【第三部:従者と友人を巻き込んだ代理戦争】後編
午後の柔らかな光が差し込む学生サロン。そこは、アレン・ヴォルザードにとって、一日のうちで最も精神を研ぎ澄まさねばならない主戦場だった。
彼は窓際の一等席に座り、一本の「お湯」が入ったカップを前に、呼吸を整える。指先から放たれるのは、繊細に編み上げられた視覚と嗅覚の幻惑魔法。
(……今日は『雪解けの雫』。完璧な透明度の中に、脳裏を掠める微かな花の香を乗せる。誰にも、これがただの白湯だとは悟らせん)
アレンが震える手で、優雅にカップを傾けようとした、その時だった。
「おーっほっほ! 相変わらず、その薄汚れたカップで虚無を啜っていらっしゃること。……ベル、あれを用意なさい。ヴォルザード様に、ゴールドベルク流の『刺激』を差し上げますわ」
現れたリリアーヌ・ゴールドベルクは、これまでの贅沢な紅茶ではなく、不気味に赤黒く煮え立つ小瓶をテーブルに叩きつけた。
「……何だ、その禍々しい液体は。成金はついに毒薬の調合でも始めたのか?」
「失礼ですわね。これは『灼熱の魔椒ポーション』。一滴で火竜が火を噴くと言われる、激辛の極致ですわ。……さあ、アレン様。あんたのその『澄み切ったお湯』、存分に味わってくださる?」
アレンの背中に、嫌な汗が流れた。共感覚の契約――リリアーヌが何かを口にすれば、その味覚はダイレクトにアレンへと逆流する。
リリアーヌは躊躇なく、その劇物を一気に口に含んだ。
「っ……!? ごふっ……げほっ、ぐあぁぁあッ!!」
アレンは悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。
自分の口にあるのは、清涼感溢れるはずの白湯だ。だが、喉から胃にかけて、煮え滾る溶岩を直接流し込まれたような激痛が走り抜ける。
「あ、つ……ッ!! 貴様、何を……正気かッ! 自分の舌まで死ぬぞ!」
「っ……つ、つぅぅぅ……! あんたが、……あんたがそうして、すました顔で『伝統的なお茶』を気取っているから……っ、その幻想を焼き切って差し上げましたわ……っ!」
リリアーヌもまた、自分の舌が炭になるような激痛に涙目を浮かべ、テーブルを叩いて悶絶していた。
アレンは必死に白湯を飲み込んで消火しようとするが、共感覚で伝わってくるリリアーヌの口内の「燃えるような熱」が、冷たい水の感覚を瞬時に上書きして消し飛ばしてしまう。
(くっ……、冷やしたいのに、奴の熱が、感覚が、逃がしてくれない……!)
サロンの他の生徒たちは、二人が同時に顔を真っ赤にし、一方は空のカップを、一方は赤い瓶を掴んだまま、涙を流してのたうち回っている光景に、戦慄を禁じ得なかった。
「……ヴォルザード君とゴールドベルクさん。……あれは、新しい苦行の魔法訓練か?」
「いや……お互いの痛みを共有して精神を高め合っているのか? 理解できない領域だが、あの必死さは本物だ……」
一般生徒たちの「エリートな誤解」をよそに、アレンとリリアーヌは、一滴の飲み物を巡って文字通り魂を削り合う地獄の茶会を繰り広げた。
放課後。ヴォルザード家の古い馬車の中。
「……セバス。顔が赤いどころか、口内が火傷したような感覚が取れん。……あいつを、あいつを今すぐ凍土の底へ沈めてやりたい……」
「坊ちゃま。……あのお嬢様、誇りを守るためなら己の身を焼くことも厭わぬ。ある意味では、非常に貴族的な執念をお持ちですな」
一方、リリアーヌは車内で、氷菓子を舌に押し当てながら呻いていた。
「……あの男……、あんな状況で、まだお湯を飲み干そうとするなんて……。絶対に、絶対に屈服させてやりますわ……!」
意地を通すための自爆。二人のいがみ合いは、もはや生存本能すら超えた共感覚の地獄へと突き進んでいた。
古典魔導学の講義室には、線香のような古い紙の匂いと、張り詰めた緊張感が漂っていた。
教壇に立つグラハム教授は、アレンが提出した課題の羊皮紙を、汚物でも見るかのような目で見つめていた。
「……アレン・ヴォルザード。これは一体、何の冗談だ」
アレンの背筋に氷を押し当てられたような戦慄が走った。
グラハム教授は、ヴォルザード家の伝統的な術式体系を誰よりも高く評価し、それゆえにアレンに対して最も厳しい期待を寄せる「伝統の番人」だ。
「……何か、不備がございましたでしょうか」
「不備? 違う、これは『汚染』だ。君の描く術式には、一ミリの無駄もないはずだった。だが、この結節点を見ろ。不必要に出力が跳ね上がり、繊細な構造を内側から焼き切っている」
グラハム教授が羊皮紙を机に叩きつけた。
そこには、アレンが心血を注いで構成したはずの術式が、不自然なほど「過剰な魔力」によって歪められた痕跡があった。
共感覚の契約。アレンがペンを走らせる際、隣に座るリリアーヌから漏れ出す「制御不能な高熱のマナ」が、契約の回路を逆流してアレンの指先にまで干渉していたのだ。
「伝統とは、ただ古いことではない。完璧な制御の下に保たれる秩序だ。……今の君の魔法には、成金がバラ撒く金貨のような下品なノイズが混じっている。ヴォルザードの名を汚すつもりか?」
アレンは屈辱に唇を噛み締めた。否定したくとも、グラハム教授の指摘は正論だった。自分の魔法が、隣にいる女の「毒」によって、最も守りたかった純度を失いつつある。
「……申し訳ございません。以後、……以後、浄化に努めます」
「期待しているよ、アレン。……そしてゴールドベルクさん」
矛先はリリアーヌへ向けられた。彼女は最新の魔導筆を弄びながら、不満げに顔を上げている。
「君の魔法は、相変わらず金に物を言わせた粗雑なものだ。アレンの繊細さを学ぶどころか、君の粗暴なマナが彼の才能を食い潰している。……魔法は力ではなく、理であることを忘れるな」
リリアーヌの碧眼に、鋭い光が宿った。
「……粗暴、ですって? 私はただ、有効なエネルギーを注ぎ込んでいるだけですわ。アレン様の魔法が弱すぎて、私のマナに耐えきれないのが原因ではありませんこと?」
「黙りなさい。二人とも、これでは伝統も革新もあったものではない。……ただの『故障』だ」
グラハム教授の言葉は、二人にとって「実力の否定」よりも重く響いた。
放課後の廊下。アレンはリリアーヌの方を見ようともせず、低く冷たい声で言い放った。
「……ゴールドベルク嬢。貴様のその、下品なまでのマナの奔流をどうにかしろ。……僕の魔法が、貴様のせいで壊れていくのは、死よりも耐え難い」
「……言われなくても分かっていますわ。あんたのそのネチネチした神経質なマナのせいで、私の魔法も、なんだか『小粒』になった気がしてイライラしますのよ」
互いの存在が、自らの魔法のアイデンティティすら崩壊させていく。
かつての「いがみ合い」は、今や「存在への危機」へと深刻さを増していた。
主たちが学園という戦場で互いの魔法を汚し合っている頃。ヴォルザード家の古ぼけた屋敷に、一台の豪奢な魔導駆動車が静かに停車した。
車から降り立ったのは、ゴールドベルク家に仕えるメイド、ベルである。その手には、最高級の食材と最新の洗浄魔導具が携えられていた。
「……おや、ベル殿。本日は随分と派手な『戦支度』ですな」
屋敷の玄関で、セバスが銀のトレイを手に、懃懃しく、しかし隙のない構えで出迎えた。
「挨拶は不要です、セバス殿。お嬢様が学園でアレン様の『貧乏の波動』に晒され、精神的苦痛を受けておいでです。その不快感を共感覚の回路から遮断するため、まずはこの屋敷の『清貧という名の不潔』を物理的に排除しに参りました」
「ほう。我が家の伝統ある静寂を『不潔』と断じますか。ならば、どちらの主人がより完璧な環境で安らげるか、……ここで決着をつけねばなりませんな」
従者たちの「代理戦争」の幕が上がった。
ベルは最新の『広域塵埃消去魔導具』を起動し、大広間の埃を一瞬で分解していく。対するセバスは、年季の入った箒一本を手に、極小の風魔法を幾重にも編み込み、ベルの機械が届かない隅々の隙間からマナの澱みまでを掃き清めてみせた。
「最新の機械は便利ですが、歴史の染み付いた石の『呼吸』までは読めませんな」
「……ふん。ならば、次は『食』ですわ」
ベルが取り出したのは、ゴールドベルク商会が独占輸入した幻の巨鳥の肉。彼女はそれを魔導加熱器で完璧な温度管理の下、調理していく。
対してセバスが用意したのは、アレンが昨日「修行」と称して持ち帰った野草と、僅かばかりの干し肉。だが、彼はその質素な食材に、伝統的な『熟成術式』を施し、素材の旨味を極限まで引き出した滋味溢れる一皿へと昇華させた。
清掃、調理、そして主人の帰宅を待つための『空間の調律』。
二人は一言も交わさず、しかし互いの動きをミリ単位で監視し、補完し、そして凌駕しようと動き続けた。
その結果。
夕暮れ、疲れ果てて帰宅したアレンとリリアーヌを待っていたのは、かつてないほど「完璧に整えられた」環境だった。
「……セバス。何だ、この部屋の澄み切ったマナは。それにこの食事……我が家の味だが、どこか信じられないほど洗練されている」
アレンが驚愕するのと同時に、リリアーヌもまた、自分の車内でベルが用意した「アレン側の節約技術を応用した、魔力効率の極めて高い特製飲料」を飲み、目を丸くしていた。
「ベル、これ……不快なほど身体に馴染みますわ。あの男のネチネチした魔法を、綺麗に浄化したような感覚ですわよ」
従者たちの「負けず嫌い」な完璧主義が、意図せずして主人たちの共感覚を安定させ、さらには相手の技術の「良さ」だけを抽出して身体に馴染ませてしまったのだ。
「……セバス殿。本日のところは、引き分けとしましょうか」
「ええ。……ですが、次こそは坊ちゃまの『清貧の美学』で、お嬢様の傲慢な感覚を完全に調教してみせましょう」
主人たちが「死んでも認めない」と意地を張る裏で、従者たちの代理戦争は、二人をより逃げ場のない「運命の結合」へと引きずり込んでいくのであった。
学院の空を厚い雨雲が覆い、窓の外では絶え間ない雨音が続いていた。
この湿気と冷え込みは、アレンとリリアーヌを繋ぐ『一蓮托生(共感覚)の契約』に、新たな試練をもたらしていた。
「……くっ、何だ。この、骨まで凍てつくような震えは」
講義室の自席で、アレンは震える肩を必死に抑えていた。
彼自身の肉体は、長年の鍛錬によって寒さには強い。だが今、契約の回路を通じて流れ込んでくるのは、リリアーヌの「深刻な冷え性」の感覚だった。最新のドレスは薄手で、彼女の華奢な身体は雨の湿気による冷えを敏感に拾い上げ、それを増幅してアレンに叩きつけてくる。
「ヴォルザード様……あんた、そんなにガタガタと……情けないですわ。これしきの雨で、没落貴族の魂まで冷え切ってしまったのかしら?」
隣のリリアーヌもまた、自分の震えをアレンのせいにしようと必死だった。しかし、彼女の歯の根は合わず、扇子を持つ指先は白く強張っている。
「……ふん、武者震いだ。貴様こそ、顔色が紙のように白いぞ。成金の血は、気温が下がると凝固でもするのか?」
「なんですって!? 私は……私はただ、この部屋のマナの対流が不快なだけですわ!」
言い合いながらも、二人の震えは共鳴し、さらに激しさを増していく。アレンが寒さを我慢すればするほど、その「耐えている苦痛」がリリアーヌに伝わり、リリアーヌが寒さに怯えれば、その「恐怖」がアレンの体温をさらに奪う。
見かねたリリアーヌが、ベルに命じて用意させていた小型の魔導ヒーターを取り出した。それは黄金の装飾が施された、掌サイズの超高性能発熱器だ。
「……あー、イライラしますわ! あんたのその、凍え死にそうなマナが私に逆流してくるせいで、私が風邪を引きそうですわよ!」
「……頼んでなどいない。貴様が、勝手に……っ、震えているだけだろう」
「うるさいわね! 貸しなさいな!」
リリアーヌは「邪魔よ!」と吐き捨てるように言いながら、その高価なヒーターをアレンの足元へと、蹴り飛ばすように転がした。
足元から立ち上る、優しくも力強い魔導の熱。
アレンの凍りついたつま先から、じわりと体温が戻っていく。同時に、契約の繋がりを通して、リリアーヌの強張っていた身体が弛緩していく感覚が、アレンの脳に直接伝わってきた。
「…………」
「…………」
暖かさが共有されると同時に、二人の間の沈黙もまた、これまでにない奇妙な密度を帯び始めた。
アレンは無言でヒーターを少しだけリリアーヌの方へ寄せ、リリアーヌは黙ってそれを自分の足元で受け入れた。
雨の日の講義室。
二人は一度も視線を合わせなかったが、足元にあるたった一つの熱源が、彼らの意地を僅かに溶かしていた。
「……勘違いするな。ヒーターが壊れて暴発しないよう、僕の術式で監視してやっているだけだ」
「あら、私もあんたを暖房代わりに利用してあげているだけですわ。……感謝なさいな」
冷えの連鎖が、不本意な温もりの共有へと変わる。
雨音の向こうで、二人の「拒絶の壁」に、また一つ小さな亀裂が入った。
学院の広大な回廊を歩くアレンとリリアーヌの姿は、いまや生徒たちの間で「奇妙な名物」となりつつあった。
数メートル離れて歩きながらも、一方が段差に躓きそうになれば、もう一方が無意識に手を差し出そうとする。一方が欠伸を噛み殺せば、もう一方の目にも涙が浮かぶ。
その光景は、事情を知らぬ者から見れば、魂を分かち合った深い絆のようにも見えた。
「……目障りなんだよ、お前たち」
その声を放ったのは、上位貴族の派閥に属する男子生徒、ヴェンツェルだった。
彼の後ろには、数人の取り巻きが壁のように立ちはだかっている。彼らはグラハム教授のような「伝統への敬意」も、イザベラ先生のような「実力への評価」も持たない。ただ、家柄の序列と「自分たちの正しさ」に固執する、真のエリートからは程遠い集団だった。
「ヴォルザード。没落したとはいえ、貴族の矜持を捨てて成金の娘と馴れ合うとはな。我が校の品位を下げるにもほどがあるぞ」
「……馴れ合いだと?」
アレンが低く応じる。彼の指先は既に、無意識のうちにリリアーヌの魔力の拍動を感知し、戦闘態勢へと移行していた。
「そしてゴールドベルク。金で学園の席を買った次は、没落貴族の箔でも買うつもりか? 汚らわしい。商人の娘は、やはり市場の泥がお似合いだ」
ヴェンツェルの言葉が、リリアーヌの「成り上がり」という最大のコンプレックスを容赦なく抉った。
リリアーヌの肩が小さく震える。彼女の瞳に、激しい怒りと、それ以上に深い屈辱の火が灯った。
その瞬間――アレンの胸に、凄まじい「熱」が流れ込んできた。
リリアーヌが感じている、煮えくり返るような憤怒。自尊心を切り裂かれた痛みが、契約の回路を暴風のように駆け抜け、アレンの精神を共鳴させた。
(……この女を、馬鹿にするな)
アレン自身が驚くほど、その感情は純粋で、鋭かった。
彼女を否定されることは、今やアレン自身の半分を否定されることに等しかった。
「――ヴェンツェル卿。貴公の言葉は、我が耳に届く前に腐敗しているな」
アレンが静かに一歩前に出た。彼の周囲のマナが、氷のように研ぎ澄まされていく。
それと同時に、リリアーヌもまた、アレンから逆流してきた「冷徹な殺意」を己の魔力に変え、黄金の杖を真っ向から突き出した。
「あら、ご忠告痛み入りますわ。ですが、家柄という古い看板にしか縋れない無能に、私の価値を決められたくはありませんの!」
「「――失せろ」」
二人の声が、一糸乱れぬ完璧な重なり(シンクロ)を見せた。
同時に放たれたのは、アレンの精密な座標固定と、リリアーヌの暴力的な衝撃波。
ヴェンツェルたちの足元の石畳が一瞬で砕け散り、彼らは悲鳴を上げながら後方へと吹き飛ばされた。
静寂が戻った回廊で、アレンとリリアーヌは、自分たちが今「無意識に」協力してしまった事実に気づいた。
「……勘違いするな。僕の不快感を、奴に叩き込んだだけだ」
「私こそ、あんたの不機嫌なマナが邪魔だったから、追い払っただけですわ!」
否定の言葉を口にしながらも、二人の心臓は、まだ同じ激しいリズムで打っていた。
外部からの攻撃が、皮肉にも二人の「日常の亀裂」を繋ぎ合わせ、一つの強固な盾へと変え始めていた。
その様子を、物陰からミーナが静かに手帳に記していた。
『観察記録:外敵の出現により、個としての境界が消失。……これは、恋などという生易しいものではない。共生、あるいは侵食の完成間近なり』




