第38話 "自分"との契約
医務室から半ば追い出されるようにして、俺は自分の執務室に戻った。
ボルガの怒声、ゼグスの指摘、アーカーシャの失望、クラウスの嘆き。
そして、リアナが突きつけた、俺自身の「法」。
ガチャン、と内側から鍵をかけた。
羊皮紙の塔がそびえ立つ、見慣れた机。だが、俺は椅子に座ることすらできなかった。壁に背を預け、ずるずると床に座り込む。
(……なぜだ)
ペンを握らなければ。計画書を修正しなければ。仕事が、止まる。
なのに、指一本動かない。法務部長としての俺が、自分自身に「業務停止命令」を出したかのようだった。
(……なぜ、こんなことに)
脳裏に、あの蛍光灯の明滅するオフィスが蘇る。嘲るように笑う、上司・鈴木の顔。
『真壁くんはさあ、"価値"がないよね』
『お前のかわりなんて、いくらでもいるんだよ』
『成果を出せ。成果で示せ。それ以外のお前に何の意味がある?』
(……ああ、そうか)
俺は、自分の震える手を見つめた。
ようやく、理解した。法律家として、自分自身のケースを、ようやく正確に分析できた。
俺は、怖かったのだ。
この世界に来て、魔王に、ボルガに、ゼグスに、仲間たちに「必要」とされた。それが、どれほど嬉しかったことか。
だが、その「必要とされている」という状態は、前世の経験に照らせば、極めて不安定な契約条件だった。成果が出ているから必要とされる。では、もし成果を出し続けられなかったら? 俺が完璧でなくなったら?
――契約解除。解雇。また、「価値がない」と、言われる。
前世のトラウマが、俺の行動原理の根幹に、悪質な瑕疵として埋め込まれていた。「成果を出し続けなければ存在価値がない」――その脅迫的な信念が、俺を三日間眠らせず、仲間の声を遮断し、自分の身体を壊すまで働かせた、真犯人だ。
「……俺は、最低だ」
自己嫌悪に、膝に顔を埋める。
◇
静かに、扉がノックされた。
「部長。私です、リアナです。……入ります」
鍵はかけたはずだった。だが、リアナはアーカーシャから預かっていたという合鍵で、静かに入室した。
(……不法侵入だぞ、とツッコむ気力すら残っていなかった)
彼女は、床にうずくまる俺を見ても驚かなかった。ただ、その隣に、そっと腰を下ろした。
執務室に、重い沈黙が流れる。
やがて、リアナがぽつり、と語り始めた。
「私も、ずっと怖かったんです」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
「私は、没落貴族の娘です。聖法神王国では、私の"価値"は、より高い地位の貴族との婚姻――つまり、政略的な"契約材料"でしかありませんでした。だから、"価値"を証明し続けなければ生き残れないと、ずっと思っていました」
彼女は、先ほど医務室で突きつけた羊皮紙を、俺の手にそっと握らせた。
「でも、あなたがここで作った法は……"全ての人には、生まれながらの尊厳がある"と定めている。それは、能力や成果とは関係なく、そこに"いる"だけで保証されるものだと」
リアナは、俺の目をまっすぐに見つめた。
「その法は、あなた自身にも、適用されるんですよ、真壁部長」
――適用される。
その一言が、俺の中で、硬く張り詰めていた何かを、堰を切ったように壊した。
「う……ぁ……」
声にならない嗚咽が漏れる。
前世で過労死した時も、この世界に転生した時も、一度も泣けなかった。「価値のない自分」が泣くことなど、許されないと思っていた。
だが――あの羊皮紙に書かれた条文は、俺自身が書いたものだ。「全ての人に尊厳がある」と、他ならぬ俺自身が定めた。
ならば――それを自分に適用できないなんて、法の下の平等に反するじゃないか。
「すまない……すまなかった……!」
俺は、握りしめた羊皮紙に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣いた。
法務部長として情けない。だが、これもまた、法の支配というやつだ。自分で作った法に、自分が救われる。皮肉以外の何物でもないが、それは確かに、正しいことだった。
◇
涙が枯れる頃、俺は顔を上げた。
目には、もう前世の怯えはなかった。
「リアナさん、ありがとう。……決めたよ」
翌朝。
魔王城の大広間に、緊急の将軍会議が招集された。
やつれ、しかしその目だけが異様なほど澄んだ俺が、魔王の前に進み出る。集まった将軍たちの訝しむ視線が、突き刺さった。
俺は、魔王と全員の前で、深く一礼した。
そして、宣言した。
「私は、聖法神王国の再建案件を、辞退します」
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