と婆さん」


 心臓が、強く跳ねた。


「顔じゃねえぞ。顔は似てねえ」


「はい」


「でも、ああいう時の言い方っつうか、背中の蹴り方っつうか」


 ルークは言葉を探すように視線を宙へ向けた。


「止まってる奴を、無理やり現実に戻す感じが似てる」


 それは、私が思っていたことそのものだった。


 似ている。


 顔ではない。


 声でもない。


 けれど、誰かを助ける時の乱暴な優しさが似ている。


 泣くなとは言わない。

 けれど、泣いている暇は与えない。


 お前が行け。

 お前が助けろ。

 お前の大切な人だろう。


 そう言って、絶望の底へ沈みかけた者の背を、力ずくで押し返す。


 洸太さんの中にあるその厳しさを、私は知っている。


 そして、ヨナさんの中にも同じものを見た。


「……ソフィア姉?」


 ルークが少し不安そうに私を見た。


「大丈夫か?」


「はい」


「大丈夫って顔じゃねえぞ」


「大丈夫です」


「本当かよ」


「はい」


 私は頷いた。


 まだ、誰にも言えない。


 ミーナにも。

 ルークにも。

 もちろん、洸太さんにも。


 けれど、私はもう一人では気のせいにできなくなっていた。


 ルークも、似ていると言った。


 私だけが見ている幻ではない。


 私は、静かに息を吸った。


「ありがとうございます、ルーク」


「いや、何がだよ」


「助かりました」


「だから何がだよ」


 ルークは困惑していた。


 けれど、私はそれ以上説明しなかった。



 夕方。


 洸太さんが商会から帰ってきた。


「ただいま、ソフィア」


「おかえりなさい、洸太さん」


 そのやり取りは、もう当たり前のものになりつつあった。


 けれど、私にとっては今でもひとつひとつが大切だった。


 帰ってきた。


 今日も。


 私のところへ。


「ソフィア?」


「はい」


「何かありましたか」


 やはり、この人は私の変化に気づく。


 自分のことになると鈍いのに、人のことには妙に鋭い。


「いいえ」


「本当に?」


「はい」


 私は微笑んだ。


「ただ、少し考えごとをしていただけです」


「俺にできることはありますか」


 その言葉に、胸が少し痛んだ。


 この人はすぐに、何かをしようとする。


 自分が役に立てることを探す。


 その姿が愛しくて、同時に苦しい。


「では」


 私は少し考えてから言った。


「言ってください」


「何をですか」


「分かっているはずです」


 洸太さんは一瞬固まった。


 それから、少しだけ頬を赤くした。


「今ですか」


「今です」


「帰ってきてすぐですよ」


「帰ってきたからです」


 洸太さんは周囲を見た。


 ミーナが見ている。

 ルークも見ている。

 子供たちも何かを察してにやにやしている。


 逃げ場はない。


 私は逃がすつもりもなかった。


「……愛してる」


 洸太さんが小さく言った。


「はい。私も愛しています」


 そう返すと、洸太さんは困ったように目を逸らした。


 けれど、嫌そうではなかった。


 私はその顔を胸にしまう。


 この人を守りたい。


 この人を帰らせたい。


 この人がまた自分を置き去りにしようとするなら、許さない。


 そのためなら、私は何でもする。


 できることの全てをする。


 たとえ、それが誰かの古い傷を開くことだとしても。



 夜。


 私はヨナさんを探した。


 修道院の奥、古い物置の近く。


 そこに、小さな椅子を置いて、ヨナさんは布を畳んでいた。


 蝋燭の火が、皺の深い横顔を照らしている。


「ヨナさん」


 私が声をかけると、ヨナさんはゆっくり顔を上げた。


「ソフィアちゃんかい」


「はい」


「こんな時間にどうしたんだい」


 いつもの声だった。


 穏やかで、少し掠れた、優しい声。


 けれど私はもう、その声の奥にあるものを見ないふりはできなかった。


「お話があります」


 ヨナさんの手が止まった。


「私にかい」


「はい」


 ヨナさんは、少しだけ目を伏せた。


 まるで、いつかこの時が来ることを恐れていたように。


「……座りなさい」


「ありがとうございます」


 私は向かいの椅子に腰を下ろした。


 しばらく、沈黙が落ちた。


 外からは、遠く子供たちの寝息のような静けさだけが聞こえる。


 私は、できるだけ静かに口を開いた。


「昨夜、洸太さんに子守唄を歌いました」


 ヨナさんの針が止まった。


 分かっていた。


 この話から始めれば、止まると。


「……そうかい」


「この町に古くから伝わる歌です」


「そうだねえ」


「私も、小さい頃から聞いてきました。ミーナにも歌いました。修道院の子供たちにも、何度も」


「いい歌だよ」


「はい」


 私はヨナさんを見つめた。


「洸太さんは、その歌を聞いて、お母様を思い出しました」


 ヨナさんは答えなかった。


 手元の布を見つめたまま、動かない。


「おかしいと思いました」


「古い歌だからね」


 ヨナさんは小さく言った。


「どこか遠くへ伝わっていても、不思議じゃないよ」


「はい。私も、そう思おうとしました」


「なら、それでいいじゃないか」


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「それでは、足りません」


 ヨナさんの指が、小さく震えた。


「ソフィアちゃん」


「はい」


「あまり、年寄りを困らせるものじゃないよ」


「分かっています」


「なら」


「でも、洸太さんを困らせるものを、私は見過ごせません」


 ヨナさんが顔を上げた。


 その目に、痛みが浮かんでいた。


「……あの子は、困っているのかい」


 あの子。


 その言葉が、自然にこぼれた。


 私は息を呑みそうになった。


 けれど、表情を変えないようにした。


「はい」


 私は答えた。


「洸太さんは、ずっと困っています」


「そうかい」


「自分がここにいていい理由を、ずっと探しています」


 ヨナさんの顔が歪んだ。


「役に立たなければいけない。誰かを助けなければいけない。そうしなければ、自分はいてはいけないと思っている」


「……」


「それは、子供の頃に覚えたことだと、洸太さんは言っていました」


 ヨナさんは布を握りしめた。


「母親がいなくなってから、親戚の家をたらい回しにされたと」


 ヨナさんの肩が震えた。


 私は言葉を続ける。


 ひどいことをしている。


 分かっていた。


 この人は、言いたくないのだ。

 言えないのだ。

 それでも私は、言葉を重ねている。


 逃げ道を塞いでいる。


 聖女としてなら、きっと間違っている。


 けれど。


 私は聖女なんかではない。今はただの女。


 私は、洸太さんを愛している。


 あの人の中に刺さったままの棘を見つけてしまった。


 なら、見なかったことにはできない。


「あなたは、洸太さんを知っているのですね」


 ヨナさんは、すぐには答えなかった。


 蝋燭の火が揺れる。


「知らないよ」


 ようやく出た声は、あまりにも弱かった。


「私は、あの子のことなんて、何も知らない」


 また、あの子。


 ヨナさん自身も、それに気づいたのだろう。


 唇が震えた。


 私は逃がさなかった。


「では、なぜ“あの子”と呼ぶのですか」


「……」


「なぜ、洸太さんを見る時、あんな顔をするのですか」


「ソフィアちゃん」


「なぜ、あの歌を聞いて動揺するのですか」


「やめておくれ」


「なぜ、あの日、私にあんな言葉をくださったのですか」


 ヨナさんの顔が強張った。


「ミーナが倒れた日です」


 私はゆっくり言った。


「あなたは私に言いました」


 早く行きなさい。

 まだ死んだと決まっていない。

 お姉ちゃんなんでしょう。


「あの言葉で、私は立てました」


「……そうかい」


「そして洸太さんも、同じことをします」


 ヨナさんの肩が、小さく震えた。


「絶望して止まった人に、泣く時間を与えない。まだ終わっていないと叩きつける。あなたが行けと、背中を押す」


「……」


「洸太さんは、ルークにそうしました。ルークは、洸太さんにそう返しました」


 私はヨナさんを見つめた。


「そして、あなたも、私にそうしました」


「偶然だよ」


「本当に、偶然ですか」


 ヨナさんは答えない。


 私は、一歩踏み込んだ。


「昔、あなたが知っていた子にも、そう言ったのではありませんか」


 ヨナさんの息が止まった。


 その沈黙は、答えだった。


「……何を止まってるの」


 ヨナさんの唇が、勝手に動いたようだった。


「まだ、負けたと決まったわけじゃない」


 私は息を止めた。


「前を見なさい」


 ヨナさんの声が震える。


「あなたが、勝ちたいんでしょう」


 そこまで言って、ヨナさんは自分の口を押さえた。


 涙が、皺の間に滲んだ。


 私は動けなかった。


 その言葉。


 きっとそれは、幼い洸太さんに向けられた言葉だった。


 洸太さんは覚えていないのかもしれない。


 けれど、忘れてはいなかった。


 あの人の声は、洸太さんの中に残っていた。


 母に捨てられたと思っていた人の中に。


 母の声が、今も残っていた。


「違うよ」


 ヨナさんは首を振った。


 けれど、その声は震えていた。


「私は、あの子の母親なんかじゃない」


 私は、息を止めた。


 まだ私は、そんなことを聞いていない。


 ヨナさんも、それに気づいたのだろう。


 顔から血の気が引いていく。


 沈黙が落ちた。


 私は、ヨナさんの手を見た。


 細く、皺だらけで、震えている手。


 その手に、そっと自分の手を重ねた。


「私は、まだ何も聞いていません」


「ソフィアちゃん……」


「教えてください」


 ヨナさんは首を振った。


「できないよ」


「できます」


「できない」


「できます」


「できないんだよ!」


 ヨナさんが、初めて声を荒げた。


 その目には涙が溜まっていた。


「私は、あの子を置いていったんだ」


 その声は、老婆のものではなかった。


 母親の声だった。


「十二歳だった」

「まだ、子供だった」

「夜になると、怖がって布団にもぐる子だった」

「試合に負けると、泣くのを我慢する子だった」


 ヨナさんの手が震える。


「そんな子を、私は一人にした」

「どんな理由があっても、あの子から見れば同じだ」

「私は、あの子を捨てた母親なんだよ」


 私は何も言えなかった。


 違います、と言いたかった。


 けれど、言えなかった。


 洸太さんが一人だったこと。

 捨てられたと思って生きてきたこと。

 自分がいてもいい理由を作るために、ずっと必死だったこと。


 それは、確かにあった。


 簡単に否定していいものではない。


 だから私は、別の言葉を選んだ。


「では、そのことを、洸太さんに言ってください」


「できないよ」


「できます」


「できない!」


 ヨナさんは首を振った。


「恨まれているに決まってる」

「責められて当然なんだ」

「母親なんて呼ばれる資格はない」

「今さら、どの顔であの子の前に立てばいいんだい」


 聞き覚えのある逃げ方だった。


 私は、思わず小さく息を吐きそうになった。


「……本当に、親子なのですね」


「え?」


「いえ。こちらの話です」


 同じだ。


 洸太さんも、そう言う。


 自分には資格がない。

 自分が近づけば相手を傷つける。

 だから、自分は後ろへ下がる。


 聞き慣れている。


 そして私はもう、その言葉に騙されない。


「ヨナさん」


「……」


「洸太さんと同じことを仰るのですね」


「同じ?」


「はい」


 私は静かに言った。


「自分には資格がない。自分が近づけば相手を傷つける。だから、自分は遠くにいるべきだ」


 ヨナさんは言葉を失った。


「聞き慣れています」


「……」


「そして、その言葉を理由に逃げる方を、私はもう逃がさないことにしています」


 ヨナさんは、泣きそうな顔で笑った。


「洸太も、そんなことを言うのかい」


「はい。よく」


「そうかい」


 ヨナさんは目元を押さえた。


「嫌なところが似ちまったねえ」


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「似ているのは、そこだけではありません」


「……」


「誰かを放っておけないところも」

「自分が傷つくことを、数えないところも」

「本当は会いたいのに、相手のためだと言って我慢するところも」


 私は、ヨナさんを見つめた。


「よく似ています」


 ヨナさんの涙が、ぽろりと落ちた。


「私には、あの子に会う資格なんてない」


 それでも、ヨナさんは逃げようとした。


「母親ですなんて、今さら名乗れるはずがない」

「恨まれていて当然なんだよ」

「十二歳のあの子を置いていった」

「私は、あの子を捨てた母親なんだ」


 私は息を吸った。


 そして、言った。


「お義母さん」


 ヨナさんの呼吸が止まった。


「……今、なんて」


「お義母さん、と申し上げました」


「やめておくれ」


 ヨナさんは首を振った。


「そんなふうに呼ばれる資格は、私には」


「資格の話ではありません」


 私は一歩、近づいた。


「私は、洸太さんを愛しています」

「いずれ、あの人の妻になります」

「そのつもりで、あの人の隣にいます」


 ヨナさんは言葉を失っていた。


「だから、あなたは私にとって、洸太さんのお母様です」


 私は逃げなかった。


「お義母さんです」


 ヨナさんの顔が歪んだ。


「そんなふうに呼ばれたら」


「はい」


「私は」


「はい」


「私は、本当に、あの子の母親みたいじゃないか」


「違うのですか」


 ヨナさんは答えられなかった。


 私は、もう一度呼んだ。


「お義母さん」


「……やめておくれ」


「やめません」


 ヨナさんは、子供のように首を振った。


 私はその姿を見て、胸が痛んだ。


 この人を追い詰めている。


 分かっている。


 けれど、退かない。


「私は、あなたを赦すことはできません」


 私がそう言うと、ヨナさんは顔を上げた。


「それは、私の役目ではありません」


 私は言葉を続けた。


「けれど、あなたを洸太さんのお母様ではないことにはできません」


 ヨナさんは、何も言わなかった。


 私は深く息を吸う。


「私の愛しい人は、見ていられないくらい歪んでしまっています」


 ヨナさんの顔が、痛みに歪んだ。


「自分を数えません」

「役に立たなければ、ここにいてはいけないと思っています」

「誰かを助けるためなら、自分を置き去りにしてしまいます」


 声が震えそうになる。


 私はそれを押さえ込んだ。


「私は、あの人を愛しています」

「だから、止めたい」

「何度でも帰ってきてもらいたい」

「自分を捨てることを、許したくない」


 けれど。


「私だけでは、足りないかもしれません」


 ヨナさんは、私を見ていた。


「恋人としての私の言葉では、届かない場所があるのかもしれません」

「妻になる女として、どれだけ愛を伝えても」

「十二歳のまま置き去りにされたあの子には、届かない場所があるのかもしれません」


 それを認めるのは悔しかった。


 私は、洸太さんを救いたい。


 私の手で。

 私の言葉で。

 私の愛で。


 けれど、あの人の中には、私が出会うよりずっと前の傷がある。


 そこには、私だけでは届かないかもしれない。


 なら。


 届くかもしれない人を、私は呼ぶ。


 たとえ、その人自身が逃げようとしても。


「私はもう、決めています」


 私は言った。


「私は、私の全てで」

「できることの全てで」

「あの人を救いたいのです」


 ヨナさんは、言葉を失っていた。


「綺麗な願いではないのかもしれません」

「あなたを追い詰めていることも、分かっています」

「私がこうして頭を下げれば、あなたが断れなくなることも、分かっています」


 それでも。


「それでも、私は退きません」


 私はヨナさんを見つめた。


「洸太さんを、失いたくありません」


 そして、深く頭を下げた。


「だから」


 一度だけ、息を吸う。


「お義母さん」


 ヨナさんの肩が震えた。


「どうか私に、力を貸してください」


 長い沈黙が落ちた。


 ヨナさんは、頭を下げる私を見ていた。


 私は顔を上げなかった。


 これが卑怯なことだと分かっている。


 ヨナさんは私に弱い。


 私が修道院に来た頃から、ずっと見てくれていた。


 泣きたいのに泣けなかった頃の私も。

 ミーナを守ろうとして、必死に姉であろうとしていた私も。

 聖女と呼ばれる前から、自分を後回しにしていた私も。


 きっと、この人は見ていた。


 そして最近の私も、見ていた。


 洸太さんの名を呼ぶ時の私を。

 洸太さんに名前を呼ばれて、胸を満たしている私を。

 愛していると言われて、幸せそうに笑う私を。


 その私が、今、頭を下げている。


 私の愛しい人を助けるために、力を貸してほしいと。


 お義母さん、と呼んで。


 断れるはずがない。


 そう分かっていて、私は言った。


 ひどいことをしている。


 でも、やめない。


 私は、洸太さんを失いたくない。


「……ずるい子だねえ」


 ヨナさんの声がした。


 涙を含んだ声だった。


「はい」


「私が、それを聞いて逃げられないと分かっていて、言ったんだね」


「はい」


「私が、ソフィアちゃんに弱いと分かっていて」


「はい」


「それでも、そんなふうに頼むのかい」


「はい」


 私は顔を上げた。


「私は、洸太さんのことになると、綺麗ではいられません」


 ヨナさんは、泣きながら笑った。


「本当に、いい女になったねえ」


「ありがとうございます」


「怖い女にもなった」


「それも、否定しません」


 ヨナさんは両手で顔を覆った。


 肩が震えていた。


 しばらくして、掠れた声が漏れる。


「……帰りたかったよ」


 私は黙って聞いた。


「帰りたくなかった日なんて、一日もなかった」


 ヨナさんは、ゆっくりと顔を上げた。


 涙で皺が濡れていた。


「本当の名は、陽子」


 陽子。


 その名前を聞いた瞬間、胸の奥が震えた。


「元の世界での名だよ」


「陽子さん」


「そう呼ばれるのは、何十年ぶりだろうねえ」


 陽子さんは、遠くを見るような目をした。


「あの子が十二の頃だった」


 声が、少しずつ昔へ戻っていく。


「ある日、突然こっちへ来た。理由なんて分からない。神様の声も、使命も、何もなかった。ただ、気づいたら知らない場所にいた」


 陽子さんは唇を噛んだ。


「言葉だけは分かった。なぜかは知らない。それ以外は、何もなかった」


 魔法も。

 力も。

 帰る方法も。


 ただ一人、知らない世界に落とされた。


「探したよ」


 陽子さんは言った。


「何年も、何年も。帰る方法を探した。あの子が待っていると思ったから。泣いていると思ったから。私が帰らなきゃ、あの子は一人になると思ったから」


 けれど。


「普通の女に、そんなもの見つけられるはずがなかった」


 その声は、あまりにも乾いていた。


「歩いて、働いて、騙されて、逃げて、また歩いて。気づいたら、ここに流れ着いていた」


「修道院に」


「ああ」


 陽子さんは頷いた。


「拾われたんだよ。ひどく弱っていた。もう何もかも諦めかけていた」


 それでも、目の前には子供たちがいた。


 親を失った子。

 家を失った子。

 泣いている子。

 誰かの腕を探している子。


「自分の子のところへ帰れないくせに」


 陽子さんは笑った。


 壊れそうな笑みだった。


「他人の子を抱いた」


「……」


「最低だろう」


 私は、すぐには答えられなかった。


 最低かどうかを、私が決めることはできない。


 それを聞く権利があるのは、きっと洸太さんだ。


 だから、私は別のことを言った。


「それでも、あなたは私たちを見ていてくださいました」


 陽子さんが私を見る。


「ミーナを」

「ルークを」

「修道院の子供たちを」

「そして、私を」


 陽子さんの目が揺れた。


「私は、そのことに救われたことがあります」


「ソフィアちゃん……」


「けれど」


 私は静かに続けた。


「その罪を、私が消すことはできません」


「ああ」


「その謝罪を、私が受け取ることもできません」


「ああ」


「だから、洸太さんに会ってください」


 陽子さんは目を閉じた。


「会いたいよ」


 その言葉は、あまりにも小さかった。


「会いたいに決まっているじゃないか」


 涙が落ちる。


「抱きしめたい」

「名前を呼びたい」

「ごめんねって言いたい」

「ずっと帰りたかったって言いたい」


 けれど。


「怖いんだよ」


 陽子さんは震えていた。


「自分を置いてどこへ行っていたんだって言われたら」

「なんで帰ってこなかったんだって言われたら」

「母親なんかじゃないって言われたら」


 その言葉は、陽子さん自身を刺していた。


「その通りなんだよ」

「何を言われても、その通りなんだ」

「だから、私は」


「逃げないでください」


 私は言った。


 陽子さんが顔を上げる。


「あなたが、かつて私に言ってくれたではありませんか」


 早く行きなさい。

 まだ死んだと決まっていない。

 お姉ちゃんなんでしょう。


「あの時、私はあなたの言葉で立ちました」


 私の声は静かだった。


「洸太さんも、同じように誰かを立たせてきました」

「ルークも、洸太さんを立たせました」

「きっと、その言葉の始まりは、あなたです」


 陽子さんの瞳が揺れる。


「あなたの声は、洸太さんの中に残っています」

「子守唄も」

「叱る声も」

「誰かを見捨てられない優しさも」


 私は胸に手を当てた。


「洸太さんの中には、あなたが残っています」

「あなたが消えた後も、ずっと」


 陽子さんは声もなく泣いた。


「なら、なかったことにはできません」


 私は言った。


「あなたが断っても、私は洸太さんを諦めません」


「……」


「でも、私はきっと、今より少しだけ弱くなります」


 陽子さんの顔が歪んだ。


 卑怯だ。


 分かっている。


 けれど、私は続けた。


「私は、私の子を」


 その言葉に、自分の胸が少し熱くなる。


 まだ形にもなっていない未来。


 けれど、もう私の中では確かにある願い。


「私の子を、あの人のお母様にも抱いてほしいのです」


 陽子さんの息が止まった。


「そんなことを……」


「はい」


「そんなことを言われたら、私は」


「逃げられませんか」


 私は目を逸らさなかった。


「はい。逃げないでください」


 陽子さんは、しばらく何も言わなかった。


 ただ、顔を伏せたまま、肩を震わせていた。


 やがて、掠れた笑いが漏れた。


「……ずるい子だねえ」


「はい」


「本当に、ずるい」


「はい」


「私が、それを聞いて逃げられないと分かっていて、言ったんだね」


「はい」


「抱きたいに、決まっているじゃないか」


 陽子さんの声が震えた。


「あの子の子なら」

「あなたの子なら」

「抱きたいに、決まっている」


 私は何も言わなかった。


 ただ、待った。


「でも」


 陽子さんは泣いた。


「その前に、私はあの子に謝らなきゃいけないんだね」


「はい」


 私は頷いた。


「洸太さんに、会ってください」


 陽子さんは長く目を閉じた。


 長い、長い沈黙だった。


 そして、ゆっくりと目を開ける。


「洸太は」


 その名を口にした瞬間、陽子さんの顔がまた歪んだ。


 それでも、彼女は言った。


「幸せ者だよ」


 私は息を止めた。


「こんなに良い人を、お嫁にもらえるんだから」


 その言葉に、胸が熱くなった。


 お嫁。


 洸太さんのお母様が、そう言ってくれた。


 まだ何も終わっていない。


 許されたわけではない。

 洸太さんが、この人を受け入れられるかも分からない。

 陽子さんの罪が消えるわけでもない。


 それでも。


 今、この人は、私を認めてくれた。


 洸太さんの隣に立つ者として。


 いずれ妻になる女として。


「ありがとうございます」


 私は深く頭を下げた。


「では、お義母さん」


 私は、もう一度そう呼んだ。


「洸太さんに、会いに行きましょう」


 陽子さんは、目を閉じた。


 また逃げたくなったのかもしれない。


 けれど、今度は逃げなかった。


 長い沈黙のあと。


「……ああ」


 小さく頷いた。


「会いに、行こう」





 本当に私は、卑しい女だ。


 自分の望みに、これほどまで貪欲なのだ。


 ……それでも、後に退くという選択肢は、私には取れない。


 私は、私のできる全てで。


 必ず、あの人を救ってみせる。


 どれだけ自己満足だと、傲慢だと言われようとも。


 あの人を救けて、共に幸せになりたい。


 それが、私の望みなのだから。

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