第八話 天使と悪魔は有言実行
「ノア様! しっかりなさって、ノア様!」
目を開けると、イリスの顔が近くにあった。
近い。まつ毛の本数が数えられる距離だ。
「……おはよう?」
「おはよう、ではありませんわ! 何を話しかけても返事がないんですもの。あと三十秒起きなければ、人工呼吸に移行するところでしたわ」
「起きてよかった!?」
体を起こす。馬車は既に王都へ戻っていて、家の前に停まっていた。
どうやら、あの白い空間にいる間、こっちの俺は眠りこけていたらしい。
――夢、だったのか?
いや。
右手を見る。
あの空間で試しに術式を編もうとした時の、糸口すら掴めない嫌な感触。あれは夢で再現できる類のものじゃない。
ミナーヴァと、ルサルカ。
教える前から、俺の名前を呼んでいた二人。
「ノア、顔色が悪いです。悪い夢ですか?」
「……夢なら、いいんだけどな」
セシルには、そう答えておいた。
心配をかけたくない、というのもある。
だがそれ以上に――あの二人が何者なのか、俺自身がまだ何も説明できないのだ。
分からない事を報告しても、不安が伝染するだけ。
十年の宮仕えで覚えた、数少ない処世術だった。
「……分かりました。でも、一つだけ」
セシルは俺の目をまっすぐ見た。
「話したくなったら、一番に私に話してください。約束です」
「……おう」
猫耳の少女は、たまに、俺より大人だ。
「さて、ノア様。本日の精算ですわ」
イリスが小さな財布から金貨を取り出した。
三枚。
「契約は二枚だろ」
「一枚はサービスですわ」
「受け取れないなぁ」
「では、こう言い換えますわ。ジョーカー撃破の特別手当」
「……それなら、まあ」
理屈が通っていると、断りにくい。この王女、俺の断り方の癖をもう掴んでいる気がする。
帳面に書き込む。
『護衛依頼、完了。報酬金貨二枚、特別手当一枚。備考、ギルドと王家の関係悪化は必至』
備考欄が、我ながら不穏だった。
「ところでノア様。その帳面、いつも持ち歩いていますのね」
「十年の相棒だからな」
「では私も、いつか書いていただけるかしら」
「もう書いてあるよ。『依頼第二号、王族の護衛』って」
「……ふふ。永久保存しますわ、その頁」
「それでは、私は帰りますわ――と言いたいところですけれど」
イリスがスカートの裾をつまんで、にっこり笑った。
「本日から、こちらで暮らしますわ」
「はい?」
「アメリアの許可は取ってありますの。婚約者の家で暮らすのは、当然でしてよ」
「婚約は保留! あと王女が平民の家に住むな!」
「王族の自由居住権を行使しますわ」
「そんな権利あるの!?」
「今、作りましたの」
「即席立法やめろ」
「ちなみに荷物は、もう届いていますわ」
窓の外を見ると、見覚えのある王家の馬車が四台、家の前に横付けされていた。
御者が次々と衣装箱を降ろしている。八箱。九箱。まだ増える。
「うちの床が抜ける!」
「あら。では増築いたしましょう。大工の手配は――」
「しなくていい! 箱は半分お城に返す!」
「むぅ。……では、七箱で妥協しますわ」
「交渉の初手で吹っかけるのやめてくれない?」
隣でセシルが、静かに、深く、息を吸った。
「ノア。私、お部屋の掃除をしてきますね。イリス様のお部屋は、物置でよろしいですか」
「よろしくないですわ!?」
騒がしい夜になりそうだ、と思った。
実際は、その予想すら甘かった。
夕食の席は、初日から戦場だった。
「ノア様、あーん、ですわ」
「しない」
「ではセシル様がやるのは有りですの?」
「有りです」「無しだよ!?」
皿の上のパンが一つ消えるたび、視線が三往復する。
一人の食卓は静かだったが、うるさい飯は、惔しいことに、うまかった。
夕食の後。
コンコン、と扉が鳴った。
こんな時間に客とは珍しい。俺は「はーい」と返事をして、扉を開けた。
「「ここに住まわせてください!」」
見覚えのある二人が、玄関先で頭を下げていた。
黄色の髪と、紫色の髪。
「……ミナーヴァと、ルサルカ?」
夢の住人が、実体を持って、俺の家の前に立っていた。
背後で、セシルの声がした。
「ノア。また、女の子ですか」
「違……くはないけど、違うんだ」
「何がどう違うんですか」
「説明が難しいんだよなぁ!」
――俺の平穏な独身生活は、どうやら三日で終わったらしい。
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