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苔むす月の岩戸  作者: 小埜えりこ


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3/20

長久の分霊

体中が痛過ぎて眠れない……


 物理的にはそうだ。


 だけど本当は自分がどうやって助かったのか、その最後のところだけが、どうしても綺麗に繋がらない。


 ――知りたいか?


「だれ?」


 声はするが姿はない。

 聞こえるというよりは私の意識の内側から響く感じ……


 ――受け入れる準備は出来ているな。


「何を? ……ていうか何なん? 誰なの!?」


 ――眠れ、そして思い出せ。


 ぽつ。


 ぽつ。


 水音とともに、意識が薄れていった。



 世界のどこかで切れかけていた糸が、ぴんと細く張り直される気がした。


 けれどそれは助かった、という感覚とは少し違った。


 むしろ永和には自分がいま、ひどく危うい場所に立たされているように思えた。上でも下でもなく、こちらでも向こうでもない、名前のない隙間。冷たさとぬくもりが同時に流れ込んでくる、妙に静かな境目。


 目を開けているのか閉じているのかも分からない暗がりの中で水の音だけがどこまでも澄んでいた。


 ぽつ。


 またひとつ、岩を打つ。


 ぽつ。


 その音の間に長い時間が挟まっている。


 永和は息をしようとした。けれど胸は動かず代わりに自分の中へ知らない景色がいくつも流れ込んでくる。


 灯りの少ない夜。

 濡れた岩肌に置かれる小さな供え物。

 額を地に擦りつけるように祈る人。

 山の下で泣く子ども。

 雨を待つ畑。

 飢えを耐える女。

 誰にも見つからぬように土へ埋められた、言葉にならなかった願い。


 ひとつひとつが短いのに、どれも重い。

 軽く眺めることを許さない重さだった。


 ――見よ。


 その声は、さっきより近かった。


 耳元で囁かれたわけではない。

 なのに背骨の内側を静かになぞるみたいに響く。


「……だれ……」


 言葉にしたつもりだった。けれど自分の声は自分の喉を通らなかった。


 代わりに、ひどく古い気配が、わずかに揺れる。


 暗がりの向こうに人の形に似たものが立っていた。

 女、だと思った。

 たぶん。


そう言い切れないほど、その輪郭は岩肌や水の気配と馴染みすぎていた。長い髪は濡れた夜のように重く、白とも灰ともつかぬ衣は風に揺れるというより、長い年月の静けさそのものをまとっているみたいだった。


 美しい、という言葉では足りない。

 けれど恐ろしい、だけでもなかった。


 見てはいけないものを見た、と思ったのに、なぜか目を逸らすことができない。


 女は永和を見ていた。


 責めるでもなく、慈しむでもなく、ただ、あまりにまっすぐに。


 ――永和。


 また名を呼ばれる。


 そのたびに胸の奥のどこかが震える。


「なんで……私の名前……」


 問いの半分は、たぶん恐怖だった。

 残りの半分は妙な悔しさに近い。知らない誰かに、自分のことを初めから分かっているような顔をされるのが、なんとなく癪だった。


 女の気配が、ごくわずかに近づく。


 ――お前は、永を宿し、和を持つ。


 それは説明ではなく確認に近かった。


 ――長くあるために呼ばれた名だ。


「いや、急に名前講評されても……」


 反射でそう返した瞬間、自分で自分に呆れた。

 何を言っているんだろう、私は。こんな状況で。 


けれど女は怒らなかった。

 ただ、わずかに沈黙したあと、


――その軽さは嫌いではない。


 と、ひどく真面目な調子で言った。


「……褒められとる?」


 ――知らぬ。


 ちょっとだけ間があって永和は心のどこかで「この人、不器用だな」と思った。


 思った瞬間、ひやりとする。


 人じゃない。たぶん。いや、間違いなく人ではない。なのにそんな感想が先に出るのは状況としてどうなんだろう。


 女はそんな永和の混乱ごと見透かしているようだった。


 ――我は、岩永姫。


 その名が落ちた瞬間、暗がりの空気が少し変わる。


 岩。

 水。

 洞。

 積み重ねられた祈りと沈黙。


 全部がその名に結びついているのが説明される前から分かった。


 岩永姫命。

 頭のどこかで子どものころに聞いた言葉が浮かぶ。

 岩戸さんの神様。

 寿命長久の神様。


 でも、まさか。

 いや、でも、ここがそういう場所なら――


「ちょっと待って。いや待てんけど。え、ほんとに? 本物?」


 ――偽物と思うか。


「そういう意味じゃなくて」


 ――では問うな。


「理不尽」


言い返したところで返ってきたのは水音だけだった。


 ぽつ。

 ぽつ。

 ぽつ。


 岩永姫命は永和のすぐ前で立ち止まり静かに見下ろした。


 ――あれは、お前が庇った子か。


 永和の視界に、ほんの一瞬だけ、さっきの光景が差し込む。

 転びかけた児童。

 小さな肩。

 揺れたリュック。

 間に合った、という手応え。


「……そう。あの子は」


 ――生きる。


「よかった……」


 その安堵が先に出たことに、岩永姫命は何も言わなかった。

 けれどその沈黙は、どこか深く肯定に似ていた。


 ――お前は己を捨てて、あれを取った。


「捨てたわけじゃ……」


 言いかけて、詰まる。


 ほんとうにそうだろうか。あの瞬間、考えていたのは子どもの頭を守ることだけで、自分がどうなるかなんて、ほとんど頭になかった。


「……まあ、優先はした、かも」


 ――そういう者は稀だ。


「教師だから」


 ――教師だからではない。


 その言葉は不思議と褒められた感じがしなかった。

 もっと面倒なものを押しつけられたような、そんな嫌な予感がした。


「その言い方、嫌な予感しかしないんだけど」


 岩永姫命は答えない。

 代わりに永和の胸のあたりへ視線を落とした。


 ――お前の命は、今、切れかけている。


 あまりにも静かに言われて、かえって現実味がなかった。


「……あー……そう、なんだ」


 ――本来なら、ここで終わる。


 その言葉で、ようやく恐怖が追いついてくる。


 終わる。

 ここで。

 今。


 子どもたちの叫び。

 職員室。

 母親の顔。

 明日の授業。

 返却していないプリント。

 冷蔵庫に半分残っていた豆腐。


「いやちょっと待って、豆腐まだあったし」


 ――何だそれは。


「知らんでしょ、そりゃ」


 自分でも何を言っているのか分からない。

 でも、怖すぎるときほど、変なことを言いたくなる。たぶん人間ってそういうものだ。


 岩永姫命は長い沈黙のあと、


 ――お前は、妙なところで逸れるな。


「ごめん」


 ――謝るな。話が散る。


「そこなんだ……」


 そこで初めて岩永姫命の気配がほんの少しだけ近づいた。

 近づいた、というより、岩そのものの重みがこちらへ寄ってきたように感じた。


 ――我は、この地を離れぬ。

 ――だが、お前をここで絶やすわけにもいかぬ。

 ――ゆえに、分ける。


 その言葉とともに、永和の胸の奥がぞわりとした。


「分けるって、何を」


 答えは、言葉より先に来た。


 冷たい水が熱を持って流れ込む。

 岩の重さが、そのまま心臓の裏へ置かれる。

 痛いのに痛みだけではない。

 押し潰されるようでいて同時に崩れない芯ができていく。


 永和は思わず身をよじった。できたのかどうかは分からない。ただ感覚だけが激しく揺れる。


 ――我が命脈の一端を、お前に預ける。


「いや、それ、勝手に決めてよかやつ!?」


 ――もう決めた。


「相談がない!」


 ――あれば拒んだか。


「……たぶん、一回は嫌がった」


 ――なら同じだ。


「横暴!」


 そう叫んだつもりの声が、どこまで届いたのかは分からない。


 その代わり、岩永姫命の気配が初めてほんのわずかだけ揺れた。

 笑った、わけではない。

 でも、完全な無反応でもない。


 ――安心しろ。

 ――主はお前だ。

 ――我は、お前を食わぬ。


「その言い方で安心できる人、少ないと思う」


 ――だろうな。


 たぶん。

 ほんの一瞬だけ。

 この神は、少し笑った。


 次の瞬間、世界がひっくり返った。


 胸が焼ける。

 喉が裂けるように痛い。

 耳に機械音が飛び込み、人の声が一気に雪崩れ込む。


「反応あります!」


「先生、聞こえますか、分かりますか」


 目が覚めた時の記憶……


 白い光が眩しい。

 消毒液の匂い。

 天井。

 救急車か処置室か、そのあたりの曖昧な白さ。


 永和は激しく咳き込み、ようやく空気を吸った。

 肺が痛い。頭も痛い。というか全部痛い。


「先生!」


「よかった……!」


 誰かが泣いている。看護師か付き添いの誰かか。


 目を開けきれないまま、永和はぼんやりと「生きとる……」と思った。


 その思考にかぶせるように、頭の奥で低い声がする。


 ――騒がしいな。


 永和は一瞬、本気で天井を見た。


 誰もいない。

 いや人はいる。いるけど、その声の主みたいな女はいない。


 なら、これは。


「……まさか」


 ――何だ。


声は明瞭だった。

 耳ではなく、意識のすぐ内側で響く。


 永和は目を閉じかけ、また開き、そして諦めたように薄く息を吐いた。


「おるんかい……」


 ――おる。


「雑に返事せんで」


 ――死にかけのくせによく喋るな、お前は。


「そっちが勝手に入ってきたんやろ……」


「永和先生?」


 現実の声が落ちてきて、永和はびくりとした。

 しまった、口に出したかもしれない。


「え、あ、すみません、えっと……独り言です」


 看護師が怪訝そうな顔をする。

 そりゃそうだ。意識を取り戻したばかりの患者が、いきなり誰かと会話していたら不安にもなる。


 永和はひどくゆっくり瞬きをした。

 頭が痛い。

 身体も重い。

 でも確かに、生きている。


 そのことに安堵するより先に頭の中のもうひとつの気配が、ひどく当然のようにそこに居座っているのが分かった。


 ――永和。


 声が呼ぶ。


 ――聞こえるな。


「……聞こえとる」


 今度は口に出さずに答えてみる。


 すると、わずかに間があって、


 ――よし。


 と返ってきた。


「何がよしなん……」


 ――これで話が早い。


 永和は薄く目を閉じた。


 助かったらしい。

 児童も無事らしい。

 そして、どうやら自分の頭の中には岩戸神社の神様が住みついた。


 状況としては最悪寄りなのに、なぜか少しだけ可笑しかった。


こんなの誰に説明したって信じてもらえるわけがない。


 ――当然だ。


「また勝手に拾った」


 ――声が大きい。


「心の声にも音量あるん?」


 ――お前はある。


 永和は痛む頭のまま、ほんの少しだけ笑った。


 その瞬間、胸の奥のもっと深いところで、水が一滴、静かに落ちる音がした。


2026.6.17


ep.3書き上げました〜

一話は次のep.4で終わりなのですが

二話はまだ骨組みだけ……

頑張りまぁす。

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