9話 エンペラーの影に集う者たちへ 上
Ⅰ
リタイヤード・エンペラー・カペラは語る。
「引退したとて、わしの首はこの国に匹敵する。
わしの命を脅されれば、息子は王座を引き渡すかもしれん」
そうだろうか、とテリオスはやや疑うが、とても失礼なことである。
「そういうことを思うてか、それとも、わしの少ない財を狙うてか、」
リタイヤード・エンペラーほど財を溜め込んでいる者はいない。
実際、この院には蔵があって、昨今は珍しい震旦からの貿易品なども置かれている。
「賊がこの辺りをうろついておっての。……恐ろしいのじゃ!」
カペラは御簾越しにでも唾が飛んでくるような勢いで叫んだ。
なぜ老人はこういうときに恥がないのか、と不思議に思われる。
が、ここまでして訴えないと、痴呆で夢と見間違えたとでも言われるのであろう。
「なのでの、わしは兵を雇おうと思う」
「へい?」
テリオスは聞き返すふりをして適当すぎる相槌を打つことに成功したが、これは誰にも言えない。
「お主の部下、ナイトでなくてもよい。ただ、ナイトくらいの品性はほしいのう。
賊と同じような輩ばかりでは、女房たちも怖かろう」
テリオスは眉をひそめる。
リタイヤード・エンペラーというのは、僧侶のくせに女を雇えるらしい。
反吐を吐きたくなるが、ナイトなので慎んだ。
「その兵を、私に集めろと仰せですか」
「そうじゃ。パレスで怪しまれれば、ルーチェの名を出すとよい」
ルーチェとは、カペラのベッドチェンバーで、最も寵愛を受けた女房の名である。
今はキャピタルの外れに広い邸を得て、まだ俗世の身で暮らしている。
「カペラさまがレディ・ルーチェさまのことをご心配なさって、近衛兵を集めておられると言えばよろしいのですか」
「そうじゃ!」
「巻き込むことになるやもしれませんが」
テリオスはナイトの司令官として提言する。
「巻き込む?」
「あるいは山賊に、あるいは兵に」
「そなたが集めた兵が何かしでかすと言うのか? 今から?」
「いいえ、どんなにごまかそうとも、武人が集まっていれば噂が立ちます。
賊が出るという正当な理由があったとしても、間違った憶測は飛ぶもの。
流言飛語がルーチェさまに及ぶことは、カペラさまも望んでおられますまい」
カペラは少し黙って考える。
テリオスは自分が言った言葉を一つずつ思い出しては、失礼な言葉遣いになっていないか、論に過不足がないか、気にしている。
初秋の夕方の長い影が動く。
「……分かった。そなたには本当のことを言おう。知った上で、よきに手配せい。
――ウィステリア家が邪魔じゃ」
ウィステリア家とは、レディ・シルビアの家のことである。
「ウィステリア家はわしの代までも外縁として、大臣以上の席を過半数、そして左大臣の地位を代わるがわる担ってきた。
国政への貢献は認める。じゃが、そろそろ潮時じゃ。
これ以上、皇室を言いなりにすることは許せん」
「何を今さら」
「今まで我慢してきたのじゃ! じゃが現エンペラーに子がいないうちに、ファースト・プリンスが定まらないうちに、変える必要がある!
ナイト・ヘッドは今まで何も思わんかったのか!」
怒号を飛ばされても、テリオスは涼しい顔を繕っていた。
「……失礼ながら、私は文官政治そのもの、嫌っております。ウィステリア家でも、他の家でもそれは変わりません」
「ほう?」
「古来はオリズ家、ピリオド家、そういう家が、今のウィステリア家だったのではありませんか」
テリオスは意図して、思い浮かんだアクアンプ家の名を出さなかった。
フィガロの元でも、立身出世しようするユーノスのためである。
「それは、そうかもしれぬが、心が違う。ウィステリア家は私欲に走りすぎじゃ」
「ウィステリア家だけでございますか。アルディシア家は? ウェアクラス家は?」
カペラは歯ぎしりする。
「帰れ。わしも一旦考え直す」
そそくさと院から出たテリオスは、一人、道端にしゃがみこんだ。
深く息を吐く。
「大丈夫?」
心配してきたのは、唯一連れてきて、外で待たせていた世話役のジャズという青年だ。
テリオスより五歳ほど若い、まだ見習いのようなナイトで、パレスから与えられた。
下町に生まれたテリオスは身の回りのことくらい自分でできるので、いっそそのように、気を遣わない友人や相談相手として振る舞うよう求めた。
「ああ、まあな」
「知り合いの人?」
「いや、全然知らない人だった」
「えっ、怖! 知らない人から呼びつけられたの?」
「そうだ。……うん、おかしいよな」
「おかしいよ」
「だよな。まあ、ケンカ別れみたいな感じになったから、このまま何もなければいいんだが」
テリオスが面倒そうに言うと、ジャズは一層青い顔をした。
「それもそれで怖いよぉ。仲直りした方がいいんじゃない?」
こういう馬鹿らしい提案を聞くと、自分の状況がよりくっきりと見えるようになる。
「そうだな。仲直りして、互いに無理なことはしないようにするのが一番だよな」
「俺もそう思う!」
ジャズと駄弁りながら、カペラがソルジャーではなくナイトを求めていたことを思い出して、やはりナイトの能力、品性の底上げは、出世の方法として間違っていないのだと確信した。
文官貴族に取って代わるため、付け入るためには、彼らのやり方を学ばなければならない。
Ⅱ
その日は、いつもの武道場に多くの席を設けて、教壇を置き、フィガロが立つ。
テリオスの命とあれば、強制でなくても、多くのナイトが出席する。
人数分の本が揃わなかったので、紙だけを配り、フィガロの音読を書き起こすことになった。
そのため、フィガロは一層生徒(部下)たちの顔色に気を配って、場合によっては漢字の音と形までゆっくり教えなければならない。
初学者に向けての講義ほど難しいものはない、そう思い知る。
そして、普段とは違い、今風の女官のように、胸より低いところで髪を結んでいる。
「学問といっても、幅広くてね。ヘッドから何の学問をやれなんて指示がないものだから、」
フィガロはだらだら喋る。
会議のときとはまるで違う。普段の、ナイト・デピュティとしてのフィガロを知る者はそう思った。
「『軍法』、これを読むことにする」
それを聞いて、フレア付きのナイト——ソルテラは、あっと思った。
まさに、今レディ・フレアが写本をしている書籍ではないか。
「理由は、俺たちにとって実学——現実的に、即自的に役に立つものだから。
せっかくの読書だから、詩や哲学みたいなきれいで空想的なものがいいという意見もあるだろうけれど、大丈夫。そう思う人はこんな機会じゃなくても、自分で学べる人だ。
そうじゃない、自分に関わりのあるものしか興味がわかないという人たちに合わせてあげよう」
フィガロの話はひどいものだが、声色がいつもより穏やかで、その不自然さに聴衆は惹きつけられる。
「だいたい皆分かっているだろうけど、概要から。
『軍法』は二百年前の震旦で、イオニックという軍師によって書かれた。題の通り、軍をうまく指揮して勝たせるための方法、規則が示されている。
いついかなる場合においても万能だと信じる必要はないけれど、震旦においても、本朝においても、これが広く頒布している教則本のようなものだということは認識しておいたほうがいい。
つまり、ある程度組織化された集団を率いる将は『軍法』を学んだ上で戦略・戦術を練っていると考えられる。
君たちはそれに勝たなければならない。あるいは、勝つために君たちがソルジャーや義勇兵を率いなければならない」
フィガロはここで初めて、有事にナイトがソルジャーを率いるという可能性に言及した。
これはナイト・ヘッド・テリオスよりも先んじている。
「正直に言って、一対一なら、ナイトよりもソルジャーの方が強い。残念ながら騎馬戦でもこれは変わらない。
けれど、そういう戦いで世界は変わらない。変えるなら、暗殺か、集団戦だ。そういう戦いでは俺たちが勝つ。
……どうしてかと言えば、ナイトのバックにはパレス――エンペラーがある。民衆への権威に合わせて、軍備、糧食の供給源としてこれに勝るものはない」
聴衆に交じっていたユーノスは、静かに驚いた。
フィガロはエンペラーを権威と物資の供給源だと言ったのだ。
他のナイトたちがどれほど驚いているのかと気にしたが、隣の人の顔色を覗きこめない。
フィガロの独り言のように始まった演説が、いつのまにか厳かな雰囲気を帯びている。
「それに、パレスの中で仕事をするにあたって、自然と組織としての統率が取れている。
ヘッドは普段、君たちに武芸の訓練をするよう強く言っているけれど、実は、それは戦術の一端に過ぎない。本当に大事なのは、日常、つつがなく仕事をしていて、もしものときに必要なものを数えて、買い足すこと。
そういうことが『軍法』には書かれている。これからその細かいところを読んでいこう」




