第十八話 戦いの事前準備
「こんにちはーっと」
ノアが引き戸を開けると、討伐隊全員の視線が一斉に集まった。
「――あれ、ノア・カインズじゃねぇか」
「おいおい、どうしてこんな所に」
「決まってる、王家が雇ったんだよ」
「英雄だ、これで勝てる!」
「最強の転移魔法使い様のご登場だ!」
どよめきが広がる。勝利を確信する歓声だったが、イリスはそれを軽く手を叩いて制した。
「はい、静かに。ノア様の登場に驚くのは分かりますけれど、そこは目をつぶってくださいまし」
そしてまた、全員が驚いた顔になる。無論、ノアの登場にではない。イリスがノアを「様」付けで呼んでいることにだ。
ノアは頭を抱えながらも、苦笑いでそれを受け流した。
「改めて紹介しますわ。こちらがノア・カインズ様、そしてこちらがセシルですわ」
「どうも、ノアです」
「セシルです。ノア様に仕える奴隷をやっております」
「やってないだろ!?」
いつもの調子の掛け合いに、イリスが小さく微笑む。討伐隊の面々は、その一部始終から目が離せない様子だった。
◇
「――時に、ノア様の転移魔法とは、実際どれほどのものなんですの?」
年配の魔道士が、興味深そうに尋ねてくる。
「消費マナは質量×距離で決まる。人を運ぶだけならどうということもないが……」
「壁や地形ごと吹き飛ばす、なんてことも出来るんですのよ、この方」
イリスが得意げに付け加える。
「インパクトウォールのことか。あれは対象の質量を圧縮して叩きつけてるだけだ。派手に見えるが、理屈は荷運びと変わらない」
「理屈は、って……」
魔道士は絶句した後、乾いた笑いを漏らした。
「化け物じみた理屈ですな」
「化け物とは失礼な」
軽口を叩きつつも、ノアはマナの残量を頭の中で確認する。十年間、荷運びのために磨いてきた計算が、今は戦場の生死を左右する。
「ちなみに、今回の敵は水の魔人だ。水を媒介にされると、地形ごと持っていかれる恐れがある。マナの消費配分は、事前にしっかり計算しておきたい」
「計算は俺がやりますわ。ノア様は魔力を温存してくださいまし」
イリスがすかさず紙とペンを取り出す。数字にだけは誰よりも早い彼女に、ノアは軽く頭を下げた。
◇
騎士団の中には、若い剣士が一人、緊張した面持ちでノアに近づいてきた。
「あの……本当に、勝てるでしょうか。相手は魔人です」
「勝てるかどうかは、やってみないと分からない。だが、負ける前提で来たのなら、今すぐ帰った方がいい」
厳しい言葉に、剣士は一瞬たじろぐ。だが、すぐに背筋を伸ばした。
「――いえ。やります。ここまで来て、逃げるわけにはいきません」
「なら、俺の後ろにいろ。守りはする」
短い言葉に、剣士は深く頭を下げた。十年間、誰かに頼られることのなかった男が、今は戦場でも誰かの支えになっている。
◇
やがてイリスの表情が変わる。いつものお嬢様言葉が消え、真剣な声だけが残った。
「十二年です。水の魔人ファゲイトが、このカルタニアを中心に世界を荒らし始めてから」
砕けていた空気が、一変して張り詰める。
「数えきれない悲しみと苦しみを、あの魔人が生み出してきました。――ですが、それも今日で終わります」
イリスの言葉に、隊員たちの瞳に光が戻る。
「今こそ、我らの力を見せる時です。積もった鬱憤を、あの水の魔人に叩きつけましょう」
「出陣は、ここより東方の地、ハクケン津。今夜、ファゲイトを討ちます」
「うおおおッ!」
歓声が上がる中、ノアはイリスに小声で尋ねた。
「お前も戦場に来るのか」
「当然ですわ。侮らないでくださいまし」
「指揮は誰が」
「私が執らずに、誰が執るのですか」
「まあ、それもそうか」
◇
戦地へ向かう道中、ノアとイリスは同じ馬に、セシルは一頭離れた馬に乗っていた。二人のやり取りを聞いていたセシルが、頬を膨らませる。
「ちょっと、イチャイチャしすぎです。ノア、私ともお話ししましょう」
「してないだろ、まったく」
「――俺も変わったな」
ふと、ノアが呟く。
「何がです?」
「少し前まで、人付き合いが苦手で、モテたこともなかったなと」
「そんなの、想像もつきませんね。ノアさんは優しいし、頭も良いですし」
「これには私も同意ですわ」
「――ありがとな、二人とも」
十年間、誰にも見られなかった男が、今は誰かの言葉に励まされている。それが、まだ少しくすぐったい。
◇
到着した湖畔で、ノアは小さく息をついた。
「心配事ですか」
セシルが顔を覗き込む。
「相手は水の扱いに長けてる。この湖が、敵に回りそうで怖いなと」
「ノアさんなら、その程度の問題、何でもないと思いますよ」
「かもな」
《ノアの帳面》には、戦闘前の懸念事項として一行が加わる。地形、水源、マナ消費見込み。十年間の記帳癖は、戦場でも変わらなかった。
「そういえばイリス、ギルドの討伐隊はどうなったんだ。号外まで出してたろ」
「編成を急いで先行し、壊滅したそうですわ。生き残りはわずか数名。指揮を執っていたのは、ギルドマスター本人だったとか」
「あいつが前線指揮? 柄じゃないだろ」
「後がなかったのでしょう。情報流出に大量離職。ここで手柄を立てる以外、ギルドが立ち直る道はありませんもの」
「なるほどな。……で、その生存者様はどこに逃げたんだか」
軽口のつもりだった。だが、その答えを、ノアはこの後すぐに知ることになる。
◇
出陣の直前、隊列の最後方でセシルがそっとノアの袖を引いた。
「――絶対に、無理はしないでくださいね」
「分かってる」
「分かってないから言ってるんです」
いつになく強い口調に、ノアは苦笑いで頷いた。十年間、誰にも心配されたことのなかった男には、こういう真っ直ぐな言葉が、いまだに少し眩しい。
「大丈夫だ。俺には、帰る場所がちゃんとあるんだからな」
「――はい」
セシルの表情が、ようやく緩んだ。
イリスもまた、少し離れた場所から二人を見守っていた。
「――お二人さん、仲がよろしいことで」
「イリスも似たようなもんだろ」
「あら、バレましたか」
冗談めかした声の裏に、隠しきれない緊張が滲んでいる。この戦いの重さを、誰よりも理解しているのは、指揮を執る彼女自身だった。
◇
魔力機が鳴り、会敵の合図が響く。
「魔法使いは発射用意、剣士は抜刀を!」
遠くから響く足音は、地鳴りに近い重さを孕んでいた。
「怖いですか」
「いや、まったく。むしろ、この戦いで大活躍する未来しか見えないんだよなぁ」
「それでこそ、私が見込んだノア様ですわ」
不敵に笑い、ノアは右腕に魔力を集中させる。視界の先、水の魔人ファゲイトの巨体が近づいてくる。その足元に、何かが走っている。
――通行人か。いや、この一帯はイリスが封鎖したはずだ。
正体を見極めた瞬間、その女はノアの足にしがみついて叫んだ。
「助けてください、お願いします、ノア!」
「――なんでこんな所にいるんだよ、アデリン・ドイル」
泥だらけの元ギルドマスターが、地面に這いつくばって縋りついている。十年間、ノアを見下していた女の、あまりに惨めな姿だった。
戦いの幕が上がる、その一瞬前に。
十年間、誰にも見られなかった男の物語が、ここから大きく動き出す。
湖畔に、静寂が満ちていく。
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