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20―2.もうすぐ涙は雪に変わる

 線路に揺られながら電車は進む。まばらな雲は遥かを泳いでいく。

 不安定な灰色の海。永遠に続きそうな望郷。終点の空は、どんな風景をもたらすのだろうか。


―――――


 名も知らぬ町を歩く。静穏の外れに存在したのは、朽ちる寸前の広い廃虚だった。

 研究所を想像させる高い灰色の外壁。屋根も窓ガラスもない。土の地面からは低い草が顔をのぞかせていた。


「……なんにも、ありませんね」

「……そうだな」


 立ち入った先は虚無の空間。内壁が黒くすすけている。実験の痕跡はどこにもなかった。

 アリシアは何を思うのだろうか。望めた故郷は荒れていた。戦争の事実も風化しつつある。


「もっと、いろいろ残ってると思ってました」


 見えるのは背中だけ。水彩色を思わせる淡やかな声だった。


「さびしいか?」

「……はい。だけど、平和になったんだなって。おびえて生きる日は、もう来ないんですよね」


 振り返る表情を飾るのは安心感。記憶を重ね合わせられている証。

 嫌な過去なんて忘れてしまう方がいい。歴史を語り継ぐことに何の意味があるだろうか。


「こう言うのは間違いかもしれないけどさ、のどかだよ。空気だって、落ち着いてる」

「そうですね。私も、そう思います」


 吹き抜ける風。片隅に咲いたつわぶきの花の近くを、控えめな彩色の蝶が舞っていた。

 折れた柱の上から聞こえる元気な声。つがいの小鳥が巣を作っている。高くの灰雲たちは旅支度を始めていた。

 罪作りの地で再開されていた命の調べ。せき止められた時間は着実に動き始めている。


「おいで」


 アリシアの声に導かれて、黄色い蝶が細やかな指先で羽を休めた。

 ここにあるのは日常の景色。失ったものは取り戻せないと思い込んでいた。だけどそれは間違いだった。


「私たちも、変われますよね。大切なものを見失わないでいれば」

「ああ。治らない傷なんてないのかもしれないな」


 蝶が飛び立つ。アリシアが俺から離れるように歩き始めたから。赤いリボンが風に揺れる。


「レンさんは、いつも側にいてくれました。たくさんの時間が流れても、この現実だけは永遠に続いてほしいです」


 歩みが止まる。鳥たちは口を閉じていた。


「おかげで、やるべきことが分かりました。臆病だった私を守ってくれて、本当にありがとうございました」

「アリシア……?」


 ゆるやかに振り返る。はかない表情があった。今にも消えてしまいそうで怖かった。


「弱い自分とは、これでお別れです。私の最後の隠し事、どうか見ていてください」


 アリシアがポケットから取り出したもの。木製のさやに納められていたのは、命を傷付けるための鋭利なナイフ。

 鈍色の刃がさらされる。見たことなんてあるはずもない、アリシアが凶器を胸に抱く姿。


「なに、してるんだ。そんなもの持って」

「大丈夫です。安心してください。これからもレンさんが見守ってくれるから、私は」


 きれいな首筋に切っ先が向けられる。青い瞳に迷いの情はなかった。

 蝶のはばたきよりも穏やかな動作。俺の足は動かない。わざと動かさないままでいた。

 信じて見届けよう。アリシアがどんな答えを選択したのか。それが俺のやるべきことだから。


「……っ」


 無感情の刃が当てがわれたのは、アリシアがいつも身に付けている赤色のリボンだった。

 大切な髪飾りなんだと思っていた。初めて会った時から、よく似合ってると感じていた。

 滑るように腕が動く。刃は役割を果たす。たやすく断たれたリボンが手の中に残った。


「……ひとりぼっちが続いたら、自殺しようと思ってました。生きるなんて、疲れるだけだと考えていましたから」


 とさり、と凶器が地面に落ちる。涙の流れる様子を連想させた。


「死が隣にいたから、生きられたんです。だけど今の私には、もう必要なくなりました」


 リボンの切り口が傾く。アリシアの手に転がり落ちたのは、赤透明の小さなカプセルだった。

 いろいろな価値観があっていい。俺も死を救いと考えたことがある。だからカプセルの中身はすぐに分かった。


「……毒薬、だな」

「……はい」


 アリシアは、決して後ろ向きな気持ちで生きていたわけじゃない。誰だって逃げ道の近くを歩いている。

 いらない思い出は捨ててしまえばいい。なにを見つめて命を紡ぐかの方が大事なのだから。


「私、レンさんと生きていきたいです。もう、死ぬなんて考えません。優しさに甘えないように頑張ります」


 たたえられているまっすぐな瞳。直感的に思った。もうアリシアは大丈夫だ、と。


「その、たまには、迷惑かけてしまうと思います。だけど、もし許してくれるなら……これからも、レンさんの隣にいてもいいですか?」


 それを言いたいのは、本当は俺の方だ。アリシアがいないと風景から色が抜け落ちてしまう。

 けどここは、自分らしい言葉を返さなきゃならない。いつだって俺は頼られていたい。


「人間ってめんどくさいよな。自分を心底嫌いになったり、世界に居場所なんかないって思ったりさ。けど、大切な人がいるだけで頑張れる」


 アリシアの安心する顔が見たいから。いつもみたいに、ふわりと優しくほほえむ表情が好きだから。


「アリシア」


 かっこつけた台詞も疲れてしまった。そろそろ本音を伝えよう。


「これからも、一緒に生きていこう。ひとりぼっちになんてしない。それでも、もしもつらくて死にたくなったら言ってくれ。責任持って、俺が殺してやる」


 これが本当の気持ちだ。きれいな告白とは、程遠いだろうけど。


「……レンさん」


 ぽけーっと俺を見つめていたアリシア。やがて小さく笑い始めた。


「えへへ……殺してやるなんて、初めて言われました。こんなに安心できるんですね」

「すまん。ちょっと乱暴だったかもしれないな」

「いえいえ。きっと、私が一番ほしかった言葉なんだと思います」


 やすらかな声。放されたリボンが飛んでいく。アリシアは静かにカプセルを開けた。

 中身が傾けられる。粒子が風に流されて散っていく。死の天使は沈黙に溶けていった。

 雲の切れ間から光の帯が差し込んだ。曇天は裂かれた。明日からも孤独じゃない。


「これで、本当に」

「終わり、ですね」


 意見が合う。アリシアの瞳の青色は、拓けた空よりも涼やかに見えた。


「まだここにいるか?」

「いえ、もう平気です」

「そっか。じゃあ」


 そっと右手を差し出す。


「帰ろうか」

「はいっ」


 握り返してくれたのは大切な人。命の続きを約束するあたたかい体温を感じた。

 そよそよと吹いている、晩秋にしてはゆるやかな風。季節との別れも今なら寂しくない。いつかまた会えるから。

 大変なことがあるから人生は楽しい。アリシアの前向きな姿を見ていたら、自然とそんなふうに感じられた。


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