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後編

 おばけ。


 そのなんとも言えない間抜けな響きは、ホラー映画で見る恐ろしい悪霊というよりも、絵本にでてくる可愛らしいキャラクターを連想させる。

 白い風船みたいなアレだ。


「あはは、信じられないよね。おばけなんて」


 信じているかと聞かれると、正直微妙なところだ。

 僕は霊感とやらを持っていないし、生まれてこの方、幽霊なんてものは見たことがない。

 でも、世の中には霊感を持つと自称する人が大勢いて、心霊写真やら心霊映像も大量に出回っている。

 それらを否定できるほどの材料を、僕は持ち合わせていない。


「まぁ、聞くだけ聞くよ」

「思ったより驚かないんだね。もしかして、霊感あったりする?」

「いや、全然」


 僕だって、驚いていないわけじゃない。

 けれど、偶然幼馴染と再開して、悩みを聞いて、初めて泣く姿を見て、その背中をさすりながら家路についていることを考えれば、反応も薄くなるだろう。

 それに――。


「僕も最近、オカルト的な何某(なにがし)に何度か巻き込まれたんだ。だから幽霊がいても不思議じゃない……と思う」

「そうなの? オカルトってどんなの?」

「今はお前の話だろ」

「そうだったね。どこから話そうかな」


 栞は少し考えるように顎に手を当て、「ん〜」と唸った。

 その様子からは、どうにも危機感が感じられない。


「えっと、最初におかしなことが起きたのは4日前だから……火曜日かな。火曜日の夜9時ごろにね、部屋で寝てた翔太くん……あ、弟は翔太っていうの。今4歳で、大人しい子だよ。初めて会った時は今よりもっとちっちゃくて――」

「栞ストップ。話が逸れてる」

「あ、ごめんね」


 流石というかなんというか、栞の話は横に広がっていくから気をつけなければ。

 にしても、さっきは『弟を素直に可愛がれない』とか言っていた癖に、内心可愛くて仕方ないらしい。


「それで、寝てたはずの翔太くんが、物凄い勢いで泣き始めたの。泣いてるっていうより叫んでる感じだったかも」

「叫んでる感じか。お母さんはいたのか?」

「うん。私が寝室に行った時には、お母さんが翔太くんをあやしてたよ。それで、『勉強の邪魔してごめんね、すぐ泣き止ませるから戻ってて』みたいなことを言われたんだけど、泣き方が普通じゃなかったから、もしもの時はすぐ動けるように側にいたの」

「へぇ、偉いじゃん」

「一応お姉ちゃんですから」


 栞は得意げに言うが、一方で幼馴染に背中をさすらせているのだから(さま)にならない。


「結局5分くらいで泣き止んだんだけどね」

「栞より簡単に泣き止むんだな」

「……たっくん、面白いこと言うね」

「あっ……すみません調子乗りました。続けてください」


 笑顔で威圧してきやがった。

 いつの間にそんな新技を習得したんだ。


「どこかが痛いっていうわけでもなさそうだったから、とりあえず安心したんだけど、何かに怯えてる感じでね。お母さんが何度も理由を聞いたら、翔太くんは窓の方を指差して『誰か来た』って言うの」

「誰か……?」

「そう。それでね、『誰が来たの?』ってお母さんが聞いたらね――」


 ――あかいおんなのひと。

 

 翔太くんは、そう言って母の胸に顔を(うず)めたという。


「こわ……」

「ねー」

「ねーってお前……。で、どうなったんだよ?」

「えっとね」


 栞が確認したところ、窓にはカーテンが閉められていたが、数センチの隙間が空いていたらしく、少しではあるが外は見えていたそうだ。


「私の家って憶えてる?」

「コーポササキだろ」

「そうそう」


 住宅地の外れにある2階建4部屋の共同住宅、その1階に栞は住んでいる。

 そこそこ古い建物であり、洋風な外観と、外壁に大胆に書かれた『コーポササキ』の文字が目立つので、周辺住民なら誰もが知っているだろう。


「翔太くんとお母さんの寝室は玄関横にあるから、他の住人が窓の前を通ることもあるの。だから、たまたま通った誰かが怖いものに見えちゃったんじゃないかっていうことで、一旦その話は終わったんだ」

「でも、まだ話は続くんだろ?」

「うん。もうちょっとだけね」


 そう言う栞は嬉しそうに微笑んでいて、怪談を聞いているつもりなのに、ただの世間話をしているように錯覚してしまう。

 カーテンの隙間から誰かが覗いていたなんて、想像するだけでも背筋が凍りそうなものだが。


「次におかしなことが起きたのは、その翌日の夜11時くらい。部屋で勉強してたら、ピンポーンってチャイムが鳴ったの。こんな時間に誰だろうと思って玄関に行ってみたら、お母さんがドアスコープを覗いてたんだ。『誰?』って聞いたら、『誰もいない』って。前日のこともあるから、ちょっと怖かったんだけど、お隣に住んでるおじさんが部屋を間違えたんじゃないかってことで、その日は普通に寝たの」


 そこまで黙って話を聞いていた僕は、

「ちょっと待って」

 と、思わず口を挟んだ。


「それは、実際の話……なんだよな?」

「うん。本当の話だよ」

「……だろうな」


 栞が嘘をつかないことは知っているし、面白半分で創作話を披露するようなタイミングでもない。

 しかし、そんなベタな展開の連続が、実際に起きるものだろうか?

 僕自身、幽霊の存在については半信半疑だが、そんな絵に描いたような心霊現象が起きるとは信じ難い。

 隙間から覗かれたり、チャイムが鳴っても無人だったり。

 いや、信じたくないと言った方が正確だろうか。


「……止めて悪かった。続けてくれ」

「えっと、どこまで話したっけ?」

「おっさんが部屋を間違えたんだろって事にして寝たとこまで」

「そうだった。それで、次の日なんだけどね――」


 栞によると、その翌日もまた、23時ごろにチャイムが鳴ったという。

 自室で勉強をしていた栞が玄関へ向かうと、母が前日と同じようにドアスコープを覗いていた。

 そしてやはり、外には誰の姿も確認できなかったそうだ。


「それでね、お母さんが『イタズラかも』って言って、アパートの周りをぐるっと1周してきたんだけど、人っこ一人居なかったんだって」

「こわ。ってか、お前の母ちゃん思い切ったことするな」


 仮に僕が同じ状況に陥ったなら、1人で外に出ようなんて考えもしないだろう。

 部屋に篭って布団を被るのが関の山だ。


「多分ね、私が怖がってたから、安心させようとしてくれたんだと思うんだ。ドアを開けるお母さんの手、震えてたから」

「……そうか。良いお母さんじゃん」

「うん、そうなの。本当に、良いお母さん」


 それでも、いや、だからこそ、栞は辛かったのだろう。

 母の没後、3年も経たずして再婚した父親に対し、栞がどれほどの怒りと失望を覚えたのかは、僕には計り知れない。

 せめて、新しい母親が嫌な奴なら話は簡単だったろうに、栞は新しい母を受け入れることが、実のは母に対する裏切りになると考えているのかもしれない。


「とにかく、3日目はそれで終わったんだ。2日目もそうだったけど、チャイムの後は特に何も起きないから、普通に寝たの。でもね、4日目――昨日の夜に、大変なことが起きちゃったの」


 えらく楽しそうに、栞はそう言った。

 ここまでの話を聞く限り、こんな満面の笑みで語るような話にはならない気もする。

 大変なことが起きたのなら尚更だ。


「あ、もしかして、家の中に赤い幽霊が――」

「待ってたっくん。怖い話のオチを当てようとするのは無粋だよ」

「あ、あぁ、ごめん」

「いいよ。これからクライマックスだから、ちゃんと聞いてね」


 普通に怒られてしまった。

 怖い話もなにも、僕はただ、母親と弟が実家に避難した原因を聞きたかっただけなのだが。

 しかし、本人がそう言うのなら、最後まで黙って聞いてやろう。

 こんなに楽しそうに話すんだから、僕には想像出来ないような、抱腹絶倒のオチを披露してくれるのかもしれない。


「昨日の夜9時頃にね、部屋で授業の復習をしてたら、突然悲鳴が聞こえたの」

「悲鳴? 誰の?」

「お母さん。それで私、すごくびっくりしちゃって、部屋を飛び出して家中を見て回ったの。そしたらね、お母さんがお風呂の浴槽の中で、小さくなって震えてたんだ。遂に我が家にもゴキブリが出たのかと思って、かなり焦っちゃったよ。ほら、私のアパート結構古いでしょ? いつか出るんじゃないかって心配してたの」

「いや、ゴキブリトークはいいから。結局ゴキブリじゃなかったんだろ?」

「うん、違った」


 栞はそう言うと、一呼吸置くようにメロンソーダを呷った。

 僕もコーラを飲もうと栞の背中から手を離すと、栞は小さく「あっ」と呟いたが、先程のように背中をさすり続けることを要求したりはしなかった。

 腕はもう限界に近かったので、僕としてはありがたい限りだ。


「そんで、結局なんだったんだ?」

「えっと、お母さんに『なにがあったの?』って聞いたらね、『赤い女がいた』って言うの」

「……どこに?」

「お風呂の脱衣所かな」

「じゃあやっぱり……」


 赤い女が、家の中に入ってきてしまったらしい。


「お母さんがシャンプーしてたら、後ろから扉をノックする音が聞こえたんだって。コンコンって。お母さんは、私が何かの用でお風呂場まで呼びにきたと思ったみたいで、『どうしたの?』って声をかけたんだけど、ブツブツ喋るだけでよく聞こえなかったんだって。それで、よく耳を澄ましたら、『ごめんなさい、ごめんなさい』って、謝り続けてたみたいなの」

「謝ってた?」

「そう。お母さんもなんのことか分からなくて、ちゃんと話を聞こうと、急いで髪を洗い流したみたいなの。でもね、シャワーを止めた時に気づいたんだって。ずっと謝り続けるその声が、私とは全然違うって。それで振り返ったら、扉のモザイクガラス越しに、真っ赤な女のシルエットが見えたんだって。それでびっくりしたお母さんは悲鳴をあげて、浴槽に飛び込んでたらしいの。あはは。普通そうはならないよね」


 その状況が普通じゃないのだから、どんな行動に出てしまってもおかしくはない。

 シャワーの途中でノックされ、振り返れば謝り続ける赤い女がいる。そんな状況下において、冷静な対応ができる人間なんてごく僅かしかいないだろう。

 僕に言わせれば、そんな異常事態に陥った相手を笑う方がおかしい。

 栞はよく笑う奴だったが、他人の不幸を笑うような奴ではなかった。

 お前が変わってなくて安心した。なんて言ってしまったが、環境が変われば人も変わる。

 それがどうしようもなく、悲しかった。


「そんなことがあったから、お母さん達は今日から帰省したの。だから、うちには誰も居ないんだ」


 結果的に、想像とはかけ離れた話になってしまった。

 一瞬とはいえ、可愛い幼馴染からエッチなお誘いを受けたと勘違いした自分を殴りたい。


「どうしたの? 難しい顔して」

「そんな怖い話を聞いたら難しい顔もしたくなるよ。今夜は風呂に入らないかもな」

「あはは。汗かいてるから臭くなっちゃうよ」

「お前はどうするんだよ? まさか、このまま家に帰るのか?」

「うん、帰るよ。ご飯食べて、勉強して、お風呂に入って、普通に寝る」

「昨日の今日だろ? 何かあったらどうするんだよ? 今からでもお母さんの実家に泊めてもらえ。どうしても無理なら僕んちに泊めてやるから、そんな危ない家には帰るな」


 そう言った僕の顔を見て、栞は吹き出した。


「あははははっ!」


 何がそんなに笑えるのか、楽しそうに、本当に楽しそうに笑うのだ。


「栞……?」

「あはは……ふぅ、ごめんね。たっくんがすごく深刻そうな顔してるから、おかしくなっちゃって」

「は? なんだよそれ」


 深刻になって当然だろうが。

 僕は僕なりに真剣に話を聞いて、力になりたいと思っているのに、なんだよその言い草は。

 昔の栞と、映画館でストラップを選ぶ栞と、泣きじゃくる栞と、今の栞が、全て別人のように思えてしまう。

 今の栞の隣にいるのは、あまりにも居心地が悪い。


「もういい、自転車返せ。僕は先に帰る」


 気づけば、僕は立ち止まって右手を突き出していた。

 眉間に皺が寄っているのが、自分でもよく分かる。

 それに対して、栞は困ったような笑顔を浮かべた。


「えっ? どうして? もうちょっとなのに」

「さっきから気分が悪いんだ」

「体調悪いの?」

「違う。今のお前を見てるとムカつくんだよ」

「た、たっくん? 急にどうしたの?」


 街灯の途切れた暗闇の中だが、目が慣れた僕には、栞の強張った表情がはっきりと見て取れた。


「家のことや学校のことは気の毒に思うし、たくさん苦労したんだと思う。でもお前は――栞は栞のままだと思ってたよ」


 こんなことなら、再会なんてしなければ良かった。

 勝手な言い分だとは思うが、心の底からそう思ってしまう。


「もしかして、笑ったことを怒ってるの?」

「怒ってねぇよ。てか、早くチャリ返せって」


 栞は、詰め寄る僕から自転車を守るように自分の体に引き寄せると、引きつった笑顔を作った。


「たっくんは本当に変わらないね。怒ってる時は『怒ってない』って言うの、小学生の頃から一緒」


 その言葉に、さらにカチンと来てしまう。

 図星を突かれるのは、相手が誰であれ腹立たしい。


「栞は本当に変わったな。人の不幸を笑ったり、人の好意を馬鹿にしたり、小学生の頃とはまるで違う」


 煽るように、精一杯嫌味ったらしく言い返すと、遂に栞は笑顔を崩し、キッと僕を睨んだ。

 人を睨み慣れていないせいか、威圧感はまるでない。


「そ、そんなつもりじゃないもん! なんでそんなこと言うの!? たっくんのバカ!」

「お前の方がバカだろ。なに勝手に病んで性格捻じ曲げてんだバーカ!」

「だから違うもん! だいたい西高の英語くらいで躓いてるたっくんにバカって言われたくないよ! このバカ!」

「なっ!」


 僕だってそれなりに頑張ってテスト勉強してんのに、こいつ。


「お前ちょっと勉強出来るからって調子乗んなバーカ!」

「またバカって言った! もう怒った! 勉強教えてあげようと思ってたのに! 絶対教えてあげないからね! たっくんなんか赤点取っちゃえ!」

「赤点なんて取りませーん! つーか僕だって遊んでやんないからな! お前以外の友達との約束で予定パンパンにしてやる! あーあ! これから忙しくなるなぁー!」

「べ、別にいいもん! たっくん授業中にお漏らしちゃうから臭いし! うんち臭いからあっち行ってよ!」

「お、お前いつの話してんだ!?」


 こいつ、小学3年生時代の話を持ち出しやがった。

 そういうつもりなら、僕だって小4の話を掘り返してやる。


「あれあれー!? プールサイドで準備運動中に小便漏らした栞さんじゃん! 元気してたかぁ!? 頼むからもう小便ひっかけないでくれよ? くせぇから!」

「そ、それは言わない約束でしょ! 約束を守らない人は嫌いだからね!」

「僕は人を馬鹿にして笑う奴が嫌いだよ!」

「だから違うもん!」

「何が違うんだよ!」

「嬉しかっただけなの!」

「うれし……はぁ?」


 嬉しかった?

 何が?

 何がだよ?


「何言ってんだお前? いくら何でもそれは訳がわからないぞ。喧嘩は初めてか?」

「したこと……あるもん。幼稚園の年長さんの時、たっくんと喧嘩した……でしょ」


 出し慣れていない大声で息切れしたのか、栞は肩を上下させている。

 しかし確かに、思い返せば、喧嘩したことがあった気がする。

 具体的には覚えていないが、あの時もこんなふうにワーワー言い合ったのだった。


「あの時は、なんで喧嘩したんだっけ?」

「プニキュアと仮面ドライバーはどっちが強いか……」

「あぁ……」


 断片的に思い出した在りし日の記憶は、死ぬほど下らなかった。

 というか、まぁ、今の喧嘩も、未来の自分や赤の他人が見たら、どうしようもなく下らないのだろうが。


「コ、コーラひと口ちょうだい……。メロンソーダさっき飲み干しちゃった……」

「あぁ、はい」


 キャップを外したペットボトルを差し出すと、栞は「ありがとう」とそれを受け取り、ひと口なんて言わずにぐびぐびとコーラを飲み始めた。


「僕の分が無くなるだろ」

「んーん」


 僕の制止を無視して、栞は半分ほど残っていたコーラを苦しそうに飲み干した。

 むかついているのは分かったが、僕への当てつけのために無駄に体を張るんじゃないよ。


「ありがと。これ返すね」

「ゴミを返すな」

「…………けふっ」

「満足そうにゲップしてんじねぇよ」

「し、してないもん!」


 栞は恥入るようにそっぽを向いた。

 やっぱり、こいつはバカなのかもしれない。

 ペットボトルを受け取り、キャップを閉めて自転車の籠に放り込むと、栞は再び歩き出した。

 自転車を返すつもりはないらしい。


「そんで、結局何が嬉しかったんだよ。僕との再会にテンション上がっちゃったか?」

「もちろん嬉しかったし、テンションも上がっちゃうよ。でも違うの。分かっちゃったんだ」

「分かったって、何がだよ」

「赤いおばけの正体」


 さっきの小競り合いを忘れてしまったかのように、栞はにこやかな笑顔を浮かべた。


「どうしてそんなのが嬉しいんだよ」

「あのね、私本当は凄く心細かったの。赤いおばけが襲ってくるんじゃないかと思うと家にも居られなくて、今日は朝からフラフラしてたんだ。図書館に行ったり、ウインドショッピングしたり、映画を観に行ったりね。楽しいことをすれば、忘れられるんじゃないかなって」


 つまり、現実逃避。

 僕が赤点から目を逸らそうとしたのと同様に、栞は赤い幽霊から目を逸らそうとした。


「でも、さっきたっくんが背中をさすってくれてる間に、色んなことを思い出したの。町内会のお祭りとか、みんなで通ってた駄菓子屋さんとか――」


 ――ママのこととか。


 栞は噛み締めるように言った。

 お母さんではなく、ママ。

 義母ではなく、実母。


「……どうして、そう思うんだ?」

「どうして? えっと、なにについて聞いてるの?」

「……幽霊の正体だよ」

「あっ、分かったんだ。すごいね、流石たっくん」


 分かるだろ、誰でも。

 幼馴染じゃなくても、僕じゃなくても。

 栞が喜ぶような幽霊の正体なんて、考えずとも1つしかない。


「そう、ママだよ。赤いおばけは、ママ」


 冗談でも憶測でもなく、栞の声には確信がこもっていた。

 心なしか、歩く速度も上がっている気がする。

 家にいるのが怖くて、家に帰りたくなかったはずの彼女は今、家に帰ろうとしている。

 一刻も早くと、心を躍らせながら。


「だから、どうしてそう思うんだ?」

「根拠はいくつかあるの。私の家を知っていること。最初に覗かれた翔太くん部屋は、昔私の部屋だったこと。ママは赤が好きで、よく赤い服を着ていたこと。ママの命日がもうすぐだっていうこと。それから――謝ってたっていうこと」

「…………そうか」


 カーテンの隙間から覗かれる。

 チャイムが鳴ったのに誰も居ない。

 シャワー中、背後に立たれる。

 幽霊というのは怖いのが当たり前で、あるべき姿だとすら思っていた。

 だけど、そうではないのかもしれない。


 自分の命日に合わせて帰ってきたり、娘のことが心配で部屋を覗いてみたり、チャイムを鳴らしても気づいてもらえなかったり、自分に取って代わった新しい母を恨むどころか謝罪したり。


 幽霊――いや、『おばけ』の方がしっくりくる。

 白い風船みたいな姿ではないのだろうが、この世に残した娘を案じる母親は、きっと可愛らしく、あの頃のままの姿で微笑んでいるだろう。


「そういやお前んとこのおばさん、いつもにこにこしてたよな。栞そっくりの顔でさ」

「うん! 私、ママ似だもん」


 栞はそう言って、今日一番の笑顔を僕に向けた。

 やっぱり栞は笑顔が似合う。

 泣き顔よりも、怒り顔よりも。

 今が夜だと忘れさせてくれるほどの眩しい笑顔が、僕は昔から大好きだった。


「栞、チャリ返してもらうぞ」

「え? まだ怒ってるの?」

「違うって」


 僕は多少強引に奪い返した自転車に跨り、促すように荷台を叩いた。

 すると栞は察したようで、荷台に座り、僕の腰に腕を回した。


「たっくん不良だね」

「お前もな」


 もうこんな時間だ。

 きっとおばさんが心配してる。

 1分でも1秒でも早く、栞を送り届けたい。

 それに、僕もなんだか母さんの顔が見たくなった。

 帰ったら久しぶりに肩でも揉んであげよう。

 そんな簡単なことすら出来なくなる日が、いつかやってくることを、僕はしっかり覚えておかなければならない。


「じゃあ、しっかり掴まっとけよ」

「うん!」


 それと、もうひとつ。

 カーテンだけはきちんと閉めよう。

 わずかに開いた隙間から、誰かが覗いているかもしれないのだから。

 

 僕はそう心に誓い、力一杯ペダルを漕いだ。

 大切な幼馴染と一緒に、大切な家に帰るために。

 今夜は、過ごしやすい夜になりそうだ。

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