訪う者(おとなうもの)
夜の岩戸は、深く静かだった。
昼間、木洩れ日を通して緑に光っていた水面は月の光を受けて鏡のように黒く澄んでいた。
風はほとんど無い。
時折、洞の奥から零れ落ちる雫の音だけが水面に小さな輪を作っていた。
――
その気配は風もなく足音もなく、ただそこに在った。
水辺に、一人の男が立っていた。
纏う衣は、月光そのものを織り上げたような静かな光を帯びていた。
細身の姿は闇の中でも影を持たなかった。
男は水面を見下ろしていた。
月光が男の輪郭を柔らかく縁取り、水面と同じ色をしていた。
――そなたか
水の底から岩永姫の声が上がった。
驚きは無かった。
まるで来ることを知っていたような静かな響き。
男は、水面から目を上げなかった。
――久しいな、岩戸の姫
――久しい、というほどでもあるまい。月讀
岩永姫の声は、いつもと同じ深く落ち着いた響きだった。
けれど、その底に普段には無い硬さがあった。
月讀は、水辺にゆっくりと腰を下ろした。
その動きに音は無かった。
水面が微かに揺れた。
――動かぬはずの、そなたが壱岐の岸に居った
――……
――なぜだ
岩永姫は、すぐには答えなかった。
水の底で、月光がゆっくりと揺れていた。
――我が動いたのではない、分けた
――分けた
――我が身の欠片を、あの娘に持たせた
月讀は初めて顔を上げた。
水面に映る月と岩永姫の気配の在る場所を静かに見比べる。
――欠片で、そこまで動けるのか
――動けた
――……ふむ
月讀の声には感嘆も驚きも無かった。
ただ、知らぬ事を知った、という静かな受け止めがあった。
少しの沈黙の後、月讀が続けた。
――あの娘は何者だ
水面が一瞬だけ、しん、と静まった。
――……人の子じゃ
――それは見れば分かる
――……
――なぜ、そなたが関わる
岩永姫は答えなかった。
月讀は、それ以上は問わなかった。
水面の月光だけが、ゆっくりと揺れていた。
しばらくの後、岩永姫が静かに言った。
――あの娘は我が選んだ
――……ほう
――それだけじゃ
月讀の目が微かに細くなった。
感情ではなかった。
興味だった。
――岩戸の姫
――なんじゃ
――そなたが自ら人に関わったのは初めてか
岩永姫は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
――……そうか
月讀は水面に視線を戻した。
月光が水の底まで届かず途中で揺れて散っていた。
――我には分からぬ
月讀の声は、静かで、澄んでいた。
――神が自ら人に関わる意味が、我には分からぬ
――……
――それゆえに知りたい
その時、岩永姫の気配が動いた。
水面が風もないのに僅かに波立った。
洞の奥から流れる空気が一瞬だけ冷たくなった。
――月讀
――……
――あの娘には触れるな
岩永姫の声は、いつもと同じ静けさだった。
けれど、その一言の底に神格の重みがあった。
月讀は、水面から目を上げなかった。
――……
――知りたければ我に問え。あの娘は、そなたの興味の対象ではない
しばしの沈黙。
月讀が、ゆっくりと頷いた。
――……承知した
水面が、また静かに戻った。
岩永姫の気配も、元の落ち着きに戻った。
――岩戸の姫
――なんじゃ
――そなたが、そこまで言うか
月讀の声には初めて微かな揺らぎがあった。
驚きではない。
理解しようとする者の静かな戸惑い。
――……そうじゃ
――……ふむ
月讀は、しばらく黙って水面を見ていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がった。
その動きも、音を持たなかった。
――今宵は、これで戻る
――うむ
――だが岩戸の姫
月讀は初めて姫様の気配の在る方を真っ直ぐに見た。
――我は、まだ知らぬままじゃ
――……
――また来る
岩永姫は答えなかった。
水面の月光が、ゆっくりと揺れていた。
月讀の姿が月光に溶けるように消えた。
風もなく音もなく、ただそこに居なくなった。
岩戸の奥に、また雫の音だけが残った。
岩永姫は、しばらく水の底で動かなかった。
やがて深く静かに息を吐いた。
水面が、その息に合わせて微かに揺れた。
月光は、まだ揺れていた。
夜は、まだ長かった。
2026.7.27
第三話始まりました。
月詠様、初登場でございます
姫様、独占欲かしら?
月詠様が永和に興味を持ったら
水がブリザード化しましたけど……




