第39話 最初の"休暇申請書"
「私は、聖法神王国の再建案件を、辞退します」
俺の言葉が、静まり返った玉座の間に響き渡った。
予想通り、将軍たちが色めき立った。
「なっ、何を言っているんだ!」
「あの巨大プロジェクトを、今更放棄すると!」
「英雄が敵前逃亡か!」
非難の声が渦巻く。……まあ、そうなるだろうな。
ボルガとゼグスだけが、腕を組み、黙って俺を見つめていた。
俺は、騒ぎ立てる将軍たちを制するように、言葉を続けた。
「理由は三つあります」
法廷でプレゼンテーションをするように、指を立てた。前世の社畜時代に叩き込まれた、相手を説得するための構造化話法だ。
「第一に、私の能力不足です。破綻国家の再建は、一個人の処理能力を遥かに超えています。第二に、健康上の問題。現状のまま続行すれば、私は再び倒れ、計画は頓挫し、魔王軍に多大な損害を与えることになります」
俺は、自分の胸に手を当てた。
「そして第三に――これが最も重大ですが――私自身が制定した『労働安全衛生規則』への違反です。規則の制定者自身がそれを履行できないという事実は、法体系全体の信頼性を毀損する。これ以上の職務続行は、魔王軍の法治制度にとって、最も避けねばならぬ"契約不履行"に他なりません」
将軍たちの非難が、再び俺に集中しようとした、その時。
「ふっ……くくく、あーっはっはっは!」
魔王ザイレムの、地を揺るがすような哄笑が響き渡った。
「ようやく気づいたか、愚か者めが!」
ザイレムは玉座から立ち上がり、俺を見下ろす。その真紅の瞳には、怒りではなく、どこか安堵に似た色が浮かんでいた。
「貴様が壊れれば、この軍の"頭脳"は失われる。貴様が倒れれば、貴様が築いた"法"は機能不全に陥る。聖法神王国の再建など、どうでもよいわ!」
魔王は、俺を指差した。
「法務部長・真壁 仁。貴様の最も重要な仕事は、"生き延びること"だ。そして、貴様がいなくとも回る"組織"を完成させることだ。違うか?」
……参った。
組織論の核心を、この魔王はとっくに理解していたのだ。属人的な業務体制は組織のリスクそのものだ――俺が、他の部署に散々指摘してきたことじゃないか。
俺は深く頭を下げた。
「……御意」
「よろしい」と魔王は頷いた。「辞退は承認する。プロジェクトはゼグスとアーカーシャに命じ、規模を縮小して再検討させよ」
◇
そして、俺は懐からもう一枚の羊皮紙を取り出した。
それは、昨夜、リアナと一緒に作成した書類だった。
「つきましては、魔王陛下。私が制定した『計画的年次有給休暇制度』に基づき、本日より二週間の休暇を申請いたします」
玉座の間が、一瞬、完全な沈黙に包まれた。
魔王は一瞬きょとんとし、それから――この魔王軍始まって以来、最も盛大な哄笑を放った。
「許可するッ! 存分に怠けてくるがよいッ!」
制度を作ったのは俺だ。だが、それを自分で使うのは、これが初めてだった。有給休暇の取得率ゼロパーセント。前世の俺と、何一つ変わっていなかったわけだ。
法務部の執務室では、すでに引き継ぎの準備が進められていた。
休暇中の代理として、リアナ、クラウス、そして新たに副部長に昇格したゴブリンの情報将校が、山積みの書類をテキパキと仕分けている。
俺は、彼らに向かって深く頭を下げた。
「……皆さん、留守を、よろしくお願いします」
彼らの顔には不安もあったが、それ以上に「任せろ」という決意が漲っていた。
――ああ、これが「属人化の解消」ってやつか。俺がいなくても回る組織。寂しいような、安心するような、妙な気分だ。
「で、どこに行くんだよ?」
見送りに来たボルガが、ぶっきらぼうに尋ねた。
俺は、簡素な旅支度を肩にかけながら、振り返った。
前世では一度も浮かべたことのない、本当の笑顔が浮かんでいるのが、自分でも分かった。
「国境の温泉街です。……まだ一度も、使ってなかったので」
「私も、同行します」
いつの間にか旅支度を整えていたリアナが、当然のように隣に並んだ。
「筆頭外交顧問として、部長の休暇中の安全管理は私の職務です」
……それは、どの規定にも書いてないぞ。
だが、反論する気は起きなかった。
ボルガが、ニヤリと牙を剥いた。
「がっはっは! いい護衛がついたな、法務部長!」
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