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幕間 私の世界

 夢を見ていた。


 まだ、洸太さんを知らなかった頃の夢だった。


 私の世界は、修道院の中にあった。


 朝の祈り。

 薬草の匂い。

 子供たちの声。

 ミーナの寝息。

 ルークが木剣を振る音。


 それらは、私にとって大切なものだった。


 大切だったから、守らなければならなかった。


 そう思うようになったのは、いつからだったのだろう。


 たぶん、両親を亡くした日からだ。



 父と母は、流行り病で亡くなった。


 珍しい話ではなかった。

 この世界では、病は時に人の命を簡単に連れていく。


 薬草を煎じても、祈っても、手を握っても、戻らないものは戻らない。


 それを、私は十四歳の時に知った。


 ミーナは七歳だった。


 小さな手で、私の服の裾を握っていた。

 何度も何度も、父と母の名を呼んでいた。


 私は泣きたかった。


 どうして、と叫びたかった。

 置いていかないで、と縋りたかった。

 怖い、と誰かに言いたかった。


 けれど、隣でミーナが泣いていた。


 だから私は、その手を握った。


「大丈夫です」


 そう言った。


 大丈夫なものなど、何ひとつなかったのに。


 家も、家族も、明日の暮らしも、何も分からなかった。

 それでも、ミーナにそう言わなければならなかった。


 私は姉だった。


 姉でなければならなかった。



 私たちは修道院に引き取られた。


 最初の頃、ミーナは夜になるとよく泣いた。

 母を呼び、父を呼び、最後には私の名を呼んだ。


 私はそのたびに、ミーナの隣で横になった。

 背中を撫でた。

 子守唄を歌った。


 泣いていいと言いたかった。

 けれど、私が泣けば、ミーナはもっと不安になる。


 だから、私は泣かなかった。


 泣かなかったのではない。

 泣く順番を、後ろへ回しただけだった。


 けれど、その順番はなかなか回ってこなかった。



 修道院で暮らすようになってから、私は回復魔法を学んだ。


 才能があったのだと、あとから人は言った。


 けれど、私にはそれが才能なのかどうか、よく分からなかった。


 ただ、覚えなければならなかった。


 ミーナが熱を出した時。

 ルークが木剣の稽古で膝を擦りむいた時。

 小さな子供が転んで泣いた時。


 私が手を伸ばせば、少しだけ痛みを減らせる。

 私が祈れば、少しだけ誰かを安心させられる。


 なら、覚えるしかなかった。


 それは、誰かを救うための力だった。


 けれど同時に、私とミーナがこの場所で生きていくための術でもあった。


 何もできない子供ではいられなかった。

 守られているだけではいられなかった。


 私は姉だった。


 ミーナの手を握って、この場所で生きていかなければならなかった。


 最初は、小さな傷を治すだけだった。


 擦り傷。

 打ち身。

 熱で赤くなった額。

 針で突いた指先。


 それでも、子供たちは泣き止んだ。

 年寄りは礼を言った。

 町の人は、私に薬草のことを尋ねるようになった。


 少しずつ、私の世界は広がっていった。


 修道院の中だけではなくなった。


 町の井戸端。

 商会の荷置き場。

 薬草を干す棚。

 雨の日に軋む屋根。

 熱を出した子供の寝台。

 祈りを捧げる小さな部屋。


 私は、それらを大切に思うようになった。


 大切だった。


 ミーナも。

 ルークも。

 子供たちも。

 町の人たちも。


 私に頼ってくれる人たちも。

 私を姉のように、癒やし手のように、時に修道女のように見る人たちも。


 全部、本当に大切だった。


 だから、守ろうと思った。


 私が立っていれば、ミーナは少し安心する。

 私が笑っていれば、子供たちは怖がらない。

 私が祈っていれば、誰かが少しだけ息をつける。


 そう思った。


 そうしているうちに、いつの間にか私は、守る側になっていた。


 誰かを迎える側。

 誰かを癒やす側。

 誰かを送り出す側。


 それが嫌だったわけではない。


 けれど時々、ふと分からなくなることがあった。


 私が弱くなった時。

 私が泣きたくなった時。

 私がただ一人の女として、誰かに寄りかかりたくなった時。


 私は、どこへ帰ればいいのだろう。


 そんなことを考えてはいけないと思った。


 私は姉なのだから。

 私は守る側なのだから。

 私は、立っていなければならないのだから。



 求婚の話を受けるようになったのは、私が十七を過ぎた頃からだった。


 最初は、戸惑った。


 けれど、何度か同じような言葉を聞くうちに、戸惑いは少しずつ薄れていった。


 自分の顔立ちが悪くないことくらいは、知っていた。


 鏡を見るたびに思う、というほどではない。

 けれど、人の視線がどこへ向くのかは分かる。

 丁寧な言葉の奥に、何を期待されているのかも、少しずつ分かるようになった。


 だから、求婚の言葉に驚かなくなった。


 けれど、慣れることと、受け取れることは違った。



 最初に心を向けてくださった方は、誠実な人だった。


 町の職人の息子で、よく修道院に道具を直しに来てくれていた。

 口数は少なかったけれど、子供たちにも優しく、ミーナにも礼儀正しかった。


 その人は言った。


 あなたも幸せになるべきだ、と。


 私は、その言葉に少しだけ困った。


 幸せになりたくないわけではなかった。

 誰かの妻になる未来を、考えたことがないわけでもなかった。


 けれど、その人の隣に立つ自分を想像した時、私はすぐに振り返ってしまった。


 ミーナはどうしているのだろう。

 ルークは、また無茶をしていないだろうか。

 子供たちは、ちゃんと朝の祈りをしているだろうか。


 私の心は、その人の差し出してくれた未来へ進む前に、修道院へ戻ってしまった。


 だから、私は頭を下げた。


「お気持ちは、嬉しく思います。けれど、私はこの場所を離れられません」


 その人は、少し寂しそうに笑った。


 そして、それ以上は何も言わなかった。


 優しい人だった。


 だからこそ、胸が痛んだ。



 次に来た方は、現実的な人だった。


 町で商いをしている家の次男で、暮らしには困らないと言った。

 私が望むなら、修道院への支援も続けると。

 ミーナのことも、悪いようにはしないと。


 悪い話ではなかった。


 きっと、町の誰かが聞けば、良い縁談だと言っただろう。


 けれど、その人が語る未来の中に、私の世界はなかった。


 そこにいたのは、綺麗な服を着せられ、家の中で大切にされ、妻と呼ばれる私だった。


 それはきっと、幸せな姿なのだろう。


 でも、その未来の中に、朝の祈りはなかった。

 薬草の匂いもなかった。

 転んで泣く子供も、木剣を振るルークも、私を呼ぶミーナの声もなかった。


 私だけが、そこにいた。


 それが、怖かった。


「申し訳ありません」


 私は、また頭を下げた。


「私は、この場所を離れられません」


 何度も口にした言葉だった。


 口にするたびに、少しずつ、自分の未来を閉じていく言葉でもあった。



 その後も、何人かの方から言葉をいただいた。


 優しい人もいた。

 真面目な人もいた。

 私を本当に案じてくれる人もいた。


 そして、中には、私を見ているようで、私の外側だけを見ている人もいた。


 癒やし手としての私。

 修道院のソフィア。

 町で評判の、穏やかで、少し珍しい女。


 そういうものを欲しがる目を、私は知るようになった。


 それでも、最初から嫌悪したわけではない。


 人は、見えるものからしか人を見られないことがある。

 私だって、きっと誰かの一部しか見ていない。


 だから私は、できるだけ丁寧に断った。


 傷つけないように。

 期待を残さないように。

 それでも、相手の心を踏みにじらないように。


 けれど、断るということは、必ず誰かを傷つけることでもあった。


 そのことを、私は知っていた。



 最後に強く言葉を向けてきた人は、商家の息子だった。


 町では名の知れた家だった。

 身なりもよく、言葉も丁寧だった。

 修道院への寄付の話も、ミーナの将来の話も、こちらが拒みにくいものをよく知っていた。


 悪い人ではない。


 少なくとも、最初はそう思っていた。


「あなたを不自由にはしません」


 その人は、そう言った。


「修道院にも援助をします。ミーナさんのことも、悪いようにはしません。あなたは、もう少しご自分の幸せを考えていい」


 その言葉は、きっと善意だった。


 けれど、私は答えられなかった。


 不自由にはしない。

 悪いようにはしない。

 幸せにする。


 どれも、優しい言葉だった。


 でも、その言葉の中に、ルークはいなかった。

 子供たちの声もなかった。

 雨漏りする屋根をどうするかという相談もなかった。

 薬草の束を仕分ける朝もなかった。

 ミーナが泣いて帰ってきた時、私が抱きしめる夜もなかった。


 その人が見ていたのは、私だった。


 それは、間違っていない。

 求婚とは、そういうものなのかもしれない。


 それでも、私はその手を取れなかった。


「申し訳ありません」


 私は頭を下げた。


「私は、誰かを選ぶつもりはありません」


 その人の表情が、わずかに変わった。


「誰も、ですか」


「はい」


 私は頷いた。


 その言葉は、その人を傷つけないためのものだった。

 同時に、自分に言い聞かせるための言葉でもあった。


 誰も選ばない。

 誰の手も取らない。

 私だけが幸せになる道を、選ばない。


 そう決めてしまえば、少しだけ楽だった。


 その人はしばらく私を見ていた。


 目の奥に、何かが残った気がした。


 けれど私は、それ以上踏み込めなかった。


 踏み込む資格がないと思った。


 私は、また一つの未来を断っただけだった。



 そうして、私は自分の世界に戻った。


 朝の祈り。

 薬草の匂い。

 ミーナの笑顔。

 ルークの不器用な優しさ。

 子供たちの声。


 それで十分だと思った。


 十分だと思うことにした。


 誰かの妻になる未来。

 子を抱く未来。

 自分だけを見てもらう未来。


 そういうものを、望んだことがないわけではない。


 けれど、それは私には実現しない希望なのだと思った。


 私は姉で。

 癒やし手で。

 修道院に残された者で。

 この場所を守る者だった。


 そうして生きていくのだと、思っていた。



 そして、あの日。


 見知らぬ男の人が、修道院へ運び込まれた。


 血の匂いがした。


 ミーナの声が震えていた。

 ルークの顔は、悔しさと焦りで歪んでいた。


「ソフィア姉、頼む」


 ルークがそう言った。


「この人が、ミーナを庇った」


 私は、寝台に横たえられた男を見た。


 見慣れない服だった。


 旅人の外套でもない。

 商人の上着でもない。

 貴族の礼服とも違う。


 黒く、硬く、体に沿うように作られているのに、戦うための服には見えなかった。


 血が、そこに染み込んでいた。


 この町の人ではない。

 旅人、と呼ぶにもどこか違う。

 まして、物語に出てくる勇者のようにも見えなかった。


 若い騎士ではなかった。

 鍛え上げられた兵士にも見えなかった。


 私よりずっと年上の、疲れた顔をした男だった。


 それでも、怪我人だった。


 私は治療者として、手を動かした。


 服を解こうとして、すぐに無理だと分かった。


 血で貼りついている。

 傷に触れる。


 このまま脱がせれば、傷口を広げてしまう。


「切ります」


 返事はなかった。

 男は意識を失ったままだった。


 私は小さく息を吸い、刃を入れた。


 見たことのない布に刃を入れることに、少しだけ躊躇があった。

 けれど、命には代えられない。


 服を開いた瞬間、息が止まりそうになった。


 浅くない。


 血は止まりかけていたが、それは治ったからではなかった。

 身体が、必死に命をつなぎ止めているだけだった。


 打ちつけた痕。

 裂けた皮膚。

 肩から脇腹にかけて残る、鈍い赤。


 この傷で、ミーナを庇ったのだという。


 ミーナが生きている。


 その事実の裏側に、この傷があった。


 私は、そのことを初めて、目で見た。


「私を、押してくれたの」


 ミーナが震える声で言った。


「知らない人なのに。私、動けなくて。この人が、私を……」


 その先は、言葉にならなかった。


 ルークが拳を握っていた。


「俺が間に合わなかった」


 悔しそうな声だった。


「そいつが、先に動いた。止める間もなかった。普通、知らない奴のために、あそこまでしねえ」


 私は、眠っている男を見た。


 この人が、ミーナを助けた。


 そう聞いても、まだ実感はなかった。


 この人は、私たちの誰でもない。

 町の人でもない。

 修道院の者でもない。

 ミーナの家族でも、ルークの友人でもない。


 それなのに、ミーナは生きている。


 この人が、傷ついたから。


 感謝しなければならない。

 治療しなければならない。


 それだけのはずだった。


 けれど、ひとつだけ、分からないことがあった。


 どうして。


 どうして、この人はミーナを庇ったのだろう。


 ミーナは、この人にとって何者でもなかったはずなのに。


 答えは、眠る男の中にしかなかった。


 私は治療を続けた。


 傷を塞ぎ、血を拭い、呼吸を確かめる。


 命は繋がった。


 けれど、その問いだけは残った。


 この人は、なぜ動いたのだろう。


 私はまだ知らなかった。


 この問いの答えを知ろうとすることが、やがて私の世界の中心を変えてしまうのだということを。



 それからの日々を、夢は断片のように映した。


 あの人は、私を連れ出そうとはしなかった。


 私に、ここを離れろとは言わなかった。

 私だけを見ろとも言わなかった。

 私だけを幸せにすると、綺麗な言葉を並べることもなかった。


 ただ、転んだ子供に手を伸ばした。


 どう声をかければいいのか分からない顔をしながら、それでも膝をついて、子供の目線に合わせようとしていた。


 泣いている子の隣で、困ったように最後まで話を聞いた。


 雨漏りする屋根を見つけると、不器用な手つきで梯子を借りに行った。


 薬草の名前を何度も間違えながら、それでも覚えようとした。


 ミーナが無理をしようとすれば、静かに止めた。

 ルークが一人で抱えようとすれば、何も分かっていない顔のまま横に立った。


 上手ではなかった。


 屋根の修理も。

 子供の慰め方も。

 薬草の仕分けも。

 町での暮らし方も。


 けれど、あの人は、私が守ってきたものを見ていた。


 私が大切にしてきたものに、少しずつ手を伸ばしていた。


 私の世界を、外から眺めるのではなく。

 私の世界の中で、困ったように、ぎこちなく、けれど確かに生き始めていた。


 誰かを選ぶつもりはなかった。


 そう決めていた。


 けれど、選ぶつもりのなかった私の世界に、あの人は少しずつ居場所を作ってしまった。


 そしていつの間にか、あの人は、私の中心に立っていたのだ。



 夢が、ほどけていく。


 誰かが、私の名を呼んでいた。


 ソフィア。


 その声を、私は知っている。


 洸太さん。


 私の愛しい人。


 きっと誰が見ても、くたびれた年上の男の人だった。


 不器用で。

 いつも困ったような顔で人を助けて。

 放っておけば、すぐに無茶をする。


 本当に、目の離せない人。


 けれど、私はきっと、そういう人を待っていたのだと思う。


 私だけを連れ出すのではなく、私の世界の中で一緒に立ってくれる人を。


 目を開けると、朝の光が差し込んでいた。


 寝台のそばに、洸太さんがいた。


 椅子に座ったまま、寝台に突っ伏すように眠っている。

 私の手を握ったまま。


 疲れた顔だった。

 ひどく疲れた顔だった。


 それでも、その人はここにいた。


 私が戻るのを、待っていてくれた。


 早く戻らなくてはと思っていた。

 あの人を出迎えなくてはと思っていた。


 そうしなければ、あの人はまた自分だけを外へ置いて、逃げ出してしまうかもしれないから。


 けれど。


 洸太さんは、ここにいた。


 私の手を握って。

 私の帰りを、待っていてくれた。


 そのことが、たまらなく嬉しかった。


 私の指が、少しだけ動いた。


 その動きで、洸太さんの肩がぴくりと震えた。


「……ソフィア」


 顔を上げる。


 眠りから覚めたばかりの顔が、次の瞬間、泣きそうに歪んだ。


「起きたのか」


「はい」


「よかった……」


 その声だけで、胸が苦しくなった。


 この人は、きっと一晩中ここにいてくれた。

 私が目を覚ますかどうかも分からないまま。

 私が戻ってくるのを、待っていてくれた。


 けれど、放っておけば、きっとまた謝ろうとする。

 自分を責めようとする。

 私が戻ってきたことより先に、自分の罪を数えようとする。


 だから私は、先に言った。


「洸太さん」


「はい」


「聞かせてください」


 洸太さんが、少しだけ目を見開いた。


「……今、ですか」


「はい」


 私は、握られたままの手に、そっと力を込めた。


「後で、もう一度聞かせてくださると、約束してくださいました」


「……」


「何度でも言う、とも」


 洸太さんは、困ったように目を伏せた。


 けれど、逃げなかった。


「……愛してる」


 声は小さかった。


 けれど、確かに聞こえた。


「ソフィア。愛してる」


 胸の奥が、ゆっくりと満ちていく。


「はい」


 私は笑った。


「私も、愛しています」


 そして、洸太さんの手を握り返した。


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