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8話 晩夏の風にめくられる漢籍 上

   Ⅰ


 否。

 フレアはレディ・ヴェロッサ以外の、昔のレディの名を知らない。

 知らぬうちに、フレアは無名のエンプレスに憧れ、目指していたのだ。

 しかし、父や祖父はそれを許すであろうか。


 シルビアは語る。


「私は、先々代のエンプレス――エンプレス・ラニアを知ってございます。我が父の姉君、我が伯母ですので。

伯母のなしたことは、先代のエンペラー――エンペラー・ジャスティを御産み申し上げたこと。

そして、守り、御即位なさるまでお育て申し上げ、我が祖父や我が父の(まつりごと)を信じるようお願いなさったことです。

ときに書かれないこともあったようですが、その結果、皇位は正しく受け継がれてきました」



   Ⅱ


 シルビアから聞いた話をシフォンにすら打ち明けたり相談したりすることができず、フレアは悩んでいた。

 単にデイジィを憎んでいるだけの方が単純で良い。

 安定的なパレス・ブレッシュ(後宮)の運営のために、フレアは何を行動すればよいのか。

 シルビアがそそのかす方法は、武家の名誉に恥じない戦法であるか。

 フレアの心は沈んでいる。


 そういう主人の横顔を見ながら、シフォンもスピアも、どことなく不安には思いながらも、シルビアに何か意地悪を言われたのであろう、というぐらいまでしか考えが及ばない。

 お付きのナイトのソルテラや、見張りのソルジャーのプレオなどは、外出が制限されて気分が晴れないのだろう、としか思っていないので、それと比べればメイドたちの方が推察力が高い。

 部屋の中で直接顔を合わせて働いているメイドと、窓や壁を挟んで守っているナイト・ソルジャーでは情報量が違うというのが原因である。

 結局、いくら男たちが規律や秩序を作ろうとしても、女のいる空間では、女主人の表情をどれだけ見抜けるかが重要で、御簾の外では何もできない。

 男が何か気づいたときには、女主人の心は既に決まっているものである。


 フレアはスピアにお使いを頼んだ。昔、父が読んでいた書籍である。


「『軍法』……? 漢籍でございますか」


「ええ。昔、父上が読み聞かせてくださったのだけれど、また読んでみたいと思うの。

誰かから借りてきてちょうだい。どうせ暇なのだから、写して取っておきましょう」


「お父上がお持ちなのですね」


「ええ。……でもできるなら、お父上以外の方からお借りしてちょうだい」


「なぜですか」


「何だか、恥ずかしいのよ」


 スピアもシフォンも、これを年頃の若い女の心だと思った。

 なんとなく、裳着や髪上げなどを済ませてから父親を頼るのは恥ずかしいように思われるものである。

 しかし豪胆なフレアにそのような繊細な心は乏しい。

 フレアはただ、自分が困っていることを知られたくないのである。

 パレス・ブレッシュでの振る舞いは全て、自分が前線に立たされた戦場での行動であると思えば、後方の将の指示ばかり待つのは頼りない。

 フレアはシルビアが持ちかけた戦いを、自分一人で逃げ切るか、一人で受けて立つか、考えている。

 その手引きが、父の愛読書なのだ。


 スピアはアリアに相談し、アリアが息子で内記のエリオに頼み、エリオが上官から借りてきた。


「ちゃんと返して下さらないと、倅の出世が……」


 と、心配そうにするアリアも巻き込んで、写本作りが始まった。

 ちなみにシフォン、スピア、アリアだけでなく、ナイトのソルテラも文字が書けるということで、順番に手伝うことになった。


「こういうのは久しぶりですなあ」


 ソルテラは墨を溶きながら、そう漏らす。


「写本をなさったことがあるのですか?」


 シフォンが目を輝かせる。

 郷里の縁でのみホライズ家のメイドになったシフォンにとって、漢籍を読み書きするのは珍しいことである。


「いいや、ナイトになる前はこういう勉強もしたもんでして」


「ナイトさまは勉学にも優れていらっしゃるのですね」


「いやいや、難しいったらなんの。試験のための勉強って感じですよ。

フレアさまはご自分から進んでなさるなんて、偉いったら偉い。

エンペラーのレディは違うっていうのか、ジェネラルのプリンセスは違うっていうのか」


 褒められて、フレアは高笑いする。


「ジェネラルの血筋のレディなんて、私だけなのだわ。ほほほほほほほ」


 フレアに共鳴するように、シフォンも高笑いする。

 ソルテラも笑いだしたが、やはりスピアは冷静にちょこんと座っているだけであった。


 プレオは漢学など分からないと言って断った。その理由が真なのか、警護に集中するためなのかは分からない。

 ただ、たまに、シフォンが知らない字に当たってわあわあ騒ぎだすと、プレオは壁を隔ててでも鼻で笑っていた。



   Ⅲ


 漢学に励みだしたのは、フレアだけではなかった。

 ナイト・ヘッド・テリオスは、自らに迎合しようとしないが実務上解任もできないヘッド・デュピティ・フィガロを抑え込もうと、彼が得意とする学問を、自分の派閥のナイトたちに奨励した。

 パレスの中でナイトは勉学に疎い方であるが、それにしても、パレスの外で平凡に生きている農民や商人と比べれば、簡易なものであれば漢字の読み書きも作文も、四則演算もできる。

 そもそも並の家の生まれからなれると言っても、子弟に教育を施して立身出世を願うような――一定以上の資本のある家の子でなければ、入隊試験は通過できない。

 ナイトは知識階層と言える。

 武官になると決めた時点で、学ぶ機会が失われたことを改めて教えれば、下流貴族程度の教養が身につけさせられるだろう。

 それはテリオス個人の野望にとっても、いくらあっても足りないことである。

 震旦(※海を隔てて隣する大国。ときに戦乱が起こり革命として王家が変わる)の歴史上、腕力だけで天下を制した王朝があっただろうか。

 本朝(※この国)においても、エンペラーの近くで政治を担うにあたって、現場小手先の腕力、戦術だけでは力不足である。

 テリオスはフィガロを評価し懐柔させるためにも、彼に学問の講義を依頼した。


「もちろん、参加自由、途中退室可能で」


 フィガロがそう提案する。


「全員に、最後まで教えた方が良い」


 テリオスは反抗する。

 これが誠意だと思うのだ。


「いや、やる気のない学生が欠伸やうたた寝、貧乏ゆすりなんてしだしたら、やる気のある学生の邪魔だ。非効率だ」


「でも、始めはやる気がなくても、段々面白くなってくるんじゃないのか」


「ないね。固定観念は強大だ。

……家のためにナイトになった子たちには良い機会だと思う。けれど、元から勉強なんか嫌いで、逃げるためにナイトを選んだ奴らもいる。

もし俺の講義を神さまが聞いて最高に面白いと言っても、学生がつまらないと思えば、つまらないことこの上ないんだ。聞き始めて何時間経とうが、それは変わらない」


 テリオスは飲みかけの湯呑を、あえて音がするように、机に置いた。


「お前、お前もナイトのくせに、ナイトを見下してるんだろう」


 フィガロは湯呑を持ったまま愛想笑いする。

 簾の向こうでは、空が晩夏の昼下がりらしく晴れて、風は乾き、遠くで虫が鳴いている。


「見下してなんかないさ。身分ごとに能力の限界があるという話で、ほら、上達部の坊ちゃんなんかは、弓が的に刺さりもしないらしいじゃないか。いくら本人が頑張ろうとしても、普段時間を使う仕事がそれでなければ、その程度なんだ」


「いいや、あいつらは武芸をなめてるんだ。汗をかいたら頑張ったなんて思うんだろう? 俺たちは汗をかくのなんか当たり前だ。その当たり前は、文芸にも当てはめられる。俺たちなら」


「どうかねえ」


 フィガロは湯吞の茶を飲み切って、机にそっと置く。


「まあ、ヘッドが言うんなら俺は講義しますよ。学生は二人でも、二十人でも、二百人でも構わない。

……ただ、人数に合う講堂はヘッドが手配してくれ」


 フィガロが折れたようなのに、テリオスには納得がいかない。

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