125話 「些細なことには動じない」
結局、怒ったエリアスによってジェシカは部屋を追い出された。ノアもそれについて部屋を出ていった。二人がいなくなった途端、室内が急に静かな空気になる。
それからしばらくして、ようやく髪のセットを終えた私は、近くに待機しているエリアスに尋ねてみる。
「どうしてジェシカさんを追い出したの? あんなにきつい言い方しなくても」
するとエリアスは少し気まずそうな顔をした。
「申し訳ありません。ついカッとなってしまいました。それにしても、今日のために仕立てたドレスを朝のうちに破いてしまうとは、まったく……情けない話です」
ジェシカにドレスは適していないのでは、と内心思う。
あれだけ喜んでいたところからして、ジェシカは今日初めてドレスを着たのだと推測できる。だから彼女はドレスについて理解していないのだ。いつもと同じような動作をしていては危ないと分かっていなかったのだろう。
「ジェシカさんはドレスなんて慣れてないのよ。だからあんなに派手に動いて破いちゃったんだわ」
「えぇ。前以てしっかりと言い聞かせておくべきでした」
「怒っても構わないけれど、最後にはちゃんと許してあげてね。ジェシカさんはちゃんと反省していると思うわ」
「はい。貴女がそう仰るなら、私が彼女を許さない理由はありません」
エリアスは目を細めて穏やかな笑みを浮かべる。数秒私を見つめてから、「よくお似合いです」と褒めてくれた。
戴冠式の衣装はリボンやフリル、飾りも多く、いつものドレスとは比べ物にならないくらい豪華だ。そんなドレスが私に似合うかどうか分からず不安を抱いていたが、彼が褒めてくれるなら、あからさまに変ということはないのだろう。道行く天使が振り返るほどのおかしさでなければ、私としては問題ない。
その時ふとエリアスは鏡台の方へ目を向けた。何かに気がついたように目を開いている。またしても鏡に黒い女が映っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
エリアスの視線が注がれているのは鏡ではなかった。彼が見ているのは、その手前に置いてある、白い羽がついた銀細工のブローチだ。友達だった頃のカルチェレイナに貰った物である。綺麗な銀色と凝ったデザインが好みで、エリアスの羽がついているのもあり、いまだに使っている。
「これを忘れないで下さいね」
……しまった、忘れていた。
彼はそのブローチを手に取ると、私の胸元につけた。とても手際が良い。エリアスはブローチをつけることなど滅多にないだろうに、私よりか慣れた手つきだ。
そのことに驚くとともに、純粋に尊敬した。
「ありがとう、エリアス。忘れるところだったわ。……それじゃあそろそろ控え室へ行く?」
出番まではまだしばらく時間があるが、少し早めに控え室へ移動しておいた方がよい。最後の最後にバタバタなるのも嫌だし。
エリアスは私の瞳を真っ直ぐに見て「はい」と頷く。整った顔に柔らかな優しい笑みを湛えながら。
控え室へ向かう途中、幾人もの天使とすれ違う。主に王宮勤めの使用人だ。
華やかな衣装を身にまとった二人が隣り合って歩いているのだから、視線が集まるのは当然と言える。憧れ、感動、羨望——私たちに向けられた視線からは様々な感情が感じられるが、その多くはプラスの感情だ。
エンジェリカの新時代の幕開けとも言えるこのおめでたい日に、マイナスの感情を抱いている天使など少数派のはず。いや、ほぼゼロに近いだろう。
私はそう思っていたのだが。
「きっと騙されてるのよね」
「えぇ。護衛とかいって、アンナ王女が目的だったのよ……怖い怖い」
この縁起の良い日にも、やはり余計なことを言う者はいた。悪口をひそひそ言っているのは、やはり古参の侍女たちだ。見るからにひねくれた顔をしている彼女らは、エリアスが私の相手となることを良く思っていないのかもしれない。
もっとも、そんなひそひそ話には何の効力もない。何とでも言え、というような小さなことなのだが実際耳にするとどうしても気になってしまう。
しかし、当のエリアスは少しも動揺の色を見せない。前と私、交互に目をやりながら、控え室へと歩いていく。
だから私も彼を見習って、悪口など気にしないように努めた。
控え室へ入ると既にヴァネッサがいた。今日は見かけないと思ったら、ここにいたのね。
「アンナ王女、紅茶を淹れています。飲まれますか?」
重い衣装でしばらく歩いたので喉が渇いていたところだ。ちょうど良かった。
「えぇ! 少し喉が渇いていたの。紅茶があれば助かるわ」
私は控え室の椅子に腰かける。エリアスは今までの癖で立ち続けていたが、「まだ完治したわけではないのだから」と説得すると素直に椅子に座った。
日常生活が自力で可能になったとはいえ、一番深かった腹部の傷はまだ癒えていないはず。なのでなるべく無理してほしくない。できる限り体に負担をかけないようにするべきだ。特に今日は、これから長い一日が始まるのだから、せめて今くらいはリラックスしてほしい。それが私の正直な思いである。
「エリアス。あんな悪口、気にすることないわよ」
ヴァネッサが紅茶を運んでくるのを待つ間、私はエリアスに小さな声でそう言った。彼があんなくだらない悪口に負けるほど弱い天使でないことは知っているが、念のためだ。
襟を正していたエリアスが顔を上げる。瑠璃色をした磨かれた宝玉のような瞳が私を捉えた。
「心配して下さってありがとうございます。おう……あっ、アンナはお優しいですね」
王女と言いかけて修正したのをごまかすように苦笑する。
私をアンナと呼ぶことにもだいぶ慣れてきたようだが、やはりまだ時折王女と呼びかけることがある。だが、それは長年の癖だから仕方ない部分も大きい。私としては、アンナと呼ぶように努力してくれていることが嬉しい。
エリアスは穏やかな表情で答える。
「ですがアンナ、私は悪口など少しも気にしていませんよ。貴女と結ばれることができるなら、たとえ何と言われても気にしません」
一切迷いのない口調だ。
「たとえ気持ち悪いと言われても、地獄に落ちろと言われても、罵倒されたって気にしません」
「いや……それはちょっと気にした方が良いわよ……」
「えっ、そうですか? なるほど。なかなか難しいですね」
何の話をしているのか段々分からなくなってきた。
そこへヴァネッサが紅茶を運んでくる。お盆ごとテーブルに乗せると、彼女は私の膝に布をかけてくれる。
「お待たせしました」
エリアスの分もちゃんと用意してくれていた。
「アンナ王女、決してこぼさないで下さい。その衣装にこぼしたりしたら覚悟していただきます」
「そ、そうね。分かったわ」
こんな日くらいは優しくしてくれるかと思ったが、彼女はいつもと何も変わらなかった。




