雨上がりの岩戸
本作は、物語のかたちを整える過程で
執筆補助としてAIを一部活用しております。
掲載にあたっては作者自身が内容を見つめ直し
再構成と加筆修正を行いました。
静かな物語ではありますが
お心に残るものがあれば幸いです。
「走らんよ。石、濡れとっけんね。滑ったら危なかけん」
永和が声をかけると列の真ん中あたりからすぐに笑いが返った。
「先生が一番滑っごたる」
「それゆう?」
「ゆうー」
「ひど。じゃあ余計、前見て歩かんね」
子どもたちの声が、雨上がりの山に柔らかく散る。
石段にはまだ朝の湿りが残っていた。踏むたび靴の裏に湿った感触が返る。脇の不揃いな岩は黒く艶を帯び、そこに張りつく苔は水を含んで色を深くしていた。木々の葉先にも雫が残り射しはじめた光を細かく弾いている。
木の枝から雫が落ちる。
ぽつ。
ぽつ。
それだけの音が何故か耳に残った。
永和は何とはなしに顔を上げた。枝葉の向こうには、もう明るくなった空が見える。雨上がりの山なら雫の音くらい珍しくもない。そう思ったのに、その音だけが子どもたちの笑い声の合間に残った。
気のせいか、と思って永和は視線を戻す。
前を行く子どもたちは、もう次の何かを見つけてはしゃいでいた。石の形を指さす子、足元の虫にしゃがみこみかける子、そのたびに永和の目は前と横と後ろを行き来する。列から外れそうな子はいないか、ふざけて危ないところへ寄る子はいないか、顔色の悪い子はいないか、そういうことばかり先に目につく。
「先生ー、あとどれくらい?」
「もうちょっと。文句言う元気があるなら大丈夫」
「元気と疲れるは別やもん」
「それはそう」
ぶつぶつ言っていた子が次の瞬間には別の物を見つけて声を上げる。
「あ、カエル」
「ほんとや、ちっちゃ」
「待って、それ可愛くない?」
しゃがみこみそうになるのを見て永和は小さく息をついた。
「触らんよ。そこで止まったら後ろが詰まるけん」
「はーい」
「返事だけはよかね」
「そこだけ褒める」
「褒められるとこは褒める主義やけん」
また笑いが起こる。けれど、その声も長くは続かなかった。山の静けさがやわらかく覆いかぶさってくる。
石段を上りきった先で先頭の子が足を止めた。
「先生、ここ、ほんとに神社なん?」
向けられた指の先を見て永和もつられるように視線を上げる。
鳥居の向こう、木々の奥に見えているのは、いわゆる社殿らしい整った建物ではなかった。岩肌が大きく口を開けたような暗がりがある。その手前だけが人の手で拝むための場所として整えられている。知らなければ神社というより岩屋か洞穴に見えるかもしれない。
「神社ってもっとこがん……屋根のあるやつやなかと?」
先頭の子が、ぽかんと口を開けたまま言った。 永和は少し笑って、鳥居の向こうを見やる。
「神社よ。あそこが本殿。ここにはね、岩永姫命っていう神様が祀られとるとよ」
「いわながひめ……?」
「うん。地域の昔話にも出てくる神様」
口にした途端、喉の奥がひやりとした。気のせいだと思った。……それでも、洞の奥から流れてくる冷たさだけは、さっきより近かった。
「どがん考えても先生より強かろ」
「何と比べよるん」
すぐに子どもたちの笑いが起こって、空気はまたやわらいだ。
「あ、見て。あれ、口ある」
「ほんとや。目もあるごたっ!」
「笑っちょるごたる」
指さされた先の岩肌は、影の落ち方によっては顔のようにも見えた。洞の入口の暗がりが開いた口みたい……その上の窪みが目に見えなくもない。
永和は苦笑して、少しだけ声を強める。
「勝手に神様の顔にせんと。ほら、あんまり前に出ん
で滑るけん」
「はーい」
返事は軽い。けれど石はまだ濡れていた。岩に張りついた苔も水を含んでいて、少し踏みそこなえば、それだけで足を取られそうだった。
洞の手前まで来ると、子どもたちの声は自然と小さくなった。さっきまでの笑い声も、このあたりでは長く残らなかった。
木の枝から、雫が落ちる。
ぽつ。
ぽつ。
その音だけが、静かな場所へ落ちるみたいに耳に残った。
永和は列の端にいる子を目で追った。誰かが前に出すぎていないか、ふざけて危ないところへ寄っていないか、そういうことばかりが先に気になる。
その直後だった。
短い悲鳴が、静けさを裂いた。
「きゃっ――」
列の端にいた悠真の身体が、ぐらりと傾く。濡れた石の縁にかけた足が、苔の上であっけなく滑ったのが見えた。
「悠真!」
呼ぶより先に、永和の身体は動いていた。
石段を蹴る。脇へ伸ばした腕の先で、悠真の肩が小さく跳ねる。間に合え、と頭で思うより早く、指先が制服の布をつかんだ。
つかんだ、と思った瞬間。
永和自身の足裏もまた、濡れた石の上でずるりと滑った。
ひやりとした感触が靴底を抜ける。遅れて、背筋の奥が冷えた。
しまった、と思う。
けれど、もう遅い。
永和は咄嗟に悠真を引き寄せた。小さな身体が胸元へぶつかってくる。その頭を反射みたいに抱えこんだところで、視界が大きく傾いだ。
石段と空と枝葉が、ばらばらに入れ替わる。
足元から支えが消える。
次の瞬間、背中に鈍い衝撃が走った。
息が詰まる。それでも腕だけは離せなかった。悠真を抱えたまま、永和はさらに身体を丸める。肩が石を打つ。肘が擦れたように熱い。どこかで泣き声が上がった。
もう一度、身体が滑る。
石段の角が脇腹をかすめ、鈍い痛みが遅れて広がった。
頭だけは、と永和は歯を食いしばる。自分の背を下にして、抱えた身体をかばうようにひねる。濡れた石の冷たさが制服越しに沁みた。
その直後、後頭部に硬いものが当たる気配がした。
避けきれない、と分かった。
ごつん、と嫌に乾いた音がして、白い光が一瞬だけ視界の奥で弾けた。
世界が遠のく。
子どもたちの叫び声も、枝を揺らす風の音も、急に厚い水の向こうへ押しやられたみたいだった。残ったのは、腕の中にいた悠真の体温と、背中にひろがる石の冷たさだけだ。
助かったかどうか、それだけを確かめたかった。
けれど唇はうまく動かない。息を吸おうとしても、肺の奥がひらかない。
どこか近くで、水が落ちる音がした。
ぽつ。
少し遅れて、もうひとつ。
ぽつ。
その音に引かれるみたいに、永和の意識はゆっくりと暗がりの底へ沈んでいった。
2026.6.8
はじめまして♪
書きたい物語をちゃんと形にするのは
初めてですが最後まで書き上げられる様に
頑張ります。
よろしくお願い致します!




