繋がれた命
冷たい。
最初にあったのは、それだけだった。
水の底みたいな冷たさが背中にも胸にもまとわりついている。息を吸おうとしても、うまく入ってこない。喉の奥で何かがつかえて肺が潰れたみたいに痛かった。
目を開けようとしても開かない。
自分が倒れているのか沈んでいるのかそれすら分からなかった。
ただ――悠真と頭のどこかで思った。
腕の中の重みは……もうない。
それが急に怖くなって永和は身体を動かそうとした。けれど指先ひとつ思うようにならなかった。
ぽつ。
ぽつ。
また水の音がする。
暗がりの中で、それだけが妙にはっきりしていた。
その時、声がした。
「その子は離れた」
女の声だった。
遠くから聞こえたのに耳のすぐそばで囁かれたみたい……
永和は返事をしようとした。けれど喉が潰れたようで息しか漏れない。
「お前はまだ落ちるな」
冷たいものが胸の奥へ細く差し込んでくるような感覚があった。痛みではない。けれど心臓をじかに掴まれたみたいに身体が強ばる。
次いで、さっきまで遠のいていた痛みが一気に戻ってきた。
頭が割れそうに痛い。肩も脇腹も息をするたび軋む。
苦しい。
本当に、まずいのだと分かった。
「戻れ」
そのひと言だけが、やけにはっきりしていた。
次の瞬間、永和は激しく咳き込んだ。
喉が焼ける。胸が引きつる。耳元で誰かが大きな声を上げていた。
「反応あります!」
「先生、聞こえますか、分かりますか」
揺れている。
硬い何かの上に寝かされて身体ごと運ばれているのが分かった。瞼の裏が赤い。血の匂いと濡れた土の匂いと消毒液みたいな匂いが混ざっている。
開けかけた目の端に白く流れる空が見えた。
救急車だ……と思ったところで、また意識が落ちた。
*
次に目を開けた時、天井は真っ白だった。
見慣れない白さに、しばらく何処にいるのか分からなかった。鼻にかかる消毒液の匂いで、ようやく病院だと気付く。
身体を起こしかけた瞬間、頭の奥で鈍い痛みが跳ねた。
「っ……」
「起きないでください」
すぐ横から看護師の声がした。やわらかいが、止める時の口調だと分かる。
「まだ無理です。先生、頭を打ってますから」
先生、と呼ばれて永和はようやく自分のことだと理解する。喉はカラカラで声を出すのも痛かった。
「……子ども、は」
最初に出たのは、それだった。
看護師は少し目をやわらげた。
「大丈夫ですよ。みんな無事です。あなたが庇った子も打撲と擦り傷で済みました」
その言葉に全身から力が抜けた。
助かった。
それだけ分かれば良かった筈なのに、その安堵の後で今度は自分の身体の痛みが一気に現実味を持った。肩も脇腹も少し動かすだけで痛む。頭には包帯が巻かれている感触があった。
ほどなくして医師が来て簡単に説明を受けた。脳震盪と裂傷、全身打撲。骨に大きな異常はないが、しばらく安静が必要だという。
「運が良かったですね」
医師はそう言ったが永和にはその言葉があまりしっくりこなかった。
運、だったのだろうか。
目を閉じると白い天井の代わりに、あの暗がりと水音が戻ってくる。
ぽつ。
ぽつ。
それから、女の声。
――お前はまだ落ちるな。
誰にも言わなかった。言ったところで、頭を打ったせいだと思われるだけだろう。自分でもそう思いたかった。
*
夕方近くになって、校長と教頭が顔を出した。ひどく心配した顔をされて永和はかえって恐縮した。子どもたちは全員無事で保護者への連絡も済んでいるという。悠真の両親も何度も礼を言っていたと聞かされて永和は曖昧に首を振るしかなかった。
礼を言われるようなことではない、とは思わない。
けれど、あの時は本当に考えるより先に身体が動いただけだった。
それに……
自分がどうやって助かったのか、その最後のところだけが、どうしても綺麗に繋がらない。
*
翌日、面会時間の終わりぎわに、悠真が母親と一緒に来た。
額に小さな絆創膏を貼っている以外は思ったより元気そうだった。けれど病室へ入ってきた時の顔は普段よりずっと強ばっていた。
「先生……」
「もう大丈夫と?」
永和がそう言うと悠真はうなずきかけて、すぐに目を伏せた。
「……ごめん」
「何が」
「俺が滑ったけん」
「うんにゃ。あれは誰でも危なかったよ。
雨上がりやったし」
なるべく軽く返したつもりだったが悠真の顔は晴れなかった。母親が横で何度も頭を下げる。永和は困ってしまって逆に何度も「大丈夫です」と言うしかなかった。
しばらくして母親が席を外し病室の中に短い沈黙が落ちた。
窓の外は明るい。昨日の雨が嘘みたいに空は高く晴れていた。
悠真が、ぽつりと言う。
「先生」
「ん?」
「あの時」
そこで言葉が止まる。
永和は急かさず待った。
「……誰か、おったよね」
心臓が、ひとつ強く打った。
「誰かって?」
「分からん。女の人みたいな声がした」
悠真は布団の端をぎゅっと握ったまま、うつむいている。
「俺、落ちるって思った時、冷たか水ん中におるみたいで。そしたら、もうよか、みたいに……いや、違う……戻れ、て」
最後のひと言だけ永和ははっきり聞き覚えがあった。
喉の奥が乾く。
けれど悠真は顔を上げないまま続けた。
「先生も、聞いた?」
永和はすぐには答えられなかった。
病室の白さが急に薄くなって洞の奥の暗がりが重なる。胸の奥に、あの冷たさが細く差し込んだ気がした。
窓の外は晴れている。
なのに、どこか近くで水の落ちる音がした。
ぽつ。
少し遅れて、もうひとつ。
ぽつ。
永和は返事を飲み込んだまま悠真の顔を見た。
あの岩戸で終わったはずのものが、まだ終わっていない。
そう思った。




