第40話 温泉と"未来の契約"
国境の温泉街は、湯煙と活気に満ちていた。
硫黄の匂いが、湿った空気と共に肺を満たす。
俺は、露天風呂の岩肌に背を預け、ゆっくりと息を吐いた。
隣では、オークの親子が豪快に湯を浴び、向こうの湯船では、リザードマンの商人と人間の行商人が、何やら商談らしきものを交わしている。子供たちの笑い声が、あちこちから響いていた。
(……これが、俺が書類の上で「異種族共生」と書き、「経済特区協定」で制度を設計した、その結果か)
条文の上の概念でしかなかったものが、目の前に、湯気の向こうに、生きて動いている。
ペンも、羊皮紙もない。ただ湯に浸かるだけの時間。
前世の俺が聞いたら信じないだろう。お前、あの世界で温泉に入ってるぞ、と。
◇
湯上がりの薬湯――甘い果実入りのそれを差し出しながら、浴衣姿のリアナが微笑んだ。
「……来て、よかったですね」
彼女の表情は、魔王城で見せる硬さが抜け、とても穏やかだった。
二人は、宿の縁側から星空を眺めていた。虫の音が、静かな夜に響いている。
「部長は」
リアナが、静かに切り出した。
「あなたは、これから何をしたいんですか? 国家を再建するとか、そういう大きなことではなくて」
これから何をしたいか。
前世の俺なら、そんな質問に答える余裕すらなかった。毎日が「何をしなければならないか」で埋め尽くされていた。「したいこと」など、契約書のどこにも記載されていない項目だ。
俺は、夜空を見上げたまま、ゆっくりと言葉を探した。
「……世界を変えたいわけじゃないんです」
「ただ、目の前の人が、不当に傷つけられないようにしたいだけで。前世の俺みたいに、ルールを知らないばっかりに、あるいは、悪意のあるルールによって、尊厳を踏みにじられる人を、一人でも減らしたい。……それだけ、なんです」
言葉にしてみると、あまりに素朴で、法務部長の理念としては些か頼りない。だが、それが偽りのない本音だった。
リアナは、その言葉を静かに聞いていた。
「それは、とても尊い願いです」
彼女は、自分の手を、縁側に置かれた俺の手の上に、そっと重ねた。
俺の手が、驚きに小さく震える。
「私も、あなたと一緒にそれを守りたい。あなたの法務部で、あなたの隣で」
――これは、どういう種類の契約だ。
雇用契約でも、業務委託契約でも、明らかにない。俺の法律知識では、この状況に適用すべき条文が、一つも見当たらなかった。
二人は、それ以上何も言わず、ただ星空を見上げていた。
◇
休暇最終日。
心身ともに回復した俺の元に、魔王からの魔導通信が届いた。
『真壁。休暇は満喫したようだな。急用ではない。だが、戻り次第、謁見の間に顔を見せよ。貴様に"新しい仕事"がある』
声には、いつになく楽しそうな響きがあった。
嫌な予感しかしない。魔王が楽しそうな時は、大抵、俺にとって地獄のような難題が待っている。
◇
魔王城に戻った俺とリアナを待っていたのは、予想を超えた来客だった。
謁見の間には、魔王ザイレムと将軍たちに加え、見慣れない一団がいた。
一方は、森のように深い緑の装束をまとった、優美だが射るように鋭い目つきのエルフたち。もう一方は、大地のように頑強な鎧をまとった、短いが屈強なドワーフたち。
魔王が、玉座から愉快そうに俺を手招きした。
「戻ったか、法務部長。紹介しよう。こちらは、エルフ王国の使節団と、ドワーフ連合の使節団の方々だ」
エルフの代表が、俺の前に進み出た。
「あなたが、"法の魔人"マカベ・ジン殿か。我らは、貴殿が人間との間に結んだ『経済特区協定』と、この魔王軍の『労働法』の噂を聞きつけ、はるばるやってきた」
ドワーフの代表も、唸るように言葉を続ける。
「我らドワーフ連合もだ。我らの鉱山ギルドと、人間どもの商会との古い"契約"に、どうにも納得がいかん。貴殿の"法"とやらで、見直してもらいたい」
俺は、魔王を見た。
魔王は「やれやれ」と肩をすくめるふりをしているが、その目は「ほら、面白いことになったぞ」と笑っている。
……やっぱりか。
休暇明け初日から、多国間法務案件の二件同時受任。休暇で回復した体力は、おそらく三日で消し飛ぶだろう。
だが、不思議と、嫌な気分はしなかった。
今度は、一人で抱え込む必要がないのだから。
俺は、息を一つ吸い込み、エルフとドワーフの使節団に向き直った。
(さて、どこから手をつけるか――)
法務部長・真壁 仁の次なる"法廷"は、大陸規模に広がろうとしていた。
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