お使いの帰り道
「永和ー! ちょっと天坂の婆んチにコレ持って行って。頼まれちょった化粧品、3000円貰ってきて」
休日の午前、母はバタバタしている。
痴呆症を患った皆川の祖母のお世話に行くのだろう。
天坂は母の旧姓。
母方の祖父母は近くに住んでいて、父方の祖父母の家は車で10分ほどの距離だ。
「はいはい、行ってくる」
永和は化粧品の入った紙袋を受け取って、玄関で靴を突っかけた。
外は思ったより日差しが強い。
もう梅雨も明けかけているのかもしれない。
*
徒歩五分の距離だ。すぐに天坂の家の門が見えてくる。
庭先で祖父が植え込みを鋏で整えていた。
「爺〜! 婆ちゃんおる?」
声をかけると、祖父は顔を上げないまま返した。
「中におる。台所におるっちゃなかとか」
「ん、了解」
それ以上のやり取りはなかった。
祖父はまた植え込みに向き直り、鋏を鳴らしている。
永和は庭を回り込んで、玄関ではなく縁側の方から声をかけた。
「婆ちゃん、化粧品持ってきたよー」
「あら、永和。上がらんね」
台所からの声に呼ばれて、永和はサンダルを脱いだ。
久しぶりでもない祖母の家の匂いがした。
畳と、少しの線香と、麦茶。
台所に入ると、祖母は湯呑みを二つ用意していた。永和が来ることを見越して、母から連絡が入っていたのだろう。
「はい、これ。頼まれとったやつ」
「ああ、ありがとうねえ。助かるわ。──ちょっと待っちょって、お金ば」
祖母は財布を引き出しから取り出しながら、湯呑みを永和のほうへ滑らせた。
「早よ、座らんね。冷たかお茶入れたけん」
永和はありがたく座った。
祖父はまだ庭にいる。窓の外で、鋏の音が規則正しく続いている。
永和はふと湯呑みを両手で持ちながら、思い出したように聞いた。
徹也とは母の兄で、永和にとっての叔父にあたる。母が若い頃、従兄弟に「叔母さん」と呼ばれるのを嫌がって「和ちゃんて呼んで」と言い出したのがきっかけで、いつの間にか家族全体が名前呼びになった。今では立派な叔父さん、叔母さんじゃんと思ってはいるけれど、口には出さない。
「そういえば、徹也くん、今月帰ってくると?」
祖母は財布から札を数えていた手を止めて、少し首を傾げた。
「今月はもう来たよ。何か月末は恩師が壱岐に訪ねてくるらしかけん、来んって」
「あー、そうなん」
永和は湯呑みに口をつけかけて、止めた。
なんとなく、間があいた。
「……ばあちゃん」
「なんね?」
「あたし、お見舞いばだいぶ包んでくれとったやん、徹也くん」
「そがんね」
「お礼、まだ電話しかしとらんとよ」
「電話はしたとやろもん。徹也もそがんと気にせんが」
「……ばってさ」
祖母は札を数え終えて、永和の前にトントンと重ねた。
「ほい、3000円、和紗にありがとってゆぅちょって」
「判った!」
受け取ってから、永和はもう一度湯呑みを見た。
冷たい麦茶の中で、氷がひとつ、静かに沈んでいた。
この人は元気だな、と思う。
徹也くんも、たぶん元気だ。
でも、元気なうちに会っておく、というのが、たぶん今の自分にはいる気がした。
永和は湯呑みを置いた。
「……おぃ、来週の三連休、徹也くんに会いに行こかな」
「壱岐に?」
「うん」
祖母は少しだけ目を丸くしてから、すぐに笑った。
「ほなら、徹也に電話してみんね。徹也んトコ泊まってん良かし、宿も良かトコ知っとろうもん」
「うん、聞いてみる。──でも、宿が良かね。壱岐なんてちょっとした旅行やん」
祖母は「そがんね」と短く笑って、それ以上は言わなかった。
誰の家にどう泊まるかは、永和の好きにしていい、というふうだった。
永和は麦茶を一口だけ飲んで、腰を上げた。
「じゃあ、帰るね。婆ちゃん、ありがとね」
「気ぃ付けて帰らんねよ」
縁側から出るときに、庭の祖父にも声だけかけた。
「爺、じゃあね」
「おぅ」
鋏の音は途切れなかった。
*
天坂の家を出て、来た道を戻る。
日差しは行きよりも少しだけ強い。
永和は紙袋のなくなった手を、なんとなく空に泳がせながら歩いた。
「──姫様」
小さく、口の中で呼んでみる。
「聞いとった?」
少し間があって、頭の奥から短い返事があった。
――聞いとった。
「壱岐、行くことになりそうやけど」
――そのようだな。
「姫様、ちょっと遠出するけど……姫様、動けんやろ?」
永和は歩きながら、少しだけ声のトーンを落とした。
「三日ばかり、音信不通になるけど、大丈夫?」
頭の奥で、また少し間があった。
でも、その間は、拒む間ではなかった。
――我とお主は、一心同体だからな。
「え」
――我も一緒ぞ。
永和は思わず足を止めそうになった。
「へ? 行けるの?」
――分体だからな。岩戸にも、我は居る。
永和は空を見上げた。
夏の入り口の高い空が、目にしみるほど明るかった。
「……そっか」
声に出して、ゆっくりと言った。
「そっか、一緒に行くとね」
――ああ。
「そりゃ心強か。……いや、心強かとかいう問題やないか」
――そういうところは、変わらぬな。
「うん、変わらん」
永和は少し笑って、また歩き出した。
角を曲がると、自分の家のアパートが見えてくる。
平屋の屋根の向こうに、洗濯物が風で少しだけ揺れていた。
三日、家を空ける。
家族に話して、荷造りをして、フェリーに乗る。
考えることは山ほどあるはずなのに、
永和の中は、思っていたよりずっと静かだった。
頭の奥にいる神様も、
夏の空も、
どこかで静かに、次のことを待っていた。
2026.07.18
久し振りの更新です。
次の展開どうしようと悩みつつ
ちょっと小休止の回です。
次の舞台は壱岐ですね♪
ただの旅行です
姫様が初めて外の世界に
出るのです。
何も起きません……まだ。




