第十二話 今日も今日とて傭兵依頼
「あ、いらっしゃいませー」
そんな悠長な台詞は、目の前の女性を見た瞬間に引っ込んだ。
土下座。土埃。震える肩。
「娘二人が、誘拐されて奴隷にされそうなんです。代金はいくらでも払います、ですから今すぐ助けてください!」
耳の形が長い。エルフ族だ。それも、種族的に地位の高い者特有の、意匠を凝らした耳飾りをつけている。そんな女性が、なりふり構わず街中を走ってきたのだ。
「つまり、俺たちを傭兵として雇いたいと」
「はい、そうです」
「そうかぁ」
ノアは左手で顎をさすった。二日連続で傭兵仕事が入るのは珍しい。だが――娘二人の命がかかっているなら、悩む理由はどこにもなかった。
「依頼、受けよう」
《ノアの帳面》に、また一行が増える。依頼人の名、依頼内容、報酬の有無。十年間、誰にも見られずに続けてきた記帳の癖は、ギルドを追放されてもなお抜けない。
「名前は」
「ファランと申します。娘の名はリセルとノエル」
「――ファラン、か」
覚えておく。名も、顔も、声の震え方も。
◇
《転移》には掟がある。視認せしもの、触れしもののみ。編む一瞬の静寂。命は、己と、心許した者のみ。
娘たちが囚われている場所を、ノアはまだ見ていない。ならば先に済ませることが一つある。
「下拵えだ」
倉庫の壁、路地の角、水場の桶。事前に触れて回った物すべてが、ノアにとっての足場になる。地味で、誰にも褒められない仕事だった。十年間、誰にも見られなかった仕事と、同じように。
「イリスさん、報酬の内訳は」
「はい、成功報酬が金貨二枚、経費が別途――と言いたいところですけど、今回は経費ゼロですわ! わたくし、値切りには定評がありますの!」
「即席立法やめろ」
契約書はまだ白紙だ。イリスが勝手に条文を作り出す前に、ノアは紙を取り上げた。
「セシルは待機。何かあったら回復を頼む」
「はい、ノアさん」
セシルの声には、いつもの静けさがある。人身売買の過去を持つ彼女にとって、この依頼は他人事ではないのだろう。ノアはそれを、あえて口にしなかった。
◇
奴隷商人のアジトは、エッダの丘の裏手にあった。見張りは三人。ノアはすでに、その全員の靴底に触れている。
「――行くぞ」
視界に入れた瞬間、景色が切り替わる。空間を編む、たった一瞬の静寂。
見張りが振り向くより早く、ノアは娘二人の前に立っていた。
「遅くなってすまない」
「な――!?」
驚愕する商人たちの声を背に、ノアはリセルとノエルの手を取った。触れたものだけを連れて還る。それがルールだ。
もう一度、静寂を編む。
◇
「――ありがとうございます、ありがとうございます」
ファランは娘二人を抱きしめ、何度も頭を下げた。ノアはそれを、居心地悪そうに眺めている。
「礼はいらない。依頼を受けたのは俺だ」
「せめてお名前を」
「ノア・カインズ」
「カインズ様……このご恩は、エルフの里も忘れません」
大げさな、とノアは思ったが、口にはしなかった。十年、誰にも見られなかった男が、初めて名を覚えられていく。それが、まだ少し落ち着かない。
帳面に、最後の一行を書き足す。依頼完了、報酬受領、被害者無事。
「――さて、次の依頼は何だ」
ページをめくる指先に、迷いはなかった。誰にも見られなかった十年は、もう終わっている。
◇
ギルドの受付に戻ると、イリスがすでに書類の束を積んでいた。
「報告書、明日までに出せばいいんですわよね?」
「今日中に頼む」
「ひどいですわ!」
軽口の応酬は、いつもの温度に戻っていく。だがノアの意識の隅では、別のことが引っかかっていた。エルフの里が、地位の高い者を単身で街に走らせるほどの誘拐事件。奴隷商人にしては、動きが妙に手慣れていた。
「セシル、商人の中に見覚えのある顔は」
「……いいえ、初めて見る顔ばかりでした」
セシルの答えは短い。だが、その短さの中に、微かな緊張が滲んでいた。
「そうか」
深追いはしない。今はまだ。
窓の外、エッダの丘の稜線に、夕陽が沈みかけている。十年、誰にも見られなかった男の帳面には、今日もまた新しい依頼が刻まれていく。
――この街には、まだ知らない影がある。
そんな予感だけを胸に、ノアは帳面を閉じた。
◇
その夜遅く、宿舎の食卓にはまだ灯りが点いていた。イリスが報告書をまとめ、セシルがお茶を淹れる。いつもの光景だが、今日はどこか静かだった。
「ノアさん、今日の依頼、少し引っかかることがあります」
セシルが湯気の立つカップを置きながら言う。
「奴隷商人の手際のことか」
「はい。……素人の仕事には見えませんでした。道具も、逃走経路の準備も、慣れた者のやり口です」
セシルの言葉には、かつて同じ被害に遭った者にしか分からない重みがあった。ノアは黙って耳を傾ける。
「イリスさん、王都で最近、似たような事件はあったか」
「調べてみますわ。……でも、こういう時に限って、資料がやたら整理されてますのよね。誰かが先回りして片付けたみたいに」
イリスの声色が、珍しく真剣だった。数字と交渉にしか興味がないような彼女も、危機を嗅ぎ分ける嗅覚だけは鋭い。
「大げさに考えすぎかもしれないがな」
そう言いながらも、ノアは帳面を開き、余白に一言だけ書き添えた。奴隷商人、手口不審、要注意。
十年間、誰にも見られなかった男の記録は、今、街の裏側にまで及び始めている。
◇
「――ま、考えすぎで済むならそれでいい」
ノアは帳面を閉じ、椅子の背にもたれた。窓の外、エッダの丘の稜線に月が昇っている。
明日もまた、依頼が待っている。何が来るかは分からない。それでも、この賑やかな食卓に戻ってこられるなら、大抵のことは乗り越えられる気がした。
そんな予感だけを胸に、ノアは静かに目を閉じた。
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