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第十九話 襲来 蒼き魔人ファゲイト

「あなたは――ギルドマスター!?」


イリスが口を押さえて絶句する。驚いたのはイリスだけではない。ノアも同じだった。


「なんでお前がここに」


「最近ギルドが、って――ぁぁ!」


「話は後だ。ファゲイトを倒してからにしよう」


ファゲイトの足が容赦なく地面を踏み抜く。ノアは軽く地を蹴り、それをかわした。


「そうですわね、ノア様」


「なんでイリス様がノアを様付けで呼んでいるんだぁ!」


「アデリン、うるさい。少し黙ってろ」


「はひぃ!」


ノアはアデリンをセシルの元へ転移させ、意識をファゲイトへ戻す。


「さて、攻略方針だが」


「無策の突撃は避けたいところですわね」


イリスが即答し、大きく息を吸う。


「魔法使い、斉射ですわッ!」


巨大な火球が生成され、ファゲイトへ叩き込まれる。


「ぶぎゃぁぁぁ!」


「汚ぇ悲鳴だな」


「剣士は指示があるまで待機を」


火傷に悶えるファゲイトを横目に、ノアとイリスは即座に作戦を練る。


「どう攻めます、ノア様」


「誰かが陽動して、その隙を突く。単純だが、堅実だと思う」


「賛成ですわ。問題は、誰が囮を務めるか」


「俺だな。俺の転移は――対象の質量に応じてマナを消費する代わりに、動かす速度そのものには上限がない」


「つまり?」


「軽い物なら、ほとんどコストをかけずに、途方もない速度まで加速できるということだ」


  ◇


ノアは足元の石を拾い、ファゲイトへ向けて放った。ただの石ではない。転移の術式で加速された石は、空気を切り裂く速さでファゲイトの肩を掠める。


「鬼さん、こちらッ!」


「グァッ! ギェッ!」


ファゲイトが苛立ちまぎれに氷の矢を連射してくる。ノアは規格外の反応速度で、それをかわし続けた。


「お前、なに喋ってるんだ。笑えてくるな」


「ブェエ! ビゥーラバッ!」


「だから、それがどういう意味かは知らないが、やめろ。笑っちまう」


軽口を叩きながらも、ノアの意識は常に冷静だった。剣士たちがファゲイトの足を斬りつけているが、正直なところ、あの巨体には大した効果はない。それでも彼らが退かないのは、十二年分の意地なのだろう。


「――ッ」


一本の矢が、避けきれない軌道で迫る。だが、避ける必要はなかった。


「熱と衝撃の壁――インパクトウォール」


ノアが編み出した独自の応用術式。軽微な質量の空気の層だけを転移させ続けることで、自分の周囲に圧縮された空気の壁を作り出す。動かす対象が極めて軽いため、消費マナは驚くほど小さい。理屈は、荷運びとまったく同じだった。


轟音とともに、氷の矢が空気の壁に弾かれる。地面が抉れ、湖の水が空高く舞い上がった。


「あぶねぇ。だが、悪くない威力だな」


「あまり乱発するのは危険かもしれないな、これ」


「ギラァ! ブラァッド!」


八本の腕を持つファゲイトの拳が、次々と繰り出される。


「手加減してんだ。感謝しろよ」


石を心臓に転移させれば一瞬で終わる戦いだ。だが、それでは復讐に燃える者たちの気が済まないだろう。ノアはあえて、その手を使わない。


「放ってくださいまし!」


再びイリスの号令で火球が撃ち込まれる。


「決まりましたわ! ノア様、トドメを!」


「トドメって、雑な指示だな。――喰らえ」


地を蹴り、跳躍する。加速された拳がファゲイトの上体を捉えた瞬間、巨体が大きく吹き飛んだ。


「――なんとか、勝ったな」


「はい! 流石ですわ、ノア様! 最後の一撃、私の心すら撃ち抜きましたわ」


「お前はいつも撃ち抜かれてるだろ」


「そうでしたわね」


  ◇


「それにしても、勝ったっていうのに、歓声が薄いな」


「たぶん、勝った喜びより、驚きの方が大きいんですわ」


「何の話だ」


「ノア様が、単独で魔人を仕留めたことにですわ」


「いや、俺はみんなの力あってだな」


「あの戦い方を見て、チームの勝利だと言える人がいたら見てみたいですわ。あの程度の援護で助けたなんて、恥ずかしくて言えませんもの」


「マジでそんな感じ?」


「そんな感じですわ」


十年、誰にも見られなかった力が、今、隠しようもなく明らかになっている。転移させれば攻撃は必ず当たり、転移させればどんな攻撃も避けられる。――冷静に考えると、とんでもない反則だった。


「やっと自分の強さに気づいたようですわね」


「ああ、なんとなく分かってきた気がする」


イリスは満足げに頷くと、討伐隊に向き直った。


「ノア様のお力により、この戦い、私たちの勝利ですわ!」


「うおおおッ!」


歓声が上がる中、ノアは苦笑いでため息をついた。


  ◇


戦いが終わり、ノアはアデリンと向き合っていた。


「助けてください、ノア様! なんでもしますから!」


「どうします、このメス豚」


セシルが冷たく問う。


「難しい質問だな。こいつには、理不尽に俺を追放したという前科がある」


「それは、本当にごめんなさい! あなたがここまで必要な人だと、気づかなくて」


土下座するアデリンに、ノアは腕を組んで黙り込む。助けるか見捨てるかではなく、どう落とし前をつけさせるかを考えていた。


「そういえば、ノア様は今、なんでも屋を営んでいらっしゃるとか」


「ああ、それがどうした」


「私もその従業員に――」


「その先を言うなら容赦しないぞ」


低い声に、アデリンは口をつぐんだ。だが、すぐにまた別の懇願を持ち出す。


「――帳面を、返してください」


「は?」


「ギルドが回らないんです。あなたの帳面がないと、誰が何をどう処理したのか、誰にも分からない。お願いします、あれさえあれば」


その言葉に、ノアは初めて、心の底から笑った。


「――これは、俺の十年だ」


「え」


「十年間、誰にも見られず、誰にも褒められず、それでも続けてきた記録だ。お前らの都合で、渡してやるようなものじゃない」


「あなたの転移魔法が必要なんです。荷物運びの雑用魔法だなんて言って、本当にごめんなさい。あれは世界一の魔法です。だから――」


「今更気づいても、もう遅いんだよ」


「さようなら、ギルドマスター。いや――アデリン・ドイル」


短く言い放ち、ノアはイリスとセシルを連れて馬に乗った。


「ノア・カインズぅぅぅ!」


背後で響く叫びを置き去りに、三人は湖畔を後にする。十年間、誰にも見られなかった男の帳面は、これからも彼だけのものだった。


  ◇


湖畔から離れ、しばらく進んだところで、イリスがぽつりと呟いた。


「――帳面のこと、聞いてもよろしいですの?」


「なんだ」


「そんなに大事なものだったんですか。あの、ただの業務日誌が」


ノアは少し考えてから答えた。


「十年間、誰も俺のことなんて見てなかった。仕事ぶりも、努力も、何一つ。だけど、あの帳面にだけは、全部書いてきた。依頼の数、こなした仕事、誰にどれだけ助けを求められたか」


「――それは」


「誰にも見せるつもりのない記録だったんだよ。それを今更、都合よく寄越せって言われてもな」


セシルが静かに口を挟んだ。


「ノアさんにとっては、日記みたいなものだったんですね」


「まあ、そんなところだ」


十年分の孤独と、十年分の積み重ね。その両方が、あの一冊には詰まっている。誰にも渡せるはずがなかった。


  ◇


夜、野営地に着くと、遠くに小さな焚き火が見えた。討伐隊の生き残りたちが、勝利を祝って酒を酌み交わしている。


「ノア様、行かないんですの?」


「疲れた。今日はもう休む」


「らしくないですわね」


「らしいって何だよ」


軽口を交わしながらも、ノアの意識はどこか上の空だった。ファゲイトとの戦いよりも、アデリンの最後の言葉の方が、なぜか頭に残っている。


――あれは世界一の魔法です。


十年間、誰にも言われたことのなかった評価を、よりによって、あの女の口から聞かされる羽目になった。皮肉なものだと、ノアは小さく笑った。


「――ま、いい気分ではないな」


「複雑ですのね」


「複雑だよ、まったく」


帳面を懐から取り出し、今日の出来事を一行だけ書き足す。討伐完了、報酬・トガク山、ギルドマスターとの決別。


十年間、誰にも見られなかった男の物語は、ここでまた一つ、区切りを迎えた。だが、終わりではない。むしろ、これからが本番だった。


夜空の下、湖の方角から、まだ微かな水音が聞こえていた。


ノアはそっと目を閉じた。

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