島の月
フェリーが壱岐の港に入ったのは、昼過ぎで悠は一度自宅に戻りシャワーを浴びた。
思いの外、疲れていたのかベットに倒れ込んですぐ泥のように眠り込んでしまった。
目覚めると日がすっかり沈んでいた。
悠は、月讀神社へ向かう人通りのない道を一人で歩いていた。
島の夜は静かだった。
潮の匂いと、遠い波の音。
胸元の月長石へ、そっと指を添えた。
帰ってきた。
それだけで体のどこかが元の場所に戻るような気がした。
「……月讀様、ただいま戻りました」
誰にともなく小さく呟いた。
すると、その声に応えるように月の光が、ほんの少し強くなった気がした。
振り向く。
波打ち際に人影が立っていた。
銀の髪を一つに括った細身の青年。
白い麻のシャツが月の光を透かしていた。
――怪我はなかったか
静かな声だった。
悠は深く頭を下げた。
「お気遣い、ありがとうございます。無事に帰りました」
月讀は微笑んだ。
――そうか。……して、どうじゃった
「はい」
悠は顔を上げた。
「岩戸の姫様と対話することができました」
月讀の切れ長の目が微かに動いた。
――ほう
「それと皆川永和さんと」
――岩戸の姫が、自ら声をかけたのか
「はい。永和さんの依石袋の中に、おられたそうです」
――依石、か
月讀は海を眺めた。
月光が波の上を白く渡っていく。
――それで、あの姫は、何と申しておった
「永和さんを、ご自身の分霊を宿す者だと」
――……分霊
月讀の声が低くなった。
「長久の分霊、だと仰っておりました」
しばし沈黙があった。
やがて月讀は、ゆっくりと頷いた。
――そうか。道理で動けぬはずのあやつが壱岐に居ったわけじゃ
悠は、その言葉の意味を静かに受け止めた。
「姫様は岩戸神社から離れられないのだと伺いました」
――ああ。あやつの身体は岩戸神社そのものじゃ
月讀の声は淡々としていた。
――社から離れられず写し身も飛ばせぬ。あの場所に縛られておるのさ
「ですが今は……」
――ああ。分霊を得た。あの娘の一部となって、ようやく外を歩けるようになった
月讀は僅かに笑った。
――これは我々にとっても小さくない報せじゃ
悠は月讀の言葉を一つずつ胸に落としていった。
自分が今、こうして目の前に立つ月讀様が、どれほど自由なのか。
そして岩戸の姫様が、どれほど重いものを背負っているのか。
その違いが初めて、はっきりと見えた気がした。
「月讀様は、どこへでも、お出かけになれるのですね」
――我は、御神体を社に奉られておるだけじゃ。社そのものを背負ってはおらぬ
月讀は月を見上げた。
――月の差す場所とてあれば、こうして写し身を飛ばせる。姫とは、そこが違う
悠は頷いた。
月讀様が自由である事。姫様が縛られている事。 その二つの重さが夜の港に静かに並んでいた。
「……月讀様が、あの娘に興味を持たれた理由が、少しわかった気がします」
――ほう
「動けぬ神が人の子の元で動く。あなたは、それが知りたかったのではありませんか」
月讀様は答えず笑った。
その笑みは静かで、どこか満足げだった。
悠は、それ以上、問わなかった。
胸の奥に淡い冷たさが残っていた。
寂しさ、と名付けるには、まだ早い小さな影。
けれど、それも一瞬で夜の風に流された。
――悠
「はい」
――遠くまで、よう行うた。ご苦労じゃった
「……もったいないお言葉です」
――報せを持ち帰るとは、よう励んだ
悠は深く一礼した。
誰も見ていない夜の港で神に頭を下げた。
――また明日から、頼むぞ
「はい。……ただいま戻りました、月讀様」
月讀様の姿は音もなく月の光の中へ溶けていった。
残されたのは波の音と潮の匂いだけだった。
悠は胸元の月長石を、もう一度、強く握った。
島の夜は相変わらず静かだった。
けれど、その静けさが今は、自分の帰るべき場所のように思えた。
2026.8.22
主要人物が出揃いました。
異なる様で似た境遇の二人と二柱。
物語の起の部分が書き上がりました
今後ともお付き合いの程
宜しくお願い致します!




