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苔むす月の岩戸  作者: 小埜えりこ


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5/21

お使いの帰り道

「永和ー! ちょっと天坂の婆んチにコレ持って行って。頼まれちょった化粧品、3000円貰ってきて」


 休日の午前、母はバタバタしている。

 痴呆症を患った皆川の祖母のお世話に行くのだろう。


 天坂は母の旧姓。

 母方の祖父母は近くに住んでいて、父方の祖父母の家は車で10分ほどの距離だ。


「はいはい、行ってくる」


 永和は化粧品の入った紙袋を受け取って、玄関で靴を突っかけた。


 外は思ったより日差しが強い。

 もう梅雨も明けかけているのかもしれない。



 徒歩五分の距離だ。すぐに天坂の家の門が見えてくる。

 庭先で祖父が植え込みを鋏で整えていた。


「爺〜! 婆ちゃんおる?」


 声をかけると、祖父は顔を上げないまま返した。


「中におる。台所におるっちゃなかとか」

「ん、了解」


 それ以上のやり取りはなかった。

 祖父はまた植え込みに向き直り、鋏を鳴らしている。


 永和は庭を回り込んで、玄関ではなく縁側の方から声をかけた。


「婆ちゃん、化粧品持ってきたよー」

「あら、永和。上がらんね」


 台所からの声に呼ばれて、永和はサンダルを脱いだ。


 久しぶりでもない祖母の家の匂いがした。

 畳と、少しの線香と、麦茶。


 台所に入ると、祖母は湯呑みを二つ用意していた。永和が来ることを見越して、母から連絡が入っていたのだろう。


「はい、これ。頼まれとったやつ」

「ああ、ありがとうねえ。助かるわ。──ちょっと待っちょって、お金ば」


 祖母は財布を引き出しから取り出しながら、湯呑みを永和のほうへ滑らせた。


「早よ、座らんね。冷たかお茶入れたけん」


 永和はありがたく座った。

 祖父はまだ庭にいる。窓の外で、鋏の音が規則正しく続いている。


 永和はふと湯呑みを両手で持ちながら、思い出したように聞いた。


 徹也とは母の兄で、永和にとっての叔父にあたる。母が若い頃、従兄弟に「叔母さん」と呼ばれるのを嫌がって「和ちゃんて呼んで」と言い出したのがきっかけで、いつの間にか家族全体が名前呼びになった。今では立派な叔父さん、叔母さんじゃんと思ってはいるけれど、口には出さない。


「そういえば、徹也くん、今月帰ってくると?」


 祖母は財布から札を数えていた手を止めて、少し首を傾げた。


「今月はもう来たよ。何か月末は恩師が壱岐に訪ねてくるらしかけん、来んって」


「あー、そうなん」


 永和は湯呑みに口をつけかけて、止めた。


 なんとなく、間があいた。


「……ばあちゃん」


「なんね?」


「あたし、お見舞いばだいぶ包んでくれとったやん、徹也くん」


「そがんね」


「お礼、まだ電話しかしとらんとよ」


「電話はしたとやろもん。徹也もそがんと気にせんが」


「……ばってさ」


 祖母は札を数え終えて、永和の前にトントンと重ねた。


「ほい、3000円、和紗にありがとってゆぅちょって」


「判った!」


 受け取ってから、永和はもう一度湯呑みを見た。

 冷たい麦茶の中で、氷がひとつ、静かに沈んでいた。


 この人は元気だな、と思う。

 徹也くんも、たぶん元気だ。

 でも、元気なうちに会っておく、というのが、たぶん今の自分にはいる気がした。


 永和は湯呑みを置いた。


「……おぃ、来週の三連休、徹也くんに会いに行こかな」


「壱岐に?」


「うん」


 祖母は少しだけ目を丸くしてから、すぐに笑った。


「ほなら、徹也に電話してみんね。徹也んトコ泊まってん良かし、宿も良かトコ知っとろうもん」


「うん、聞いてみる。──でも、宿が良かね。壱岐なんてちょっとした旅行やん」


 祖母は「そがんね」と短く笑って、それ以上は言わなかった。

 誰の家にどう泊まるかは、永和の好きにしていい、というふうだった。


 永和は麦茶を一口だけ飲んで、腰を上げた。


「じゃあ、帰るね。婆ちゃん、ありがとね」

「気ぃ付けて帰らんねよ」


 縁側から出るときに、庭の祖父にも声だけかけた。


「爺、じゃあね」

「おぅ」


 鋏の音は途切れなかった。



 天坂の家を出て、来た道を戻る。


 日差しは行きよりも少しだけ強い。

 永和は紙袋のなくなった手を、なんとなく空に泳がせながら歩いた。


「──姫様」


 小さく、口の中で呼んでみる。


「聞いとった?」


 少し間があって、頭の奥から短い返事があった。


 ――聞いとった。


「壱岐、行くことになりそうやけど」


 ――そのようだな。


「姫様、ちょっと遠出するけど……姫様、動けんやろ?」


 永和は歩きながら、少しだけ声のトーンを落とした。


「三日ばかり、音信不通になるけど、大丈夫?」


 頭の奥で、また少し間があった。


 でも、その間は、拒む間ではなかった。


 ――我とお主は、一心同体だからな。


「え」


 ――我も一緒ぞ。


 永和は思わず足を止めそうになった。


「へ? 行けるの?」


 ――分体だからな。岩戸にも、我は居る。


 永和は空を見上げた。

 夏の入り口の高い空が、目にしみるほど明るかった。


「……そっか」


 声に出して、ゆっくりと言った。


「そっか、一緒に行くとね」


 ――ああ。


「そりゃ心強か。……いや、心強かとかいう問題やないか」


 ――そういうところは、変わらぬな。


「うん、変わらん」


 永和は少し笑って、また歩き出した。


 角を曲がると、自分の家のアパートが見えてくる。

 平屋の屋根の向こうに、洗濯物が風で少しだけ揺れていた。


 三日、家を空ける。

 家族に話して、荷造りをして、フェリーに乗る。


 考えることは山ほどあるはずなのに、

 永和の中は、思っていたよりずっと静かだった。 


 頭の奥にいる神様も、

 夏の空も、

 どこかで静かに、次のことを待っていた。

2026.07.18


久し振りの更新です。

次の展開どうしようと悩みつつ

ちょっと小休止の回です。

次の舞台は壱岐ですね♪

ただの旅行です

姫様が初めて外の世界に

出るのです。

何も起きません……まだ。

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