第3話 有給と、バットのおじさん
月曜日の朝。
冬馬は社内システムの「休暇申請」画面の前で十分間固まっていた。
理由の欄が必須だったのだ。
「理由、理由……『私用』……いや、『私用』は怪しいか」
「先輩、何してるんですか」
振り向くと、乙部が立っていた。手にはなぜか菓子パンを二つ持っている。
「見てください、これ!」
突きつけられたスマホの画面には、「退職届 受理されました」の文字。
「……本当に出したのか」
「はい! 今月末で退職です! 来週から有給消化に入るので僕もダンジョンデビューです!」
「ほどほどにな」
先輩として、それしか言えなかった。
「先輩は行かないんですか?」
「俺はそういうのは……ほら体力もないし」
昨日の戦果を冬馬は黙っておくことにした。三万円を貯金して、四万九千円のうち三千円をガチャに溶かしたことも含めて、である。
乙部が去ったあと、冬馬は理由欄に「リフレッシュ休暇」と打ち込み、申請ボタンを押した。
部長は書類を見て目を丸くした。
「椎葉君が平日に休みを取るのか。珍しいね」
「はあ。たまにはと思いまして」
「いいと思うよ。君、入社以来ほとんど有給を使っていないだろう。ゆっくり休みなさい」
「……ありがとうございます」
ゆっくり休む予定はまったくなかったので少しだけ胸が痛んだ。
火曜日。新東京ダンジョン。
平日の昼間でも入口の周辺は人であふれていた。冬馬は掲示板に貼られた注意書きに目を留める。
【注意】一階層でゴブリンの目撃情報あり。単独行動は避けること。
「ゴブリン、一階層にも出るのか」
講習では一階層はスライムと角ウサギだけだと聞いていた。ゴブリンはもう一つ下の階層のはずだ。
「まあ、遭ったら遭ったときだ」
気楽に言って、冬馬は階段を下りた。
金属バットは背中に担いだままだ。使う予定はないが短剣を人目にさらすよりバットの方が目立たなくて都合がいい。
最初のスライムを見つけた瞬間、変化に気づいた。
核の上に淡い光が見える。
「素材目利き、か」
光の強さは品質の違いらしい。強く光る個体ほど、核の質が高い。弱い個体は見送ってもいい。冬馬は強い光だけを選んで短剣を振るった。
ばちっ。ぱん。
身体強化のおかげで足取りが軽い。高速移動を使えば、十メートルの距離を一瞬で詰められる。
「これは楽でいいな」
昨日の十分間の死闘が遠い昔のようだった。
角ウサギも出た。額に短い角を生やした、茶色い毛の小動物だ。突進してくるのをひらりとかわして、すれ違いざまに斬る。
「かわいいけど、二千円」
命のやりとりのはずなのに頭の中では電卓が回っている。我ながらちょっとどうかと思う。
三時間もしないうちに布袋はずっしりと重くなっていた。
そのときだった。
「うわああああっ!」
通路の奥から悲鳴が聞こえた。
冬馬は反射的に走り出した。
「高速移動!」
景色が溶ける。数秒で悲鳴の主のところにたどり着いた。
大学生くらいの若者が三人。金髪の青年、眼鏡の青年、ショートカットの女の子。三人とも手には鉄パイプやバールを握っているが腰が完全に引けている。
その前に小柄な緑色の影が立っていた。
濁った黄色の目。尖った耳。手にはごつごつした棍棒。
「ゴブリン……!」
本物は写真よりずっと生々しい。
「ひっ……」
金髪の青年がへたり込んだ。ゴブリンが棍棒を振り上げる。
冬馬はその間に割り込んだ。
短剣が紫の光を引いて閃く。
ばちん。
電撃がゴブリンの体を走り抜け、緑の影は声もなく崩れ落ちた。
沈黙。
「……え」
三人はぽかんと口を開けていた。
「大丈夫か? 怪我は?」
「え、あ、はい! だ、大丈夫です!」
眼鏡の青年が立ち上がって何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! 助かりました!」
「ゴブリンは二階層のはずだろ。迷い出たのかな」
冬馬は床に落ちた牙を拾い上げた。白くて、少し黄ばんでいる。一本、五千円のあれだ。
少し考えて、その牙を金髪の青年に差し出した。
「ほら。持っていきな」
「え? ででも倒したのはおじさんで……」
「俺は昼飯代くらいは稼いでるから。それより三人とも無事で帰ること。一階層より下にはまだ行かない方がいい」
言ってから冬馬は少しだけ後悔した。説教くさかったかもしれない。
しかし三人は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「あの、お名前を……」
「椎葉」
「椎葉さん、すごい強さでしたね。あの瞬間移動みたいなやつ、スキルですか? それともその武器の力?」
ショートカットの女の子が冬馬の背中のバットを指さした。
「やっぱりそのバット、特別な武器なんですか?」
「え」
冬馬は背中のバットを見た。
一度も使っていない、ただの金属バットだ。
「……ああ、まあ。そんなところだ」
否定するのも面倒になって、冬馬はそう答えた。
三人の目が一斉に輝いた。
「やっぱり!」
「すげえ、バットでゴブリンを一撃……!」
「違う、バットは」
言いかけたが遅かった。
三人は何度もお辞儀をして、もと来た道を戻っていった。
冬馬は小さくため息をついた。
「……面倒な誤解を生んだ気がする」
夕方。千景さんの窓口。
「スライムの核が二十四個、角ウサギの角が九本。品質はほとんどが優良です」
千景さんは電卓を叩く手を止めて、冬馬を見つめた。
「椎葉さん。昨日の今日でこの量と品質はあまり見たことがありません」
「は運がよくて」
「それ、昨日も聞きました」
鋭い。
「合計で十万二千円です」
十万二千円。
昨日の三時間で稼いだ金額の、二倍以上である。冬馬は静かに封筒を受け取った。
帰りの電車の中で彼はひそかに計算した。
会社の月給の、三分の一が一日で。
しかもたぶん、まだ伸びる。
「……よし」
冬馬は小さくうなずいた。
「七万円は貯金。三万円は課金予算にしよう。それなら十連が三回回せる」
帰宅後の、今夜の予定は決まった。




