岩戸の水は、まだ冷たい
退院の日は嘘みたいに天気が良かった。
永和は荷物を受け取りながら、つい一度、窓の外を見上げた。雲は薄く空は高い。あれだけ濡れていた山も今頃は乾いた光の中にいるのだろう。
看護師は最後まで丁寧だった。
「無理せんでくださいね、先生。授業もすぐには戻さっさんでしょうけど」
「そげんね、もうちょっとゆっくりするごとなります」
「ご家族、迎えに来られとるって聞きましたけど」
「妹が。仕事休んでまで来んでよかって言うたとに、聞かんで」
「優しかねえ」
「うちんとこ、わりとそがん距離感です」
短いやり取りに自分でも少し笑った。
軽く返せる、というだけで、退院した実感が少しだけ近くなる。
病院の玄関を出ると空気が違った。
消毒液の匂いから外の匂いへ。
濡れた土でも雨上がりでもない、ただの乾いた街の匂い。
ふっと息を吐いたとき頭の中で短く声がした。
――よく出てこられたな。
永和は反射で足を止めかけて、危うく止まらずに済んだ。
迎えの妹が少し離れた所で手を振っている。立ち止まると不審がられる。
「……ちょっと、いきなり喋らんで」
心の中で、なるべく抑えた声で返した。
――喋ったわけではない。
「いやそれが喋るっていうとよ」
――そうか。
短い。
短いが、間違いなく今際の際で聞いた声だ。
退院しても、当然そこにいた。
いることは分かっていた。
でも改めて外の光の下で確認すると変な気分になる。
永和は妹のところまで歩きながら、こっそり聞いた。
「岩永姫命さま、外、大丈夫なん? 地縛霊みたいに岩戸出たら消えるとかは……」
――消えぬ。
「……それはそれで重い」
――言い方を選べ。
「ごめんって」
――謝るな。話が散る。
「またそれ」
妹のすぐ手前まできたとき妹が顔を上げる。
「永和、誰と喋りよると?」
「……独り言」
「最近多いね、それ」
「うん、ちょっと、ね」
永和は曖昧に笑った。
頭を打ったせいだ、で大抵のことは流せる。便利になったような申し訳ないような複雑な気分だった。
車に乗ってからは、ほとんど喋らなかった。
窓の外を見覚えのある景色がゆっくり過ぎていく。
通い慣れた道。
学校の方向。
いつもの坂。
子どもたちが「先生ー」と呼んでくる、あの道。
目に映るものは全部、事故の前と同じはずだった。
けれど、ほんの少しだけ見え方が違う。
たとえば、街路樹の根元に溜まった水。
たとえば、用水路の縁の濡れた苔。
たとえば、誰かの軒下からこぼれる雨樋の雫。
ぽつ。
その音が妙に近く感じる時がある。
気のせいだ、と思っても、すぐにそうとは思いきれない。
頭の奥で岩永姫命が小さく言った。
――拾うな。
「拾わんよ」
――拾いやすい体になった。今は流せ。
「……了解」
心の中だけで返したつもりだったが自分でも少し緊張したのが分かった。
拾いやすい体、というのは、たぶんそういう意味なんだろう。
長久の分霊、と心の中で唱えてみる。
響きはひどく古いのに、いま自分の体にあるのだという実感はまだ薄い。
ただ、確かに自分は前の自分とは少しだけ違う。
それだけは、ぼんやり分かっていた。
*
家に帰ると見慣れた天井があった。
退院後しばらくは仕事を休む。
その間、子どもたちには会わない。
校長からは「無理せんでくださいね」とだけ言われていた。
布団に横になったとき、ようやく長い息が出た。
助かったらしい。
児童も無事らしい。
頭の中には神様がいるらしい。
書き出してみると相変わらず最悪寄りなのに肩の力はゆるみつつあった。
たぶん、生きていることに体が慣れ始めている。
目を閉じると、まだ少し痛む頭の奥で、あの声の主が静かに座っているような気配がする。
邪魔ではない。
でも、確実に、いる。
――何だ。
「いや別に。確認しただけ」
――頻繁にやられると鬱陶しい。
「神様、わりと素直やね」
――黙れ。
永和は、ふ、と笑った。
その小さな笑いが、自分でも意外なほど自然だった。
*
数日が経って、学校から連絡が入った。
子どもたちのこと、授業の代替のこと、そして悠真のこと。
悠真は、もう登校しているらしい。
怪我もほぼ治って、見た目には元気そうだという。
「そりゃよかった」
ひとりごとのつもりで言った。
返事は来なかった。
ただ、そのあとほんの少しだけ、頭の奥が静かになった気がする。
拾うな、と言ったあの声の主が何かを構えたような、そんな静かさだった。
永和はそれに気づかないまま明日の準備のためにメモを取り出した。
返却していないプリント。
ホームルームの連絡。
予定の組み直し。
冷蔵庫に半分残っている豆腐は今度こそ食べないと駄目だ。
明日からは、また子どもたちの顔が見られる。
そう思うと、ようやく自分の中の何かが現実に追いついてきた気がした。
復帰の朝は、よく晴れていた。
校門の手前で深呼吸をすると、子どもたちの声が遠くからもう聞こえてくる。鞄のひもを握り直して永和は門をくぐった。
「永和先生っ」
最初に気づいたのは、いつものよく通る声の子だった。
次の瞬間にはもう四方から声が飛んでくる。
「ほんとに来た!」
「先生、大丈夫と?」
「ちょっと、ぶつからんで。先生まだ怪我しとるけん」
「自分が一番ぶつかっとろが」
ひとしきり囲まれて、永和は思わず笑った。
肩が少し痛む。けれど、声が痛みより先に届く。
ああ、戻ってきた、と思った。
「ただいま、みんな」
「おかえりー!」
「ながっ。声でかっ」
その流れの後ろで一人だけ少しテンポがずれている子がいた。
悠真だった。
額の絆創膏はもう取れていて、見たところ怪我は治っている。
走り寄ってこそ来ないけれど他の子の輪のすぐ後ろに立って、こちらを見ていた。
目が合うと悠真はぺこっと小さく頭を下げた。
「先生、おはようございます」
「うん、おはよう。元気しとった?」
「……うん」
返事は短い。
声も小さい。
でも、それ自体は不思議じゃなかった。事故のあとなのだ。むしろ前と同じ調子で来られる方が無理がある。
「先生んとこ来てくれて、ありがとね」
「……はい」
ぺこ、ともう一度頭を下げて悠真は他の子の輪に戻った。
戻った、というより戻った場所で少しだけ距離を取って立った、というほうが正確だったかもしれない。
永和はそれをほんの一拍だけ見送って、すぐに別の子に呼ばれた方へ視線を戻した。
「先生、宿題プリント、まだ返ってきとらんよ」
「ごめんごめん、ちゃんと持ってきた」
「ほんと?」
「ほんと」
「信じる」
「軽い」
子どもたちの声に包まれながら永和は校舎へ向かって歩き出す。
その途中で一度だけ、後ろを振り返った。
悠真は、ちゃんと列の中にいた。
他の子と歩いていた。
ただ視線が少しだけ、こっちより遠くに置かれていた。
気のせいかもしれない。
たぶん。
*
午前中の授業は思っていたよりも普通に進んだ。
子どもたちは「無理しないで」を口にしながら結局いつも通りに騒ぎ、いつも通りに叱られ、いつも通りに笑った。日常というものは案外あっさり戻ってくる。
ただ永和の視線は自分でも気づかないうちに何度か悠真へ寄っていた。
手の動きはちゃんとある。
ノートも取れている。
隣の子と二言三言、言葉も交わしている。
けれど、それらが全部ほんの少しだけ薄い。
動作の前に一拍ある。
笑い方が、笑ってから一瞬遅れる。
影が、なんとなく濃い気がする。
永和は何度か眉を寄せかけて、そのたびに気のせいだ、と自分に言い聞かせた。
子どもは事故のあと急に静かになる時期がある。
寝つきが悪い子もいる。
しばらく見守ってやらないといけない。
それで、説明はつく。
はずだった。
*
昼休み。
永和は職員室に戻る前に廊下の窓から運動場をぼんやり見ていた。
悠真は外に出ていなかった。教室の窓際で何人かの友達と一緒に座っている。話している。たぶん笑っている。
それなのに目を細めて見ていると、なぜか教室の窓のあたりだけ光の量が違うような気がした。
ガラスの傾きのせいだ、と思った。
光なんて見る角度でいくらでも変わる。
頭の奥で、声がした。
――やはり、つけて来とるな。
永和は息を止めた。
廊下には誰もいない。
遠くで子どもの笑い声が反響している。
西側の窓から差してくる光の中に、埃がきらきらと泳いでいる。
なのに、その声だけが自分の頭の真ん中にすっと落ちてきた。
「……何が」
声に出さないように口の中で答える。
――あの童子に。
永和の心臓が一度だけ大きく鳴った。
「あの子……悠真?」
――名は知らぬ。
だが、お前が庇った子だ。
永和はもう一度、教室の窓のほうへ目をやった。
悠真は変わらず友達と座っている。
他の子と笑っている。
目に見える限り何もおかしくはない。
「……どんなふうに、ついとると?」
しばらく、間があった。
――言葉で説明するのは難しい。
「神様でも、そがんことあると?」
――難しいものは難しい。
――拾うな、と言うたろう。
「拾っとらんよ」
――いや。お前が拾ったのではない。あの童子が連れてきておる。
「……連れてきとる」
――気付かれぬほど薄く張りついておる。あれは、あの場所のものだ。あの場所に置いてくるはずだった。
「置いてくるはず……って」
――本来なら、岩戸の水のそばで離れる。だが、あの童子は水から戻された。
永和は、ゆっくり息を吐いた。
戻された、という言葉が自分のことのように引っかかった。
悠真は永和が引き上げた子だ。
永和もまた誰かに引き上げられた人間だ。
あのとき、何かを置いてくるべきだったのは本当に悠真だけだったのだろうか。
そう考えかけて永和は自分の手のひらをそっと握り直した。
今は悠真の話だ。
「……それ悪いものなん?」
しばらく、岩永姫命は答えなかった。
その沈黙が答えだった気もする。
――善でも悪でもない。だが人の側におるべきものではない。
「あの子に害は」
――今すぐということはない。
――が、時が経つほど馴染んでしまう。
「馴染むって、悠真に?」
――そうだ。馴染めば剥がしにくい。剥がせなくなれば共に在ることになる。
永和は廊下の手すりをぐっと握った。
共に在る。
あの神様が、ためらいなくその言葉を使ったということは、たぶん、本当にそういう種類の話なのだ。
教室の中で悠真が窓側にいる友達に何か言って小さく笑った。
遅れて、いつも通りの笑顔だった。
それを見ていたら急に喉の奥が冷たくなった。
「……戻さんといかんとよね」
永和は自分の口でゆっくりと言った。
頭の中で岩永姫命が短く答えた。
――戻さねばならぬ。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
子どもたちの声が一段大きくなって廊下を駆ける足音が増える。
その騒がしさの中で永和の耳の奥にだけ、ひとつだけ別の音が残っていた。
ぽつ。
雨上がりでもないのに、どこか遠くで雫が落ちた気がした。
放課後の職員室は、いつも通り少しだけ騒がしかった。
チャイムが鳴ったあとの教室から、まだ何人かの声が響いてくる。机を引きずる音。委員会の集合を呼ぶアナウンス。誰かが落とした筆箱の音。
戻ってきて三日目で、もう全部がいつもの位置に戻っているような顔をしていた。
永和は自分の席で、出席簿を閉じた。
昼休みからずっと、頭の片隅に薄い冷たさが残ったままだった。
誰かに話してもいい話ではない。
誰かに話せる話でもない。
「先生」
声をかけられて顔を上げると、隣の席の先輩が湯のみを片手に立っていた。
「無理しとらん?」
「大丈夫です」
「顔色、ちょっとよくなかよ」
「ちょっと疲れただけです。子どもらに揉まれて」
「揉まれるうちは大丈夫やね」
短く笑って、先輩はそのまま自分の席に戻った。
たぶん本当に心配してくれている。
でも、いま自分が何を考えているか、ここで言えることは何もない。
永和は出席簿の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
頭の奥で、低い声がする。
――今夜か。
「……たぶん」
心の中だけで答える。
声に出さずに会話することにも、もう少しだけ慣れてきた気がする。
「行かんばとよね」
――行かねば、剥がれぬ。
「分かっとる」
はっきり言葉にしてみると、自分の中で何かが一段、落ち着いた。
行く。
行かないという選択肢は、たぶん最初からなかった。
ただ、そのことを誰にも告げないまま動くのが、想像以上に重い。
「悠真には、何も言わんでよかと?」
――告げてどうする。
「あの子が、自分のせいやと思っとるかもしれんやろ。事故のことだって、ずっと謝りよったし」
――それでも告げるな。
「……うん」
頭では分かっていた。
悠真にとっては、事故そのものがやっとひと段落したところだ。
その上に「君には、岩戸から連れてきたものがついている」と教えるのは、子どもに背負わせる重さじゃない。
知らないままでいい。
知らないままでいられるように自分が動く。
永和は出席簿を引き出しにしまった。
手のひらが思っていたより冷たくなっていた。
*
学校を出る前に、一度だけ廊下から運動場を見た。
悠真は帰りの会のあとすぐに帰ったらしく、もう校庭にはいなかった。
残っているのは、サッカーボールを追いかける数人と鉄棒のところで逆上がりをしている女の子。空はまだ高い。秋に近づいているのに、夕方の光は意外と長い。
永和は短く息を吐いて踵を返した。
「岩永姫命さま」
心の中で呼ぶ。
――何だ。
「ひとつ聞きたかとですが」
――聞け。
「悠真には自分でついとるって感覚はあるとですか」
少し間があった。
――ない、と思え。
「思え、って」
――気付かせぬほうがよい。気付いた者は剥がれかけたとき揺れる。揺れた者から剥がすのは難しい。
永和は、ふと足を止めた。
言われていることが分かるのに、分かりたくない、というような奇妙な感覚だった。
知らないままで助けられる方が悠真には優しい。
それは多分その通りで、だからこそ自分は何も言わずに動かないといけない。
「……了解です」
声に出さずに永和は答えた。
――よし。
ひと言。
いつもの短さで岩永姫命は返した。
*
家に戻って上着を脱いだ。
仏壇の前を通って台所に立って湯を沸かしながら、永和はぼんやりと明日の予定を頭の中で並べた。
朝の連絡。
体育の代理。
国語のプリント返却。
給食のアレルギー確認。
全部、明日の朝までには戻っていなければいけない。
つまり、行って、戻って、寝る。
それだけのことだ。
言葉にしてしまえば簡単な手順なのに、湯気を見ていたら急に肩が震えそうになった。
行く先は岩戸神社。
最後にあの場所に立ったとき、自分は意識を失って石段の下まで落ちた。
怖くないわけが、ない。
頭の奥で岩永姫命がそれを察したように
――無理に強がらずともよい。
と言った。
いつもより、ほんの少しだけ静かな声だった。
「強がっとらんよ」
――そうか。
「ただ、ちょっと笑える話ではないなって」
――笑えという話ではない。
「それは確かに」
永和は湯の沸く音を聞きながら、もう一度息を整えた。
怖い。でも、行く。
怖さを抱えたままで、ちゃんと足を動かす。
それくらいのことなら自分にもできる。
あの日、考えるより先に悠真に向かって駆け出した自分なら、たぶん、できる。
「日が落ちる前に出ます」
永和は誰にともなく、口に出して言った。
――よかろう。
頭の中で、静かに返事があった。
窓の外では、空がほんの少しずつ、低くなりはじめていた。
空はまだ青いのに、山の方だけ、もう一段暗かった。
永和は岩戸神社の入口に立っていた。
あの日と同じ場所のはずなのに空気が違う。雨上がりではなかった。湿りも薄い。それでも踏み出した足の裏に、ひとつだけ覚えのある感触が伝わってきた。
苔。
短く一度、息を吐く。
息は白くは見えなかった。
けれど口の奥は冷たかった。
石段はあの日とほとんど同じ顔をしていた。
黒く艶を帯びた岩。
その隙間に深く色を沈めた緑。
葉先に残った、たぶん朝のものではない雫。
ぽつ。
永和は思わず足を止めた。
頭の奥で、岩永姫命が静かに言った。
――場が、迎えに来ておる。
「迎えに、来とる」
――気を取られるな。お前は上まで上がれ。
永和は唇を引き結んで、もう一度足を出した。
石段はあの日と同じだけ濡れているように見えるのに滑らなかった。
ように、感じた。
もしくは滑らないように岩永姫命が永和の足を見ていた。
どちらでも同じことだった。
*
本殿の前まで来ると空気の質がもう一段変わった。
昼の間に感じていた薄い冷たさが、ここでははっきりした重みになっている。
怖さとは少し違う。
強く拒まれているわけでもなかった。
ただ、ここでは人の歩幅が少しだけ小さくなる、そういう種類の重みだった。
永和は鳥居をくぐり、洞の暗がりに真正面から向き合った。
あの日、子どもたちと笑いながら見上げた岩肌。
暗がりが口のように見えると、誰かが言った場所。
今は誰も笑っていなかった。
頭の奥で岩永姫命が言った。
――そのまま、立っておれ。
「はい」
――目を閉じる必要はない。
「閉じません」
――よし。
短いやり取りのあと、永和は自分の体の中で何かがゆっくり置き換わっていく感覚を覚えた。
胸の真ん中に岩の重みが落ちる。
次いで、そこに水が流れこむ。
冷たいのに熱を持っている。
痛いのに痛みだけではない。
ここで命が尽きかけたとき、受け取ったあの感触が今度は逆向きに動いていた。
あのときは岩永姫命のほうから永和に分けられた。
いまは永和の内側から岩永姫命が立ち上がっていた。
「岩永姫命さま」
永和は声に出さずに呼んだ。
――ここからは、我がやる。
「お願いします」
――下がっておれ。
「はい」
その瞬間、永和の視界の輪郭がほんの少し遠くなった。
目を閉じたわけではない。
なのに自分の眼が自分のものではない誰かに使われている、という感覚があった。
怖くは、なかった。
不思議と、怖くなかった。
*
本殿のほうへ永和の体がゆっくりと向き直る。
永和自身ではない歩み方だった。
もっと静かで、もっと重い。
歩いている、というより立っている場所が一段、別の場所へ変わっていくような動きだった。
洞の暗がりに向かって永和の口が静かに開いた。
声は永和の声でも、岩永姫命の声でもなかった。
どちらでもあり、どちらでもない、その中間の声。
――来い。
ひと言、それだけだった。
その声が夕暮れの山の中へ落ちた瞬間、空気の重みが一段増した。
岩肌の奥から薄い影が滲み出した。
影、というには色が薄く形ははっきりしなかった。
ただ、それは子どもの背丈と同じくらいの高さで、ふわりと一度揺れた。
永和の意識の奥が、ひやりとした。
悠真。
本人ではない。
本人がここにいるはずがない。
でも、それは悠真と同じ背丈をしていた。
悠真にくっついて学校までついて来て、悠真に薄く張りついていた“何か”が永和の体の前で形を取りかけている。
怒っているわけではないらしかった。
憎んでいるわけでもないらしかった。
ただ、迷っていた。
ここに戻ってもいいのかどうか。
戻ることが自分の役目だったのかどうか。
長くいたぶん、答えを忘れてしまった。というふうに見えた。
永和の口を借りて岩永姫命が静かに言った。
――そなたは、ここのものだ。
声は責めていなかった。
――誰も、そなたを連れて行ったわけではない。
――ただ戻る道を見失っただけだ。
影が、わずかに揺れた。
――子の身は、もう要らぬ。
ひと言、置く。
――戻れ。
その瞬間、永和の胸の奥がじん、と痺れた。
“戻れ”という言葉が、あの日、自分が言われた言葉とまったく同じものだったことに、ようやく気が付く。
あのとき、永和もまた戻る道を見失っていた一人だった。
戻れ、と言われて戻された。
目の前の影もまた、いま、その言葉を受け取っている。
影は、ふわりと一度だけ大きく揺れた。
怒りでも恐れでもなく、安堵に似た揺れ方だった。
長く立ちつくしていた者が、ようやく座る場所を見つけた時の、あの種類の……
次の瞬間、影は岩肌の中へ、ゆっくりと沈んでいった。
吸い込まれた、というより、もともと岩のほうから出ていたものが岩のほうへ戻った、というほうが近かった。
残ったのは洞の暗がりと、永和の呼吸だけだった。
*
永和は、しばらく動けなかった。
体の中で岩永姫命が静かに座り直していくのが分かった。
立ち上がっていたものが、また内側のいつもの場所へ戻る。
胸の真ん中の重みが少しずつ薄れる。
代わりに頭の奥の小さな気配だけが、いつものように残った。
「……終わり、ましたか」
声に出してから永和は自分の声がひどく小さいことに気がついた。
――終わった。
「悠真は」
――もう、つけて来ぬ。
「ほんと?」
――ほんとだ。
――幾日かは夢に岩を見るやもしれぬ。
――それも、いずれ霞となって消える。
永和は、ゆっくりとその場にしゃがみこんだ。
膝が震えていたわけではなかった。
ただ、立っていることが急にもったいなくなった。
頭の上に空があって、洞があって、苔があって、雫があった。
ぽつ。
また、ひとつ落ちる。
ぽつ。
その音を今度ははっきり永和は聴いた。
あの日、自分が落ちた場所から流れているはずの水。
悠真の中までついて来てしまっていた、あの場所の水。
いま、影を一つ受け止めて、また岩戸の側に戻った水。
夕暮れの光が洞の入口の縁にだけ薄く差していた。
その光の中で苔の上に置かれた一滴が、ゆっくりと滲んで広がる。
岩戸の水は、まだ冷たい。
永和はしばらく、しゃがんだままでいた。
立ち上がろうとすれば、立てる。
けれど、すぐには立たない方がいい気がした。
今の自分の体は、ここに立っていることそのものが、ようやく許された状態に見えた。
頭の奥で岩永姫命が静かに言った。
――よくやった。
たった、それだけだった。
褒められた、というよりは見届けてもらった、という感じに近い。
永和はその一言だけで不思議と肩の力が抜けた。
「……ありがとうございます」
声に出して、ゆっくり言った。
――礼はいらぬ。
「いるか、いらんかは、気持ちの問題よ」
――そういうところは変わらぬな。
頭の奥の声が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
笑った、わけではない。
でも緩んだ。
それで十分だった。
*
日は思っていたよりずっと落ちていた。
帰り道、永和は何度か空を見上げた。
西の端にはまだ薄く朱が残り、その上には、ほんの少しだけ早すぎる月が出ていた。
細い。儚い。
今夜のものというより明日にずれ込んできた月のように見えた。
「月、出とるね」
なんとなく心の中で言った。
返事はなかった。
岩永姫命がいま、何を見ているのか永和には分からなかった。
黙っているのに、いない感じはしなかった。
むしろ、いつもより少しだけ深いところで黙っているように感じた。
永和は何度か聞きかけて結局、聞かないことにした。
神様に聞いていいことと、聞かない方がいいことの区別は、たぶん少しずつ覚えていくしかない。
月の光は、まだ届くか届かないかの薄さで永和の指先を一度だけ撫でて、すぐに離れていった。
*
翌週、悠真はいつも通り登校してきた。
「先生、おはようございます」
「うん、おはよ」
「あの……宿題、ちゃんとやってきました」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「珍しか」
「先生……」
ふくれたふりをして悠真は笑った。
その笑い方には、もう一拍の遅れはなかった。
目線の置き方もまっすぐで影もまた他の子と同じ濃さに戻っていた。
永和はほっとして、それからほんの一瞬だけ引き止めるように言いそうになって、やめた。
悠真は、もう何も覚えていないようだった。
あの石段で滑ったこと、入院のあいだの心細さ、永和に頭を下げに来た日。
そういうことは覚えているはずだった。
ただ、その向こう側のこと岩戸の暗がりの中で受け取っていたかもしれない何か、そういうものは、ちゃんと薄れていく途中にあった。
それでいい、と思った。
子どもの中に岩戸の冷たさは長く残らない方がいい。
残るとしたら、それは大人の側でいい。
悠真が他の子に呼ばれて笑いながら走っていく。
あの日の石段ではなく平らな廊下を普通の速さで。
その背中を見送りながら、永和は自分の胸に手を当てた。
「ここに、いてくれるとよね」
声に出さずに聞いてみた。
――おる。
短い返事が、いつもの場所から返ってきた。
「うん」
永和はそれだけ言って職員室へ歩き出した。
*
夜、家に戻ると台所の流しの上に小さな水音がしていた。
蛇口から、ほんの少しだけ落ちきれていない水が規則正しく落ちている。
ぽつ。
ぽつ。
いつものことだった。
壊れているわけでも何かの合図でもなかった。
永和はそれをしばらく聞いていた。
あの岩戸の水の音とは、もちろん違う。
違うはずなのに耳の奥で、なぜか少しだけ重なる。
頭の奥で岩永姫命が静かに言った。
――変わらず、ある。
「岩戸の水?」
――そうだ。
「そっか」
「岩戸の水は、まだ冷たかとかね」
――冷たい。
「うん」
「だろうね」
永和は自分の家の蛇口を最後まできゅっと締めた。
水音は止まった。
けれど、永和の中の岩永姫命は、まだそこにいる。
その気配が今夜の自分の体温よりも、ほんの少しだけ低かった。
窓の外には、夜空。
その端に、まだ細い月。
神様に命を貰い生き長らえたこと。
その神様と共にあること。
その影響で子どもを巻き込んだ不思議な出来事。
――一旦、ここで終わる。
けれど岩戸の話は、まだ終わっていない。
2026.6.20
始まりのエピソードとしての
第一話が終わりました。
次は何が起こるのか……
頑張って考えますね。




