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苔むす月の岩戸  作者: 小埜えりこ


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11/18

風鈴ひとつ

博多港からの高速バスは、ちょうど夕方の便に間に合った。


 諫早駅で妹の車に拾ってもらい島原の家に着いた頃には辺りはもう薄暗くなり始めていた。


「ただいまー」


「おかえり」


 母の和紗は台所で夕飯の支度をしていた。


 永和はリュックを廊下に下ろして玄関の三和土に座り込んだ。


「疲れた?」


「うん、ちょっと」


「フェリー、揺れんかった?」


「揺れんかった」


 和紗は、それ以上は聞かなかった。


 永和もそれ以上は言わなかった。


 これが、うちの母娘のいつもの距離感だった。


 夕飯を済ませて風呂に入って部屋に戻った頃にはもう九時を過ぎていた。


 永和はリュックからお土産の紙袋を取り出した。


 徹也くんが持たせてくれた婆ちゃんの分と母の分。


 和紗の分は居間の座卓に置いてきた。


「お父さんに」と言って渡すと和紗は「相変わらずやね」と笑っていた。


 婆ちゃんの分は明日渡しに行こう、と思った。


 徹也くんから預かった生うにの瓶詰めは婆ちゃんの喜ぶ顔が目に浮かぶ。


 永和は机の上の小さな器に手を伸ばした。


 姫様の石を入れておく、いつもの場所。


 布袋から石を取り出して器にそっと置いた。


「姫様、ただいま」


 ――……うむ


姫様の声は、いつもと同じ穏やかな響きだった。


 けれど、ほんの少しだけ、いつもより短かった。


 永和は、それに気付かないふりをした。


 旅の疲れかもしれない、と思うことにした。


 翌朝、永和は婆ちゃんの家に土産を持って行った。


 徒歩五分の距離。


 朝の空気は島から帰ってきた後だと少しだけ違って感じた。


「婆ちゃん、これ徹也くんから」


「そがん、気ぃ遣わんで良かとにねぇ……」


婆ちゃんは玄関先で紙袋を受け取って中を覗き込んだ。


「あら、贅沢生うにやなかね」


「うん、徹也くんが婆ちゃんにって」


「あの子は、ほんとに気ぃ利くね」


「ね」


 婆ちゃんは嬉しそうに笑って永和を玄関に上げようとした。


 永和は「用事あるけん、また来る」と婆ちゃんに手を振った。


 帰り道、朝の日差しが少しずつ強くなり始めていた。


 胸元のポケットには姫様の石。


「姫様、婆ちゃん喜んでたよ」


 ――……そうか


「徹也くんもね、いつでも来いって」


 ――……うむ


 永和は、ゆっくりと歩いた。


 道は同じ道なのに島から帰ってきてから、なんとなく歩幅が違う気がした。


 昼過ぎ、永和は洗濯物を干しに縁側へ出た。


 姫様の石は、いつも通り机の上の器の中。


 窓越しに姫様にも日差しが届くようにしていた。


 永和は洗濯物を一枚ずつ広げて竿に掛けていく。


 風がゆっくりと物干し竿を揺らして洗濯物が緩やかに揺れた。


 ふと、部屋の中を振り返った。


 姫様の石は日差しの中で、いつも通り静かに座っていた。


「姫様、今日は暑くなりそうやね」


 ――うむ


「水、多めに用意しとこうか」


 ――……気遣い、感謝する


 永和は少しだけ手を止めた。


 姫様が「感謝する」と言うのは初めてじゃない。


 でも、今日のその言葉には少しだけ距離があった。


 いつもの姫様の包み込むような穏やかさではなく、丁寧な礼のような響き。


 永和は洗濯物を掛ける手を、また動かした。


「……姫様?」


 ――なんじゃ


「なんでもない」


 永和は、それ以上は聞かなかった。


 姫様も、それ以上は言わなかった。


 風が、また竿を揺らして洗濯物が緩やかに揺れた。


 夕方、永和は縁側に腰を下ろして庭を眺めていた。


 姫様の石を掌に乗せて。


 夕焼けが庭の紫陽花を染めていた。


 もう梅雨も明けて紫陽花は色が少し褪せ始めていた。


「姫様」


 ――なんじゃ


「壱岐、疲れた?」


 姫様は、少しの間、答えなかった。


 ――……疲れた、というわけではない


「ならいいけど」


――…… 


永和は姫様の石を、そっと掌の中で転がした。

 石は、いつも通りの温度だった。


 でも、なんとなく姫様がいつもより遠くに居る気がした。


 永和は、それを口には出さなかった。


 夕焼けが少しずつ紫に沈んでいく。


 庭の隅で風鈴が一度だけ、りん、と鳴った。




2026.7.31

熊本の地震、犠牲になった方の

御冥福をお祈りするとともに

早い復興を願っております。

私が住んでいる島原も

対岸なので揺れています。

ライフラインに影響はないものの

井戸水は濁りましたね……

小説どころではなかったのだけれど

ぼちぼち進めていきたいと思います。



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