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苔むす月の岩戸  作者: 小埜えりこ


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9/22

岸を離れる

月曜の昼下がり、郷ノ浦港の待合所は思ったより混んでいた。


 連休の最終日、本土に戻る観光客と島から仕事に戻る人たちで、椅子はほとんど埋まっている。


 徹也くんは車を停める場所を探しに一度離れて永和は先にリュックを抱えて待合所の隅の席を確保していた。


 胸元のポケットには小さな布袋。


 姫様は朝からずっと静かだった。


「姫様、暑くない?」


 ――問題ない


「あと少しで船やけんね」


 ――うむ


 永和は膝の上でリュックを抱え直した。


自動販売機で買った麦茶のペットボトルが、掌の中でじんわり冷たい。


 窓の外、係留されているフェリーが夏の光を反射していた。


 しばらくして徹也くんが戻ってきた。


「駐車、やっちゃ混んどった。ぎりぎりやった」


「お疲れ。座って」


 徹也くんが隣に腰を下ろす。


片手にペットボトルの水、もう片手にお土産の紙袋を持っていた。


「これ、婆ちゃんに。贅沢生うにの瓶詰め、やっちゃ旨かけん!」


「うちのお母さんは?」


「和紗にはこっち。かすまきと圭ちゃんの酒のアテ、壱岐の烏賊も絶品ぞ」


「うわ……お父さんの方が豪華」


 徹也くんは、少しだけ嬉しそうに笑った。


「三日、あっという間やったな」


「ほんとよ。また来る」


「うん、いつでん来んね」


 永和は麦茶を一口飲んで窓の外に目をやった。


 姫様は、ずっと静かだった。


けれど、静かなだけで気配は確かにそこに在った。


 アナウンスが流れた。


「まもなく博多行き、ご乗船いただけます」


 人の流れが動き始める。


「徹也くん、また電話するね」


「うん、気ぃ付けて帰らんね」


 徹也くんが軽く手を叩いてくれる。


永和はリュックを背負い直して乗船口へ向かう列に加わった。


 その時だった。


 人混みの中、すれ違いざまに空気が変わった。


 永和は、はっきりとは分からなかった。


ただ、足元が一瞬だけしん、とした。


夏の日差しも待合所のざわめきも遠くの汽笛も全部そこだけが抜け落ちたような。


 一人の男が永和の左側を通り過ぎた。


 白い麻のシャツ、細身、年の頃は分からない。


陽に灼けていない肌、影のように涼しげな目元。


島の人にも観光客にも見えない、けれどそこに居ることに不自然さが無い人。


 男は永和の方をちらとも見なかった。


 ただ通り過ぎ様に口の中でだけ呟いた。


 ――動かぬはずの、そなたが


 永和の耳には、その声は届いていなかった。


届いていなかった筈だ。


けれど確かに、その言葉が胸元のポケットの奥に落ちた気がした。


 永和は思わず足を止めて振り返った。


 男の姿は、もう人混みに紛れていた。


どこにも見当たらなかった。


「永和?」


 徹也くんの声が背中から聞こえて永和は我に返った。


「あ、ううん、なんでもない」


「早う乗らんぎ」


「うん」


 永和は乗船口へ足を向けた。


けれど胸元のポケットの中の石が今までにない冷たさを持っていた。


 布袋の上からそっと押さえる。


「姫様、大丈夫?」


 姫様は、答えなかった。


「姫様?」


少しの沈黙の後、掌の中に微かに声が届いた。


 ――……乗るがよい


「あの人、誰?」


 ――……


「姫様」


 ――……今は、良い 


永和は、それ以上聞かなかった。


姫様の声には初めて聞く種類の緊張が混じっていた。


 フェリーの甲板に上がると島から離れていく郷ノ浦港が見えた。


 徹也くんが小さくなっていく。


永和は手を振った。


徹也くんも手を振り返してくれた。


 汽笛が鳴った。

船が、ゆっくりと動き出す。


 永和は甲板の手すりに掴まって遠ざかる島を見ていた。


 風が髪を撫でていく。


夏の光が海に散っていた。


 なのに掌の中の石は、まだ冷たかった。


 しばらくして姫様が、ぽつりと言った。


 ――永和


「うん」


 ――先程の者の事、忘れてよい


「忘れて良いの?」


 ――……忘れて良い訳ではない。だが今は思い出さぬ方が良い


「……分かった」


 永和は、それ以上は聞かなかった。


姫様が「今は」と言う時は、いつかは話すという意味だと、なんとなく分かっていた。


 海の音だけが、ずっと聞こえていた。


 島は少しずつ遠くなっていく。


 ――動かぬはずの、そなたが 

 

あの声だけが永和の耳の奥に確かに残っていた。


2026.7.26

壱岐編終了です。

次は第三話にあたるエピソードに

なります。

新しい登場人物、勘の良い方は

きっとお判りですね。

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