9話 エンペラーの影に集う者たちへ 下
Ⅲ
フィガロの講義と、フレアの写本を行き来して、ソルテラは頭がおかしくなりそうだった。
これまではのほほんと、パレスの中でレディやメイドたちの警備員でもしていた気分だったのに、戦術だの革命だの、そういう普通の女たちが使わない言葉を聞かされ続け、書かされ続けている。
その疑問はつい、武闘派の上司ではなく、天真爛漫な(ソルテラにはそう見えている)レディに向けられた。
「フレアさま、こんなの勉強なさって、どうするんです。パレスの中でお暇でもレディなんだから、ハープ(琴)とかお弾きになればよろしいんじゃありませんか」
前のフレアなら、このようなことを言われたら
「ハープの何が楽しいの? 角笛の方が好きだから、大きな音を吹いてもいいような野に出させてちょうだい」
と返しているところであった。しかし今は、
「ハープ、……ハープも良いかしらね。やったことがないから、時間が潰せそうだわ。その間に何か変わってくれれば」
と悩んでいる。
「何が変わってほしいんです」
と聞かれると、
「何かしら……」
と、分からない様子でもないのに答えない。
ソルテラも、フレアを元気付けたくなった。
「分かりました。エンペラーのお心でしょう。昔には、レディを連れてお花見なんかなさったエンペラーもいらっしゃったそうですから、そうなったらフレアさまはお幸せでしょうな」
と、ありきたりなことを喋る。
「ええ、そうね。皆で……滝なんてどうかしら、涼し気で。スピアは遊びにいったことがある? 山の中に、岩がたくさんあって、その上から水が落ちてくるのよ」
スピアは都育ちで、自然には疎い。
「滝は知っていますが、見に行ったことは……」
「それなら尚更。でもやっぱり、そうなったらエンペラーがお邪魔だわ。お相手をしていたら、皆、好きに遊べないものね」
「そんな、エンペラーの前でできない遊びなんてなさるんですか」
「せっかく水場に行くんだから、中に入らないと。でも、エンペラーの御前で上着を脱いだり、スカートをまくったりしたら、シフォンだって怒るでしょう?」
「はい! もちろんです」
シフォンは元気に答えながら、フレアが語るような光景が目に浮かんだ。
なお、シフォンも怒るということなら、スピアはもうかんかんで、ソルテラも怖気づいて逃げたくなるだろう。
「ソルテラさまや、プレオの前でもダメですよ」
「ま!」
フレアは驚く。
「そりゃ、そうですよ。というかね、そこらへんのナイトのおじさんをお部屋に上げて座らせて、本なんか書かせるの、フレアさまくらいですからね」
ソルテラは砕けた口調でフレアをたしなめるが、まったく聞き入れられる様子はない。
「いいじゃない。どうせ、夜にくせ者が入ってきたら、私がエンペラーとどんな姿になっていたって、あなた、助けなくちゃいけないのよ」
「どんな姿にって」
鼻の下を伸ばしながら聞き返したソルテラの頭のてっぺんを、シフォンの扇がかち割る。
「助けにいらっしゃらなければ許しませんが、ご覧になっても許しません」
「そんな無茶な」
「ユーノスさまだったら、そのあたり、うまく立ち回ってくださいそうですわね」
シフォンが言う。歌会に出て以来、女たちの間で、ユーノスの評判は高まっていた。
その場にいなかったメイドたちにも、みやびな貴公子のナイトがいるのだと伝わっている。
「ええ。もしかしたら、テリオスさまよりも」
「まあまあ」
真面目なスピアは、一応、ナイト・ヘッドの肩を持つ。
「まあ……、まあね。どうでしょうな。ユーノス坊ちゃん、元気かな……。次会ったら話しかけてみましょう」
ソルテラは後輩と上司との間柄を面倒に思って、写本作業に戻った。
Ⅳ
坊ちゃんと呼ばれてもユーノスはナイトなので、警護の任から離れていても、武芸の鍛錬をしていた。
パレスの外、キャピタルからそう遠くない野に出て、他の若手――先輩のアルザ、同輩のエポックとイース、そして後輩のジャズと一緒に馬を走らせている。
思い切り馬を走らせる感覚、その馬と一体になる感覚は、他の何にもない。
アルザが放った鷹を追いかけながら、風の中に、狩衣の袖がたなびいて、清々しい。
少し遅れると、鞭打って、加速する。
いつもお気楽なジャズが歌いだした。
「鷹狩りに 出でて駆け入る 草の上に」
ナイトや貴族に限らず、官人になるような家の子なら誰もが知っている歌で、エポックとイースも連れ立って歌いだす。
「風吹き抜ける。馬の息 荒れるほどにぞ たまきはる
我らが命 なほ燃ゆる」
ユーノスも口ずさむ。
「花の芽染むる 紫が 遠くに見ゆる 袖を振り
待つ家を思ひ 川面の 水の流れを し追へど
落ちつる花葉 通り過ぐ。寂しかるらむ 枝に立つ
小鳥の歌に 在りし日を 懐かしむるや。てのひらは
血潮に満ちて つるのえを 捨つには未だ 願ふことあり」
馬と一緒に息を切らしながら、汗をかく。
ナイトたちは耳にも、目にも騒がしくして、疲れて、水場で休むことにした。
Ⅴ
馬をつないで、自分たちは足を投げ出す。
顔や足を洗うと、秋の涼しい風がより感じられる。
街の出身で細身のエポックが言う。
「勉強とか弓矢とかもいいけど、走るのが一番だ! 気持ちいいし、きれいな場所にありつける」
同じく、下級貴族の子で小柄なイースは、顔を真っ赤にしていて、沓を脱いで川の水に足をつけた。
「だけど、秋なのにこう暑くなるほど動くのは……」
「普段からよく動いて、よく休んでおくことだな」
アルザも一緒になって川に入る。
「冷たい!」
ユーノスもひどく疲れた気持ちになったので、水筒の水を上流の方に行って継ぎ足し、そのまま飲んだ。
「本当だ、冷たい」
「お前も入れよ!」
誘われて、ためらいながらも、沓を脱いだ。
足先が冷えるだけで、体全体も涼しくなる。
エポックとジャズも水に浸かる。
エポックは足で水を掻くと、イースの服にかかった。
「ちょっと!」
「いいだろ。どうせすぐ乾く!」
「じゃあお前も!」
「後ろに回っちゃえ!」
イースとエポック、ジャズが水かけ合戦を始めると、アルザとユーノスにも〝流れ弾〟が来る。
歳の上ではもう大人なのに、乗馬で疲れたことも忘れて、また騒ぐ。
ユーノスには、それがとてつもなく、ありがたいことに思える。
望んでいたことではあっても、フィガロやキャロルに目をつけられてからというもの、ずいぶん背伸びをしてきた。
「はは」
笑いながら目をこする。
「目に入ったか?」
アルザが問うと、断りながら、動きを止める。
イースとエポックも気づいた。
「何だよ、遊んでやってるのに」
「……そうだね」
「泣くんならおれの胸で」
「イース、ちびじゃないか」
冗談を言いながら、呼吸を整える。
「息が詰まっていたのかも。最近、色々変わったから」
アルザが肩をさする。
「だよなあ。やっぱデピュティ、おかしいよな」
「おかしい、ですか」
「なんか、ナイトっぽくないちというか。大学の先生だって聞いたら、まあそうかも?と思わなくもないが」
イースもエポックも頷くので、ユーノスはきょとんとする。
「いいんだけどさ。というか、ヘッドもやばい」
ジャズが黙り込んでいる中、エポックは畳み掛ける。
「俺たち、文字を書く代わりに体を動かしてる、くらいの気持ちでナイトやってるのに。エンペラーをお守りするためにはこのままじゃいけない!とか、ソルジャーを率いて……とか言われても、ぴんと来なくて」
「確かに」
ユーノスは納得する。
「俺が、名字のおかげでキャロルさまに歌会に誘われたのは、なんとなく、ラッキーだって思った。
でも、そのことをデピュティに話したり、ヘッドに聞かれたりしたとき、何か違うことを思われていた気がする」
「それ、なんか嫌だな。せっかく友だちが増えたのに、遊んでばかりじゃダメって言われてるってことだろ?」
「だな。だるい」
「だるい?」
ユーノスは聞き返す。
「そう。だるいんだよ。ちょっとのことだと思ったらなかなか治らない夏風邪みたいな感じ」
「分かるかも」
「ふはは! 祈祷でもして治してもらうか?」
ユーノスも笑い出す。
「そうしようかな。だるいのは嫌だけど、もっと良い暮らしができるように出世したいって」
「そんなの一気に願ったら罰が当たる」
青年たちは思い切り笑い飛ばした。ただ一人、ジャズはテリオスが〝知らないおじさん〟に呼び出されて、何か重大そうな話をしていたことを思って、他のナイトたちが何も知らないでいることを憂うが、それを口に出せない。
そんな五人と、木々を挟んだ向こうから、硬い物が擦れながら近付いてくる音がした。
さすがのナイトたちは、遊ぶのをやめて、各々が息をひそめて身構える。
相手方は気づいているのか、気づいていないのか、こんな話をしていた。
「まだかかりますかね」
「キャピタルはもうすぐそこだ。今日は陣を張らずに宿を借りる」
「やった! ようやく布団で眠れる……」
「ああ、一晩だけ」
「てことは、明日の夜には……?」
「ああ。よく休息と取って、思い残しのないよう、好きにするといい」
「うわぁ、ドキドキする」
「本当に、大丈夫ですかね」
思い残しのないよう、という言葉が、ユーノスに引っかかる。
何を企んでいる? まさか、商談や縁談などではあるまい。
アルザに耳打ちする。
「あの音、……」
「ああ」
軍備でろう。そう判断して、アルザとユーノスは頷き合う。
他の三人は分からないまま、先輩格のアルザの指示を仰いだ。
「今日はもう帰ろう。報告は俺がしておく」
「報告って、何の?」
ジャズは不安がってそう聞いたのだが、アルザが取り繕う。
今ここでジャズたちに最悪の憶測を聞かせて、迂闊な行動をとらせたくないのだ。
「もうすぐ秋で、紅葉が見られそうだってな」
ジャズもエポックもイースも、何かはぐらかされていることが分かった。
だが、先ほどの旅団が何か、違法なものを持ち込んだか、強盗を企んでいる、くらいしか想像が及ばない。




