島の風
朝、郷ノ浦港のレンタサイクル受付は、まだ人も少なかった。
徹也くんが手続きを済ませてくれる横で、永和は借りる自転車を眺めていた。
「電動やけん、坂も楽たい」
「電動……? やっちゃ、良か!」
「島は坂ばっかりやけんね。普通のチャリやったら、初日でへばるとよ」
徹也くんが軽く笑いながら鍵を渡してくれる。
「気ぃ付けてな。夕方には戻って来んねよ」
「うん、ありがと」
永和はサドルに跨りハンドルの脇にあるスイッチを軽く押した。
表示が緑に灯る。
そっとペダルを踏むと思ったより滑らかに車体が前に出た。
「……お、おぉ」
永和は一度だけ振り返って徹也くんに手を振り道へ出た。
胸元のポケットは少し膨らんでいる。
今日は小さな布袋に石を入れて口を軽く縛ってあった。
姫様が動きに合わせて揺れすぎないように、永和なりに考えた工夫だった。
風が正面から吹いてくる。
朝の空気、少しだけ湿っていて青い匂いがした。
「姫様、大丈夫? 揺れる?」
――問題ない
「電動やけん、坂も楽かとよ」
――ふむ
永和はハンドルを軽く握り直して島の中を北へ向かう国道に入った。
道は緩やかに登ったり下ったりしながら、島の内側を貫いていく。
両側には田んぼと低い山。
時折、集落の中を通り抜けると家の軒先で花が揺れていた。
電動の力は坂に差し掛かると自然に強くなる感じで永和の脚はほとんど疲れなかった。
スイスイ進む。
――永和
「うん?」
――疲れは、無いのか
「平気! 平気! 電動やけん」
――でんどう
「うん、電気で動くとよ。ペダル漕ぐと機械が力を足してくれるっちゃんね」
――ふむ……
少しの沈黙。
――凄いな……
永和は思わず少し口元を緩めた。
姫様の「凄いな」は感嘆というより理を受け止めているような響きだった。
不思議がるでもなく驚くでもなく、ただそういう物なのか、と静かに納得している。
「便利な世の中よ、今は」
――そのようじゃ
風が、また正面から吹いてきた。
しばらく走ると道が下りに変わって右手の景色が開けた。
島の東側の海が木々の切れ間から、ちらちらと見え始める。
もう少し進むと、道は海沿いに出た。
永和は自転車を止めて、ガードレールの脇に寄せた。
「姫様、海」
――……
姫様の返事は無かった。
でも、布袋の中の石が少しだけ温かくなった気がした。
永和は袋の口を緩めて掌に石を移した。
朝の光を、石の表面が受け止める。
――広いな
「うん、広い」
――どこまで続いておる
「私も、どこまでかは分からんとよ」
――……
姫様は、それきりまた黙った。
海の音だけが、ずっと聞こえていた。
自転車に戻って、また走り出す。
海沿いの道は少し狭くて対向車が来る度に一度端に寄せる。
それでも車は少なかった。
時折、地元の軽トラや観光客らしいレンタカーが通り過ぎるだけ。
少し進むと道の左手、木々の向こうに遠く鳥居が見えた。
永和は自然と自転車の速度を落とした。
――……
姫様が初めて気配を潜めた気がした。
永和にははっきりとは分からない。
けれど掌の中の石が、しんと静かになった。
「……あれ、月讀神社ってやつやろか」
――……
姫様は、答えなかった。
永和も、それ以上は聞かなかった。
鳥居は遠く、木々の隙間から一瞬だけ見えて、また隠れた。
道はそのまま鳥居からは離れる方向へと続いていく。
永和は少しだけペダルを踏む足に力を入れた。
自転車が、ゆっくりと前に進む。
そのまま、その場所を通り過ぎた。
しばらく走って道が上りに変わった頃、姫様の気配が戻った。
――永和
「うん?」
――先の場所、近付かぬ方が良い
「……そうなん?」
――理由は、まだ言えぬ
「うん、分かった」
永和は深く聞かなかった。
姫様が「言えぬ」と言う時は、いつも言わない事に意味がある。
それを踏み込んで聞くのは失礼な気がした。
「……何かあったら、教えてね」
――うむ
ペダルを踏む。
道は緩やかに南へと向かい始めていた。
岳の辻の展望台は思っていたより静かだった。
自転車を停めて少し歩いて登ると視界が一気に開けた。
壱岐の島全体が足の下に広がっている。
遠くに海、その向こうにうっすらと霞む陸地。
対馬か、九州本土か永和には分からなかった。
風が、頬を撫でていく。
「……綺麗かね」
――こんな彩……我は初めてみた
姫様の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
永和は展望台の柵にもたれて、しばらく黙って景色を見ていた。
掌の中の石が、じんわりと温かい。
姫様も静かに同じ景色を見ているのだと思った。
――永和
「うん」
――外というのは、こういう場所か
「うん……こういう場所」
――そうか
姫様は、それだけ言って、また黙った。
風が、また頬を撫でて通り過ぎた。
島の緑が光を受けて揺れていた。
帰り道は下り基調で楽だった。
電動のアシストを弱めにしても自転車は勝手に進んでくれる。
永和は風を受けながら少しだけ鼻歌を歌った。
――永和
「うん?」
――そなたは、良い声じゃ
「え、うそ、下手やろ」
――我には心地良い
永和は思わず笑った。
少しだけ、自転車の速度を上げた。
夕方の光が、道の先で待っていた。
2026.7.26
壱岐編、次がラストです。
永和と姫様の距離を縮めたい
第二話でしたが
そろそろ次に続く不穏を
出したいと思います。




