社の前で
参道の石段は思っていたよりも短かった。
両側を苔むした岩と背の低い木々に囲まれた石段を、ゆっくりと登っていく。
夏の日差しは鳥居を抜けると少しだけ和らいで感じられた。
悠は永和の前を、ゆっくりと歩いた。
その足取りは慣れていた。
石段を踏む音が、ほとんど聞こえなかった。
「石段、軽やかに歩かすとね?」
「あ、はい。慣れてると言えば慣れてます」
「神社、色々行かれるんですか?」
「そうですね、仕事柄」
永和は「仕事柄」の一言で、悠がやっぱり月讀神社に関係のある方だなと納得した。
でも聞き返さなかった。
姫様が言う月讀の縁、それで十分だった。
石段の終わりに小さな社があった。
社と言うより祠に近い。
その奥に大きな岩がそびえ立っていた。
岩の中央に洞のような裂け目があった。
岩戸神社の本体は、この岩そのものだった。
悠は社の前で立ち止まった。
永和は少し離れた場所で悠を待った。
悠は鞄を静かに脇に置いて社の前に立った。
深く一礼して二拝二拍手一拝の作法を丁寧に行った。
その手の動き、頭の下げ方、間の取り方、全てが流れるように整っていた。
永和は遠くから静かにその姿を見ていた。
――永和
「うん?」
――ここで少し離れておれ
「え?」
――彼の者と少し話す
「……姫様、大丈夫?」
――案ずるな
永和は少しだけ迷った。
でも姫様の声には穏やかな重みがあった。
断る理由もなかった。
「じゃあ、あっちで待っとるね」
永和は社から少し離れた木陰のベンチに向かった。
姫様の袋をそっと胸元のポケットに入れ直した。
「姫様、聞こえる?」
――うむ
「そぃぎ、私はここで待っとるけん」
――うむ。ありがとう、永和
永和は少しだけ驚いた。
姫様が「ありがとう」と言うのは初めてかもしれない。
でも、それ以上は聞かなかった。
悠は参拝を終えて社の前に立ったまま動かなかった。
姫様の声が悠の耳に静かに落ちた。
――そなた、月讀の名を負う者じゃな
悠は少しだけ驚いた顔をした。
でも、慌てなかった。
深く息を吸って社に向き直った。
「はい」
――神楽の家の者か
「はい、神楽 悠と申します」
――月長石を身につけておるな
悠はシャツの襟元に手を当てた。
その内側に細い革紐で下げた月長石のペンダントがあった。
「はい。私の大切な石です」
――ふむ
姫様の声には静かな確認があった。
「岩戸の姫様に、お目にかかれて光栄です」
悠は社に向かって深く一礼した。
――そなた、なぜ我の基へ来た
「月讀様から姫様のお話を伺いました」
――……ほう
「壱岐にお出ましになったと。動かれぬはずの、と」
――……
「私自身、姫様に一度お目にかかりたく思いました」
姫様は少しの間、答えなかった。
――月讀は、そなたに我の話をしたのか
「はい、少しだけ」
――……そうか
「差し出がましいかとも思いましたが、月讀様が他の神様の話をされるのは初めてでしたので」
――……
姫様の声が少しだけ低くなった。
――そなた、月讀に長く仕えておるな
「はい、幼い頃から」
――月讀とは深い縁じゃな
「そう、思います」
――……
姫様は少しの間、黙っていた。
――月讀は、そなたを大切にしておるようじゃ
「恐れ入ります」
――そなたも月讀を大切にしておるのだな
「はい。……ずっと、そう思っております」
姫様の声に微かな理解が滲んだ。
――……そうか
「岩戸の姫様」
――なんじゃ
「一つ、お伺いしても、よろしいでしょうか」
――申せ
「あの娘さん……皆川さんは姫様にとって、どのような存在でしょうか」
姫様は少しの間、答えなかった。
――我が、選んだ娘じゃ
「はい」
――我が身の欠片を分けた者じゃ
「はい」
――長久の分霊を宿しておる
悠は深く頷いた。
「……そうですか」
悠の声には理解があった。
でも、その理解の底に微かな寂しさがあった。
「姫様」
――なんじゃ
「正直にお話しますと……」
――うむ
「少し寂しく思っています」
姫様は答えなかった。
「月讀様の側に居られるのは、ずっと私だけでした」
――……
「他人に興味を持たれる方ではなかった」
――……
「なのに姫様と皆川さんの話を、よくされるようになりました」
――……
「他に目が向くのが嫌なんです」
姫様は、しばらく答えなかった。
水の音が洞の奥から微かに聞こえていた。
――そなた率直じゃな
「はい、失礼を承知で」
――……いや、良い
――そなたの言葉、我には新鮮じゃ
「新鮮、ですか」
――……人の子が神に、そのような事を申すか
「申し訳ありません」
――謝る事ではない
――……そなたは月讀を想うておるのだな
「はい」
――……そうか
姫様の声には静かな受け止めがあった。
「姫様」
――なんじゃ
「では姫様の皆川さんへのお気持ちは、どうお呼びすればよいでしょうか」
姫様は少しの間、黙っていた。
――……そのような事は我にも解らぬ
「え」
――我は、あの娘を選んだ。それだけじゃ
「では、月讀様に触れるな、と仰ったと伺いましたが」
――……
「あれは独占とは違うのでしょうか」
姫様は答えなかった。
悠は社の前で姿勢を崩さなかった。
――……そなた、鋭いな
「恐れ入ります」
――我は、そのような下世話な感情ではない
「はい」
「……ですが私には同じもののように見えます」
――……
姫様は答えなかった。
しばしの沈黙の後、姫様が静かに言った。
――……そなた、なかなかじゃな
「恐れ入ります」
姫様の声に微かな笑いが混じっていた気がした。
――そなた月讀に、よく仕えておる
「恐れ入ります」
――我が、あの娘に感じているものは、そなたが、月讀に感じているものと似ておるのかもしれぬ
「はい」
――……我にも解らぬがな
「はい」
――だが、そなたに問われれば認めぬ訳にもいくまい
悠は深く一礼した。
「ありがとうございます」
――そなたに礼を言われる筋合いはない
「はい」
――……ふん
姫様の声には新鮮な楽しさが滲んでいた。
――永和
姫様の声が少しだけ大きくなった。
永和にも届く声で。
「はい」
――もう良いぞ。こちらへ
永和は木陰から立ち上がって社の方へ向かった。
「姫様、話終わったんね?」
――うむ
「皆川さん、お待たせしました」
「いえ、こちらこそ、お気遣いありがとうございました」
悠は深く頭を下げた。
永和も社の前に立って二拝二拍手一拝の作法を悠を真似るように丁寧に行った。
姫様の基に久しぶりの参拝だった。
――永和
「うん?」
――ありがとう
永和は少しだけ笑って姫様の袋を胸元のポケットに、そっと押し込んだ。
「よか話の出来たとね」
――……
「有意義でした!来て良かった」
何か、すっきりとした表情の悠が
永和に微笑んだ。
「じゃ、帰りましょうか。今日は島原に泊まらすと?」
「はい、シーサイドホテルに」
「ほんて?良かホテルですよ!私、祖母と、よくお風呂入りに行くんです。ほんなら、そこまで送りますね」
「何から何まで、お世話になって……ありがとうございます」
石段を二人で下りた。
悠の足取りは変わらず静かだった。
でも少しだけ来た時よりも軽いような気がした。
永和は悠の後ろを、ゆっくりと下りた。
鳥居を抜けて車に戻った時、夏の日差しは少しだけ傾き始めていた。
永和と悠は車に乗り込んだ。
エンジンをかけて山を下りる道に向かった。
姫様は何も言わなかった。
でも、その静けさが、いつもと違って穏やかだった。
永和は、それに気付いていた。
でも聞かなかった。
姫様が話したくなった時に話してくれるだろうと思った。
2026.8.19
少し間が空きましたね。
次のエピソードは平行して書いてたので
すぐ公開出来ると思います。




