外の水
早朝の博多港は、もう夏の匂いがしていた。
永和は大きなリュックを背負い直しながら、フェリー乗り場の待合室を見渡した。土曜の朝だからか、家族連れや釣り客、地元の人らしいお年寄りで、席はほとんど埋まっている。
「壱岐・郷ノ浦港行き、まもなくご乗船いただけます」
アナウンスが流れて、人々がゆっくりと動き出す。永和もリュックの肩紐を握り直し、乗船口へ向かった。
胸元のポケットには、小さな石のかけら。
姫様が――これで良いと選んだ、ただの平たい石。
でも、確かにそこに気配があった。
「……揺れるかな」
小さく呟くと、ポケットの奥から返事があった。
――船とやらに乗るのは初めてじゃ
声にならない声
永和にだけ届く声
姫様の言葉には、ほんの少しだけ子供みたいな響きが混じっていた。
永和は思わず口元を緩めた。
「大丈夫、揺れても落ちんごとしとくけん」
――よろしく頼む
乗船して二階のデッキに近い席に座った
窓の外には、まだ動き出す前の港の景色
クレーンや係留された船、遠くに霞む陸地
ぼう、と汽笛が鳴った
船体が、ゆっくりと岸を離れる……
――動いた
姫様の声が、いつもより少しだけ高い。
「動いたよ。今から海の上」
――海……
永和は、そっとポケットから石を取り出して掌に乗せた。窓際に寄せて外が見えるようにする。
朝の光を受けて、海がきらきらと揺れていた。
姫様は、しばらく黙っていた。
ずっと黙っていた。
「姫様?」
永和が小さく呼びかけると、ようやく返事があった。
――これが、外の水か
声が、震えていた気がした。
喜びなのか驚きなのか、それとももっと別のものなのか……永和には分からなかった。
ただ、それがとても大切な瞬間なのだということは、なんとなく分かった。
「うん。ずーっと続いとる。この先も、そのまた先も」
――終わりは、あるのか
「あるっちゃあるけど、ちょっとやそっとじゃ行き着かんよ」
――そうか
姫様は、それきりまた黙った。
永和も、それ以上は話しかけなかった。
海が、静かに窓の外を流れていく。
どのくらい経った頃だろう。
船内アナウンスが「まもなく郷ノ浦港に到着します」と告げた頃、姫様がぽつりと言った。
――永和
「うん?」
――そなたに、礼を言うておらなんだな
「え、何が」
――我を、連れて出てくれた事
永和は、ちょっと困った。
礼を言われるようなことをした覚えはなかった。ただ、姫様を家に置いて行くのが、なんとなく落ち着かなかっただけだ。それは連れて行きたかったというよりは、離れたくなかったの方が近い気がした。
「別に……。私も、居らんと寂しいけん」
――そうか
姫様の声が、少しだけ笑ったように聞こえた。
汽笛が、また鳴った。
窓の外に、郷ノ浦港の岸壁が近付いていた。
徹也くんが港の待合所の前で手を振っていた。
日焼けした顔、某スポーツメーカーのTシャツ、下はジャージにサンダル……ちょっと出てくるといった感じの格好だ。
徹也くんは養護学校の先生で去年から壱岐に赴任している。
「永和ー!こっちこっち!」
「徹也くん、二ヶ月振り位?」
「永和、入院しとったけんな〜」
「ほんてよ……一時はどがんなるかて思った」
「元気になって良かったたい!」
「日頃の行いの良かけんね」
「神様はよう見とらすたい」
徹也くんは、ふわっと笑って車の助手席のドアを開けてくれた。
永和はリュックを膝に抱えて助手席に座った。
胸元のポケットの石が、ほんの少しだけ温かかった。
徹也くんがエンジンをかけた。
窓の外を、島の景色が流れていく。
姫様は、何も言わなかった。
ただ、静かに、外を見ていた。
……ような気が、した。
2026.07.21
姫様のはじめてのおつか……いえ
外の世界です。永和と出会わなければ
見る事もなかった景色。
姫様にはどう映るのでしょうね……




