番外EX ギルドサイドの問題
ノアが追放されてから、ギルドでは――。
「おい! もっと早く仕事をしろ! まだまだこっちは山積みなんだぞ!」
「やってます! でも、こんな量を要求されても無理です。人間の許容範囲を超えています!」
事務部の部長が、顔を真っ赤にして怒鳴る。辺りには怒号が響き渡っていた。
「あいつには出来たんだ。ゴミみたいなあいつが出来て、なんでお前らが出来ないんだよ!」
「嘘でしょう!? この量を一人でこなすなんて、絶対に無理です!」
部長は言いかけて、ふと言葉を止めた。
「――いや、待て。あいつは本当に、一人でやってたのか」
◇
誰も気づいていなかった。ノアが十年間、毎日欠かさず記帳していた業務日誌――《ノアの帳面》の存在に。
依頼の受付順、報酬の計算、在庫の出納、苦情の対応履歴。ギルドのあらゆる業務が、あの一冊に集約されていた。ノア自身は、それを特別なものだと思ったことは一度もない。ただの記帳の癖だった。
だが、それがなければ、誰も何をどう処理していいか分からない。
「たかが一人いなくなった程度で、こんなにも回らないなんて。彼は一体、何者だったんだ」
その場には、ノアを追放した怒りと、ノアの仕事ぶりへの困惑が入り混じった、重い空気が漂っていた。
「クソが……全部、あのギルマスのせいだ。あの人が追放したがために、こんな事に……」
「誰のせいで、ギルドがダメになったって?」
「ギルドマスター!? なんでこんな所に」
「中が荒れていると聞いてね。少し、見回りに来たんだよ。それより君、誰のせいでこうなったと?」
アデリンの静かな声が、場の空気を凍らせる。放たれる圧力は、質問というより尋問に近かった。部長の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「もう一度聞くけど。誰のせいだって?」
「ああ、もう……言ってやるよ。お前のせいだ! お前がノアを追放しなければ、こんな事にはならなかった!」
「そうか。なら、出ていけ。私の判断が間違っていると思うなら、出ていけばいい。――いや、今この瞬間をもって、お前を追放する」
アデリンはポケットから一枚の紙を取り出し、それを丸めて部長の額に叩きつけた。
「いてっ……なんだ、この紙――ッ」
そこには、解雇通告と書かれていた。
「いつの間に、こんなものを」
「勘違いしないでほしいんだけど。私は、いつどこで誰が問題を起こしてもいいように、職員全員分の解雇通告書を、あらかじめ用意してあるだけだから」
「――ッ」
その場にいた全員が、同時に悟った。この女は、狂っている。そして、逆らってはいけない相手だと。
「まあ、そういうことで。仕事に戻ろうか」
「……はい」
元部長は膝から崩れ落ち、震えながら床に伏す。すぐさま騎士が駆けつけ、無言のまま連れていった。
十年間、誰にも見られなかった男の帳面が、これほどの重みを持っていたことに、ギルドはようやく気づき始めていた。
◇
事件は、それだけでは終わらなかった。
「大変です! 人事の書類がありません!」
「なんだと。それはつまり」
「はい。個人情報が、外部に流出したということです」
人事のチーフは腕を組み、唸る。
「――この件は、俺たち二人だけの秘密にしよう」
「なぜですか」
「ギルマスの耳に入れば、人事の一斉解雇は免れない。ミスに容赦のない人だ。長年、あの人の下で働いてきた俺だから分かる」
女性職員は、噂の重みに顔を青くした。
「分かりました。隠し通しましょう」
「――何が、いい判断なの?」
「――ッ」
振り返ると、そこには案の定、アデリンが立っていた。
「い、いつからそこに」
「そんなことより。何がいい判断なのか、私にも教えてくれる? ギルドの改善のためにね」
「あなたには関係のないことです」
「つまり君、勤務中に、仕事と関係のないことを考えていたわけだ」
「なっ……それは、言葉の綾で」
「なら、解雇ね。人員なら心配いらないわ。ギルドに入りたい人間は、いくらでもいるもの」
ノアがいなくなったギルドでは、誰もまともな判断を下せなくなっていた。十年間、誰にも見られることのなかった一冊の帳面が、実はこの組織の唯一の骨組みだったのだと、崩壊が始まってから初めて、皆が思い知ることになる。
◇
その夜、閉め切ったギルド本館の最上階で、アデリンは一人、窓の外を眺めていた。王城より二階分高く造られた本館は、彼女の見栄そのものだったが、今はその高さが、ただ虚しく感じられる。
「――ノア・カインズ、か」
呟いた名前には、後悔とも呼べない、もっと乾いた感情が滲んでいた。有能な人材を安売りしたつけが、今、こういう形で回ってきている。
机の上には、山積みの未処理案件。誰が何をどこまで進めたのか、記録する仕組みそのものが、この組織には存在しなかった。
「帳面、ね……」
追放した男が、十年間、誰に頼まれるでもなく続けていた記帳の習慣。それがどれほどの価値を持っていたか、失って初めて分かるとは、皮肉なものだった。
「――まあ、いいわ。今更、戻ってきてくれとは言えないもの」
アデリンは小さく笑い、窓辺を離れた。この崩壊が、いずれもっと大きな監査という形で自分たちに跳ね返ってくることを、彼女はまだ知らない。
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