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8話 晩夏の風にめくられる漢籍 下

   Ⅳ


 日中の勤務を終えて、中年のソルテラは若手の後輩に肩もみを頼んだ。


「……なぜ?」


 後輩は嫌がるというよりも、本当に疑問に思う。

 これまで頼まれたことがなかったからだ。


「いやぁ、フレアさまが漢籍の写本をなさるっていって、手伝わされたんだが。疲れた」


「書き物ですか」


 後輩は力任せにソルテラの肩を叩く。


「久しぶりだからねぇ」


「そうですか。でもまた今度、ヘッドがするそうですよ。勉強会」


「勉強会? 何の?」


「多分漢籍じゃないかって。デピュティしか教えられる人がいないから」


「デピュティが?」


 ソルテラは嫌そうな声を出す。


「嫌なんですか」


「ずばっと言うねぇ」


「だって」


 後輩は肩叩きついでにソルテラの肩を平手打ちする。

 ソルテラは気づきながらも許す。


「ははは。俺は偉そうな奴が嫌いなのさ」


「パレスの中は偉い人だらけですよ」


「実際偉い奴じゃない。偉そうな奴、だ。

フレアさまはいい。たまにおっちょこちょいでかわいらしい。

ヘッドもいい。いつも一生懸命だ。

でもデピュティは違う。いかにも苦労してるって演技が上手い。腹が立つ」


 ソルテラは気分良く笑う。


「俺の同期のユーノスは?」


「血筋や官位がどうだろうと、後輩は後輩だからな。かわいいもんだよ」


 後輩はにっと笑う。


「じゃあ俺は?」


「ん? んー。……いい下っ端だな」


「ひどい!」


 後輩は利き拳を肩から振り落とした。

 ソルテラもさすがに短く叫ぶ。

 ナイトの隊舎は平和である。



   Ⅴ


 大勢のナイトたちに向けての講義に先立って、フィガロは自邸にて、ユーノス個人に詩作を教えていた。

 ユーノスがキャロルから呼ばれている漢詩の会に向けて、本人から頼まれたのである。


「詩を書いたことはある?」


「勉強としては、少々」


「じゃあ、読むことは?」


「同じくらいです」


 フィガロは優しい目をする。

 初心者であることを自覚している初心者には、いくらでも道を広げてやりたい。

 こういう学生に教えるのが、一番楽で、楽しい。


「じゃあ今日は、有名どころを読み直して、感覚を取り戻すところから始めようか」


「はい」


 ユーノスは恥ずかしそうに返事する。

 正直に言えば、読書によって学生時代の記憶をたどる作業など、ユーノスはとっくに自宅で済ませてきている。

 それでもフィガロに従うのは、同じものを読むにしても、フィガロに教わればより深く知れると期待するからである。


〈[……]


 無辺の落木、蕭々(しょうしょう)として下り

 不尽の長江、滾々(こんこん)として来る


 万里、悲愁、常に客となり

 百年 多病 独り台に上る


 [……]〉


 ユーノスはこういうように読み下す。

 それをフィガロは、


「うん、合っている。意味も分かっていそうだね」


「音読しただけですが」


「文字に書いてあっても、知らない言葉はうまく発音できないだろう」


 ユーノスはかみしめるように頷く。


「意味が分かったら、次は韻だ。

漢詩は和歌と違って、――聞くところによれば他の国の詩でも、意味や情景だけでなく、口にしたときの音も重視するものだ。聞いていて」


 フィガロは息を整える。 


〈[……]


 無辺落木蕭蕭下

 不尽長江滾滾来


 万里悲愁作客

 百年多病独登台


 [……]〉


 と読み上げた。

 本朝ではなく震旦の音で、ユーノスがまだ親しまないところである。

 

 フィガロはふっと笑う。


「覚えきれないと思った?」


 ユーノスはまた恥ずかしそうに頷く。


「大丈夫。例えば、気温の感覚が分からない人がいるとして。

自分は寒くないからといって、いつまでも夏の衣を着ていたら周りから浮いてしまう。寒そうに見える。

でも、なんとなく秋の気配を知って。……そうだな、風の音とか、月の色とか。そういうところから、周りの人の衣服をなぞれば、それらしい恰好ができる。寒そうには見えない。

外国語学習の始まりはそれだ。語彙や文法が全く追いつかない段階でも、空気感が分かれば、それらしく見える」


「外国語」


 ユーノスが聞き返す。


「外国語だよ。今日(こんにち)の漢詩も、震旦らしさが染みついてやっと、それらしさが出る。

本朝に落とし込まれているように見えて、大体の人が震旦のものを手本にしているから、何かが気に食わないと思えば、震旦らしさなのさ。

俺たちはいつまでも大国に焦がれている」


「憧れているから、震旦の詩をまねているんですか」


「そうだろうね。だってみんな、趣味というより仕事のために漢詩をやっている。君もそうだろう?」


「はい」


「この国が震旦の政治をまねたいから、文学までまねようとしているのさ」


「震旦の政治は、すばらしいものですか」


 珍しく、ユーノスがフィガロに質問を重ねる。

 簾越しの初秋の風のせいだろうか、とフィガロは思う。


「実際に見たことはないけどね。どうせ今頃は腐敗しているんだろう」


「どうしてそう思うんですか」


「今だからだよ。昔のことは、後からいくらでもきれいに書き直せる。でも今のことは、後世、何が美とされるか分からないからね」


「では、今というと、この国も同じですか」


「そうだね。そんな話をしてくれたから、君を引き抜いたんだった」


 それは、ユーノスが歴史の話をしろと言われて、今の都ができてから百二十年が経った、という話をしたことである。

 震旦ではおおよそ、二百年経てば革命が起こり、王朝が入れ替わる。

 王座も、貴族の地位も、制度も、国境も、すべてが武力によって変わるのだ。

 本朝でかつて、それほど大規模な政変が起こったことはない。しかしこれからは分からない。


「では、どう思う? もし今革命が起ころうとしたとして、君は……と聞かれても困るだろう。

 ヘッドは、王朝派と革命派、どちらにつくと思う?」


 余裕そうな、木の幹のようなフィガロの顔を、ユーノスはまじまじと見つめた。


「もう一度、ゆっくりおっしゃっていただけますか」


 語学初心者のような質問に、フィガロは微笑む。


「では、もう一度。テリオスはいつまでも現政治体制側についていると思う?」


「エンペラーのことはお守り申し上げなさると思いますが」


「それはそうだね。歩く大義名分は利用する方がいい。個人じゃなく、制度としてのエンペラーを、だ」


「制度としてのエンペラー」


「震旦では〝革命〟に相当するのだろうね。本朝では神の子としてのエンペラーの庇護、容認という制度、大義名分の中で、幾多もの為政者が入れ替わってきた。

震旦では、天命が変わったとして、人の目には見えない大義名分が共有されたとき、現行の腐敗した王の首が取られる。新たな天命として、覇者が王杖を持つ。それだけの違いさ。

さて、これを踏まえて、俺たちのタイムリミットはいつだと思う? どうすれば伸ばすことができる?」



   Ⅵ


 当のテリオス・レイショーはエンペラーに呼ばれて、パレスを離れた、とある院を訪れていた。

 もちろん、今上のエンペラーではない。

 先代のエンペラーである。


 昔には、一度即位したエンペラーは命が果てるまでエンペラーとして国務を担ったが、この頃は、自分の意思と権力が確かなうちに、自分の気に入る血縁者を次代のエンペラーとして定め、即位させるところまでを見届け、余生を優雅に過ごしている。

 通例では、新しいエンペラーの職務を明確にするため、元のエンペラーは寺院などに移って暮らす。

 

 テリオスが尋ねた男――リタイヤード・エンペラー(上皇)・カペラも(よわい)五十八、紅葉の名所である山中の寺院で、何も憂うことなくゆったりと、僧侶として暮らしているはずであった。

 しかしそういう僧侶が現職の、しかも面識もないナイト・ヘッドを、部下などに知られぬよう、秘密裏に呼びつけることなどありえない。


 貴族の血すら入っていないテリオスは緊張に緊張を重ね、着慣れない束帯の裾を踏みそうになりながら、頭につけた冠の角度を直し、カペラの前にひれ伏す。


 すると、


「良い。わしは今、ただの老人じゃ」


 と言われ、頭を上げる。

 御簾越しのカペラはその通り、テリオスも足を踏み入れられるような寺の僧侶と変わらない見た目をしている。

 話し方も今上のエンペラーより砕けている。


「そなたを呼んだのは、ひとえに、力を借りたいからじゃ。

 そなたは貴族でない。つまり、どの閥にも属さぬ。他の者へ利害がない。きっとわしを助けてくれるじゃろうと思うての」


 テリオスの脳裏にちらりと、レディ・フレアの微笑みが浮かんだ。

 カペラに従うことで、レディ・フレアに近づけるか、遠ざかるか、即座に考えたのはそれであった。

 その次に、カペラが何を企んでいるのか、何から追われているのかを考えだす。

 カペラはそのヒントを与えるように、老人らしくゆっくりと話し出す。

 庭木の葉は一瞬のうちに風に舞い、どこかへ飛んで行き、二人の目にとまることはない。

引用:杜甫「登高」

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