第14話 俺を許さないでくれ
「ソフィア」
「はい」
「……ソフィア」
「はい」
「もう、いいですか」
「もう一度、お願いします」
朝の食堂に、いつものやり取りが響いていた。
俺は椅子に座ったまま、静かに息を吐く。
目の前には、にこにこと微笑むソフィアがいる。
ソフィアさん、ではない。
ソフィア。
そう呼ぶようになってから、彼女は毎日のようにそれを求めるようになった。
名前を呼ぶだけだ。
ただ、それだけのことだ。
だが、俺にとってはそれなりに覚悟がいる。
いや、もう何度も呼んでいるのだから慣れればいいのだが、慣れない。
ソフィアが、そのたびに本当に嬉しそうな顔をするからだ。
その顔を見ると、こちらの方が照れてしまう。
「……ソフィア」
「はい」
また、嬉しそうに返事をする。
それを少し離れた席で、ミーナとルークが見ていた。
ミーナはパンをちぎる手を止め、半眼になっている。
ルークは汁物をすすりながら、遠い目をしていた。
「ねえ、ルーク」
「なんだよ」
「これ、いつまで続くと思う?」
「知らねえ。たぶん俺たちが年取ってもやってる」
「うわあ」
「聞こえていますよ、二人とも」
ソフィアが静かに言った。
だが、その声には怒りがない。
むしろ、どこか誇らしげだった。
「聞こえるように言ったんだもん」
「ミーナ」
「だって、お姉ちゃん最近、洸太に名前呼ばせすぎ」
「呼ばせているのではありません。お願いしているだけです」
「同じだよ」
「違います」
「違わないと思うぞ」
ルークがぼそりと言った。
ソフィアの視線がルークに向く。
「ルーク」
「なんでもねえ」
ルークは即座に汁物へ視線を落とした。
賢明な判断だった。
俺も見習いたい。
だが、ミーナは逃がしてくれなかった。
「洸太もさ、そろそろ自分から呼べばいいのに」
「努力はしている」
「努力って言うほどのこと?」
「俺には言うほどのことなんだ」
「じゃあ、好きとか愛してるとかは?」
その瞬間、食堂の空気が少しだけ止まった。
俺は水を飲んだ。
飲むしかなかった。
ソフィアは何も言わない。
ただ、静かにこちらを見ている。
責めてはいない。
催促もしていない。
けれど、待っている。
それが分かる。
「……それは、段階を踏んでからで」
「逃げた」
ミーナが言った。
「逃げたな」
ルークも言った。
「逃げていません」
「今のは逃げたよ、洸太」
「逃げた顔だった」
「二人とも、朝から俺を追い詰めるのはやめてくれ」
俺がそう言うと、ソフィアが小さく笑った。
「いいんです」
「いいんですか」
「はい。洸太さんが言ってくださる日まで、待ちます」
その言葉に、俺は胸が詰まった。
待つ。
ソフィアはそう言った。
急かさない。
責めない。
俺が自分で言葉にできるまで、待つと言ってくれる。
それなのに、ソフィアは続けた。
「でも、名前は今日も聞きたいです」
「そこは待たないんですか」
「名前は別です」
きっぱりと言われた。
ミーナが笑い、ルークが肩を震わせた。
俺は諦めた。
「ソフィア」
「はい」
「……ソフィア」
「はい」
そのたびに、ソフィアは笑う。
朝の光の中で、その笑顔はとても穏やかだった。
当たり前のような日常だった。
それが、これからも続くのだと。
俺は、どこかでそう思っていた。
その日は、いつもと変わらない一日だった。
商会では荷が動き、人が動き、グレイスさんが忙しそうに帳簿を捌いていた。
俺は頼まれた荷運びを手伝い、ルークは別の荷馬車の積み替えを手伝っていた。
ソフィアは修道院で使う薬草と布を受け取りに来ていた。
ミーナも一緒だった。
薬草の束を見分けるソフィアの手つきは、相変わらず丁寧だった。
途中、子供が転んで膝を擦りむいた。
ソフィアはすぐに膝をつき、その子の手を取った。
「大丈夫ですよ」
小さな光が、傷口を包む。
子供は泣きそうな顔のまま、ソフィアを見上げた。
「痛くない?」
「もう大丈夫です」
「ありがとう、ソフィア様」
「どういたしまして。でも、次からは走る場所を選びましょうね」
「はーい」
子供は元気に走っていった。
「走る場所を選びましょうね、と言ったばかりなのですが」
ソフィアが少し困ったように笑う。
その姿を、通りすがりの老婆が眩しそうに見ていた。
老婆はいつものように、古い布を繕っていた。
「今日も忙しそうだねえ、ソフィアちゃん」
「はい。でも、いつものことです」
「無理をしすぎるんじゃないよ」
「ありがとうございます」
ソフィアは老婆に微笑む。
老婆は、その笑みに少しだけ目を細めた。
その表情は、嬉しそうで、どこか寂しそうだった。
街の人々も、ソフィアに声をかける。
薬をもらった者。
子供を見てもらった者。
祈ってもらった者。
怪我を治してもらった者。
ソフィアはその一人一人に、丁寧に返事をしていた。
俺はその横で、ただ見ていた。
ソフィアが守ってきたもの。
ソフィアが積み上げてきた日々。
それは、こういうものなのだと思った。
大きな奇跡ではない。
小さな手当て。
短い挨拶。
誰かの名前を覚えていること。
困っている人を見逃さないこと。
その積み重ねが、ソフィアという人の周りに、小さな世界を作っている。
俺は、少しだけ誇らしかった。
自分のことではないのに。
ソフィアがこんなにも人に大切にされていることが、嬉しかった。
夕方になり、俺たちは修道院へ戻ることになった。
商会から修道院までの道は、もう何度も歩いた道だ。
ミーナとルークは少し前を歩いている。
何か言い合っているようだった。
たぶん、くだらないことだ。
最近の二人は、以前より少しだけ距離が近い。
見ていて危なっかしいが、悪いものではない。
俺とソフィアは、少し後ろを並んで歩いていた。
「疲れていませんか」
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当に」
「顔色が少し悪いです」
「それは今朝、ソフィアに名前を呼ばされすぎたからです」
「では、明日は少し控えます」
「本当ですか」
「少しだけ」
「そこは、ちゃんと控えてください」
ソフィアが笑った。
俺もつられて笑いそうになる。
そんな時だった。
「ソフィア様」
声がした。
ソフィアの足が止まった。
ほんのわずか。
だが、俺には分かった。
彼女の表情が、硬くなった。
道の端に、一人の男が立っていた。
年は俺より少し若いくらいか。
服装は整っている。
町の人間というよりは、どこかの家に仕えている者か、商人の息子か。
顔立ちは悪くない。
だが、その目がよくなかった。
ソフィアだけを見ている。
それ以外が、目に入っていない。
「お久しぶりです」
男は丁寧に頭を下げた。
ソフィアは、静かに返す。
「お久しぶりです」
声は穏やかだった。
だが、少し冷たい。
「お元気そうで、安心しました」
「ありがとうございます」
「最近、こちらへ戻られたと聞きました。ずっとお会いしたいと思っていたのです」
男の視線が俺に向いた。
一瞬だけ。
すぐにソフィアへ戻る。
「その方が、噂の」
「洸太さんです」
ソフィアは迷わず言った。
「私の、大切な方です」
男の顔が、わずかに歪んだ。
俺はその変化を見た。
ルークとミーナも足を止めていた。
振り返り、こちらを見ている。
「大切な方、ですか」
「はい」
「あなたは、誰も選ばない方だと思っていました」
「そうですか」
「私は、あなたに何度も申し上げたはずです」
「お断りしました」
「あなたは、その時、誰かを選ぶつもりはないと」
「今は違います」
ソフィアの声は静かだった。
だが、はっきりしていた。
「私は、洸太さんを選びました」
その言葉が、夕方の空気に落ちた。
男はしばらく黙っていた。
それから、笑った。
笑ったが、笑えていなかった。
「なぜです」
「答える必要はありません」
「なぜ、その男なのです」
「私が選んだからです」
「あなたは、そんな方ではなかった」
「いいえ」
ソフィアは首を横に振った。
「私は、こういう女です」
男の目が濁った。
ソフィアが一歩、俺の前に出ようとした。
俺はそれを制しようとした。
だが、その前に男の手が動いた。
刃が見えた。
短剣だった。
狙いは、俺。
男はソフィアではなく、俺に向かって踏み込んできた。
ルークが叫んだ。
ミーナも叫んだ。
俺はソフィアを庇おうとした。
だが、ソフィアの方が早かった。
「洸太さん!」
白い影が、俺の前に入った。
鈍い音がした。
時間が、止まったように見えた。
男の手にある短剣。
ソフィアの体。
白い服に広がる赤。
ソフィアの顔が、こちらを向く。
驚いたような。
少し困ったような。
そして、俺を見てほっとしたような。
「……よかった」
ソフィアが、そう言った気がした。
次の瞬間、彼女の体が崩れた。
「ソフィア!」
俺は叫んだ。
男が何か言っていた。
ルークが飛びかかり、男を殴り倒した。
ミーナが泣き叫んでいる。
人が集まってくる。
誰かが悲鳴を上げる。
だが、俺には何も聞こえなかった。
俺は、ソフィアを抱き止めていた。
手が赤い。
信じられないほど、赤い。
傷は深い。
場所が悪い。
血が、止まらない。
「ソフィア、ソフィア」
俺は回復魔法を流した。
光が傷口を包む。
だが、閉じない。
血が止まらない。
俺の魔法では、足りない。
分かってしまった。
この傷は、俺の回復魔法では届かない。
ソフィアの回復魔法なら。
いや、ソフィア自身でも間に合うか分からない。
俺では。
俺の力では。
届かない。
「……嘘だろ」
声が漏れた。
手が震える。
光が乱れる。
ソフィアの顔から、血の気が引いていく。
俺は何度も魔法を流した。
それでも、届かない。
駄目だ。
駄目だ。
こんなもの。
こんなものは。
「馬鹿野郎!」
怒鳴り声が響いた。
ルークだった。
彼は男を押さえつけたまま、こちらへ顔を向けていた。
「なにをボサっとしてやがる!」
俺はルークを見た。
何を言われているのか、一瞬分からなかった。
「今、この場で回復魔法が使えるのはお前しか居ねえんだ!」
ルークの声が震えていた。
怒りだけではない。
恐怖も、涙も、全部混じっていた。
「お前がやるべきなんだ!」
お前が。
やるべき。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
落ちた場所で、何かが軋んだ。
扉の音だった。
蔵の戸が、内側から開く音だった。
――お前に与えるのは、力ではない。
声がした。
知っている声だった。
忘れていた声だった。
――器だ。
瞬間、俺は思い出した。
あの時。
こちらの世界へ来る前。
死んだはずの俺の前に、神と呼ぶしかない何かが立っていたことを。
その声を。
その言葉を。
――願いを納める器。
――祈りを受ける蔵。
――人の魂が、本当に願ったものを、一時だけ預かる場所。
――善きものばかりではない。
――人の願いは、いつも清いとは限らない。
――助けたいという願いもあれば、奪いたいという願いもある。
――守りたいという祈りもあれば、縛りたいという祈りもある。
――それでも、お前ならば。
――お前ならば、願いを願いのまま腐らせず、誰かを助ける形へ変えられるかもしれない。
胸の奥が熱くなる。
いや、熱いのではない。
痛い。
蔵の戸が開いていく。
――すまない。
神は、そう言っていた。
――これは祝福ではない。
――呪いだ。
――枷だ。
――だが、今度こそ。
――誰かが誰かを想う願いが、誰かを救う世界であってほしい。
すべてを思い出した。
そして、理解した。
俺の中にあるもの。
魂蔵。
それは、俺だけの力ではない。
だが、最初に開かなければならないのは、俺自身だった。
俺の願いがなければ、蔵は開かない。
俺が願わなければ、何も届かない。
俺はソフィアを見た。
血に濡れたソフィア。
俺を庇って倒れたソフィア。
朝、名前を呼ぶだけで嬉しそうに笑っていたソフィア。
帰ってきてくださいと、何度も言ってくれたソフィア。
俺を勝手に死なせない、温かい呪いをかけてくれたソフィア。
駄目だ。
駄目だ。
ソフィア。
君は、俺を許さないと言った。
帰ってこいと言ってくれた。
君がいなくなったら、俺は誰に許しを乞えばいい。
誰のところへ、帰ればいい。
まだだ。
まだ、君に伝えていない。
俺がこんなだから。
俺が臆病だから。
君が君の全部で伝えてくれていたことを、俺は分かっていたのに。
分かっていたくせに。
まだ、一度も言えていない。
君は名前を呼ばれるだけで嬉しそうにしてくれた。
小さな傷を俺が治すだけで、幸せそうに笑ってくれた。
帰ってきますと言えば、それだけで満たされた顔をしてくれた。
君は、君の全部で俺に伝えてくれていた。
逃げないで。
居なくならないで。
私を見て。
私を知って。
私を愛して。
なのに俺は。
俺は、まだ。
「ソフィア」
声が震えた。
回復魔法を流し続ける俺の体が、崩れそうになる。
その時、誰かが俺を支えた。
右側から、ルークの手。
左側から、ミーナの手。
二人が、俺の体を支えていた。
「洸太」
ミーナの声は泣いていた。
「お姉ちゃんを、助けて」
ルークは何も言わなかった。
ただ、歯を食いしばっていた。
その二人の手から、何かが流れ込んできた。
魔力ではない。
いや、魔力でもある。
だが、それだけではない。
ルークの怒り。
ミーナの涙。
あの日、ミーナを失いかけたルークの絶望。
ソフィアに守られてきたミーナの祈り。
お姉ちゃんを連れていかないで。
ソフィア姉を死なせるな。
その願いが、俺の胸の奥へ流れ込む。
魂蔵が、それを受け取る。
さらに、人々の声が聞こえた。
「ソフィア様……!」
「誰か、誰か!」
「お願いだ、助けてくれ……!」
街の人たちが集まっていた。
商会の者たちもいた。
グレイスさんが青ざめた顔で手を組んでいた。
さっき膝を治してもらった子供が泣いていた。
孤児たちが、震えながらソフィアの名を呼んでいた。
老婆がいた。
胸を押さえ、震える唇で何かを祈っていた。
ソフィアが守ってきた世界が、そこにあった。
その全部が願っていた。
ソフィアを助けて、と。
ソフィアを返して、と。
居なくならないで、と。
祈りが流れ込む。
涙が流れ込む。
記憶が流れ込む。
感謝が、恐怖が、愛が、俺の中へ流れ込む。
重い。
あまりにも重い。
けれど、捨てられなかった。
これはソフィアの重さだ。
ソフィアが生きてきた重さだ。
ソフィアが愛されてきた重さだ。
だったら、俺が持つ。
俺が、持っていく。
届かないなら。
届かせる。
「ソフィア」
俺は彼女の手を握った。
冷たい。
嫌だ。
そんなものは認めない。
「居なくなるな」
光が強くなる。
今までの回復魔法とは違う。
俺の中から出ているようで、俺の外から流れ込んでいる。
みんなの祈りが、俺の中で束になっていく。
その中心に、俺の願いがある。
ソフィアを失いたくない。
俺のところへ帰ってきてほしい。
まだ伝えていない。
まだ、言えていない。
「俺を置いていくな」
光が、ソフィアの傷へ集まる。
血が止まる。
裂けたものが、繋がっていく。
けれど、まだ足りない。
もっとだ。
もっと。
「俺を許さないでくれ」
声になった。
自分でも驚くほど、弱い声だった。
「俺がまた、自分を捨てようとしたら、許さないでくれ」
涙が落ちた。
ソフィアの手に落ちた。
「俺がまた、助けられるならそれでいいと思ったら、止めてくれ」
帰ってこいと。
逃げるなと。
居なくなるなと。
そう言ってくれ。
「だから」
喉が潰れそうだった。
「だから、君がいなくなるな」
光が弾けた。
世界が白く染まる。
誰かの祈りが聞こえる。
ミーナの声。
ルークの声。
子供たちの声。
老婆の声。
街の人たちの声。
そして、俺自身の声。
ソフィア。
帰ってこい。
俺のところへ。
どれほど時間が経ったのか分からない。
光が収まった時、俺はまだソフィアの手を握っていた。
傷は、塞がっていた。
血は止まっていた。
けれど、ソフィアは目を閉じたままだった。
俺は息を止めた。
「ソフィア」
呼ぶ。
「ソフィア」
もう一度。
「ソフィア」
指が、わずかに動いた。
ソフィアの瞼が震える。
ゆっくりと、彼女の目が開いた。
「……洸太、さん」
掠れた声だった。
それだけで、胸が潰れそうになった。
「ソフィア」
名前を呼ぶ。
それしかできなかった。
「俺は……」
喉が震えた。
「俺は、今までずっと……」
言葉が詰まる。
言わなければならない。
今度こそ。
この人が、自分の全部で伝えてくれていたものを。
けれど、ソフィアは小さく微笑んだ。
「知っています」
「……え」
「言葉にしないだけで、あなたはずっと私に言ってくれていました」
俺は何も言えなかった。
ソフィアの手が、ゆっくりと伸びる。
震える指先が、俺の頬に触れた。
「でも」
ソフィアは、涙を浮かべたまま微笑んだ。
「今は、ちゃんと言葉で聞きたいです」
俺は息を吸った。
逃げるな。
居なくなるな。
そう願ったのは、自分だ。
ならば、今度は自分が逃げてはいけない。
「俺は……」
声が震える。
それでも、言う。
「君を、愛してる」
ソフィアの瞳から、涙がこぼれた。
「はい」
彼女は、幸せそうに笑った。
「私も、愛しています」
俺は何も言えなかった。
言えないまま、ただソフィアの手を握っていた。
その時だった。
「お姉ちゃん……」
震える声がした。
ミーナだった。
彼女は、ずっとそこにいた。
ずっと、泣くのを我慢していた。
俺とソフィアの言葉を邪魔しないように。
姉が帰ってくるその瞬間を、ちゃんと待つように。
けれど、もう限界だった。
「お姉ちゃん!」
ミーナが駆け寄り、ソフィアに抱きついた。
「ばか……っ、ばか、ばか! 死んじゃうかと思った! もう、ほんとに、ばか……!」
ソフィアは一瞬だけ痛みに顔を歪めた。
けれど、すぐに弱々しく笑った。
「……ごめんなさい、ミーナ」
「謝るなら、最初からしないでよ!」
「それは……少し難しいですね」
「難しくしないで!」
泣きながら怒るミーナを、ソフィアは震える腕で抱き返した。
「ただいま、ミーナ」
その言葉で、ミーナは完全に泣き崩れた。
ルークは何も言わなかった。
ただ、背を向けた。
「ルーク?」
俺が呼ぶと、ルークは背中を向けたまま舌打ちした。
「……チッ。どうにも、雨が降ってきやがった」
俺は空を見上げた。
青かった。
雲ひとつないほど、青かった。
「雨なんて降ってないぞ」
「うるせえ。降ってるんだよ」
ルークは振り返らなかった。
「見んな」
俺は、少しだけ笑った。
「……そうか」
「ああ」
「なら、仕方ないな」
「仕方ねえんだよ」
ソフィアが、弱々しくルークの名前を呼んだ。
「ルーク」
ルークの肩が、わずかに揺れた。
「心配をかけて、ごめんなさい」
「……心配、なんて」
ルークは振り返らなかった。
「してねえ……」
言葉の最後が、崩れた。
その瞬間、ミーナが動いた。
ソフィアにしがみついていた腕をそっとほどき、立ち上がる。
それから、背を向けたままのルークへ近づいた。
「ルーク」
「……来んな」
「行く」
「来んなって」
「行くよ」
ミーナは、ルークの背中に腕を回した。
ルークの身体が、びくりと震えた。
「泣いていいよ」
「泣いてねえ」
「うん」
「泣いてねえんだよ」
「うん」
ミーナは否定しなかった。
ただ、強く抱きしめた。
ルークはしばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと顔を伏せた。
声は出さなかった。
泣き声も上げなかった。
ただ、ミーナの腕の中で、肩だけが震えていた。
「……よかった」
誰にも聞こえないほど小さく、ルークが呟いた。
「本当に、よかった……」
ミーナは何も言わず、ルークの背中に額を寄せた。
ソフィアは、その光景を見ていた。
ミーナが、ルークを抱きしめている。
ルークが、その腕の中で泣いている。
守らなければと思っていた子たちは、いつの間にか互いを支えられるほど大きくなっていた。
そのことが、痛みよりも深く胸に染みたのだろう。
ソフィアの目から、また涙がこぼれた。
俺はその手を握ったまま、もう一度名前を呼んだ。
「ソフィア」
「はい」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
ソフィアは、小さく笑った。
「呼んで、くださいましたから」
それから、ほんの少しだけ目を閉じる。
俺の身体が強張った。
だが、ソフィアは弱々しく指先に力を込めた。
「……後で」
「はい」
「後で、もう一度聞かせてください」
俺は頷いた。
「何度でも言う」
「……はい」
ソフィアは、安心したように笑った。
その笑顔を見て、俺はようやく息を吐いた。
ソフィアが帰ってきた。
ただ、それだけでよかった。




