【第一部:遭遇と生活格差の提示】後編
学院図書館の最奥にある『特別閲覧室』。そこは、アレンとリリアーヌが奪い合ったあの希少本――『マナにおける極小単位の指向性理論』が、ようやく二人への「同時貸出」を許可された場所だった。
しかし、運命はどこまでも二人に対して意地が悪い。
「……おい、ゴールドベルク嬢。先ほどから扉が開かないのだが」
「あら、あんたの細い腕で開かないだけじゃなくて? 貸しなさいな。最新の魔導筋力増強ブレスレットの力で……あら?」
リリアーヌが黄金のブレスレットを輝かせて取っ手を引くが、扉はびくともしない。それどころか、部屋の四隅に設置された石像から不吉な光が漏れ始めた。
『警告、未認可の魔力干渉を確認。防犯用・隔離結界を起動します』
無機質な魔導音声と共に、部屋全体が半透明の膜に覆われた。
「なっ……! 貴様が余計な魔導具を動かしたから、防犯システムが誤作動したではないか!」
「私のせいですって!? あんたが本に妙なマナを流して、独り占めしようとしたからでしょう!」
二人が言い合っている間に、結界は完全に固定された。この特別閲覧室は、外部からの物理・魔導攻撃を一切遮断する設計だ。司書が交代で見回りに来るのは、三時間後である。
「……無様だな。金の力で扉一つ開けられんとは。いいか、下がっていろ。僕が伝統的な『解呪の術式』を組み上げ、この結界の脆弱性を突いてやる」
「三時間も待てませんわ! ベルに連絡すれば、こんな部屋、ゴールドベルク商会の工兵部隊が外から粉砕してくれますわ!」
「馬鹿を言え! この部屋の歴史的価値が分かっているのか! 貴様のような破壊の権化に任せられるか!」
アレンは床に指を這わせ、極小のマナで解呪の糸を紡ぎ始める。リリアーヌは椅子にふんぞり返り、扇子を激しく動かした。
密室。流れるのは気まずい時間。
やがて、アレンの作業があまりに精密(かつ遅い)ため、手持ち無沙汰になったリリアーヌが口を開いた。
「……大体、ヴォルザード家なんて、今はもう領地すら満足に維持できていないのでしょう? なぜそんなに偉そうにできますの?」
「ふん。領地などという土塊ではなく、我が家は数千年の『知恵』を継承している。初代当主は、王宮魔導師団の創設に携わった英雄だ。貴様のような、昨日今日で金を積み上げた家系とは格が違う」
「あら、その英雄様は、子孫が白湯をお茶だと言い張って飲む姿を予想していましたかしら? 我がゴールドベルク家は、この十年の流通革命で、王国の全家庭に魔導具を届けたのですわ。これこそが真の『変革』ですわよ」
互いにそっぽを向きながら、延々と自家の自慢話と相手への侮蔑を重ねる。
アレンが語る「先代の功績」はリリアーヌにとって「カビの生えた昔話」であり、リリアーヌが語る「莫大な資産」はアレンにとって「精神性の欠如したただの数字」だった。
「……あー、もう! あんたの話、一〇〇年前で時が止まっていて退屈ですわ!」
「貴様の話こそ、下俗な帳簿を読み聞かされているようで耳が汚れる!」
二人が激昂し、マナを昂らせたその時――。
アレンが床に描いていた精密な解呪術式が、リリアーヌの「イライラによる魔力放射」を吸い込んで異常発光した。
「あっ、おい! 貴様、マナを散らすなと言っただろう……!」
「きゃあ! 何ですのこれ!?」
アレンの『型』に、リリアーヌの『出力』が無理やり流し込まれる。
直後、部屋を揺らす衝撃と共に、隔離結界が内側から弾け飛んだ。
「…………」
「…………」
開いた扉の先には、ちょうど巡回に来た驚き顔の司書が立っていた。
「……協力したわけではないぞ。貴様が暴発させたエネルギーを、僕が導いてやっただけだ」
「私の魔力が強すぎて、あんたのショボい術式が耐えきれなかっただけですわ!」
本を借りるのも忘れ、二人は互いに「二度とこいつと密室には入らない」と心に誓いながら、逃げるように閲覧室を去った。
その日の夜。
自室で本を読み始めたアレンは、ふと、リリアーヌが自慢げに話していた「最新の流通論」の一節を思い出し、不快そうに眉を寄せた。
「……効率、か。癪だが、あいつの魔力の『勢い』だけは、計算外の加速を生むな」
一方、リリアーヌもまた、アレンの「伝統の誇り」という言葉を反芻していた。
「……格が違う、ね。あんなにボロボロの制服で、どうしてあそこまで言い切れますの……イライラしますわね、本当に!」
密室で交わした言葉の毒は、予想外の形で二人の胸に僅かなトゲを残していた。
◇◇
学園の中庭は、午後の休憩を楽しむ生徒たちで賑わっていた。
アレン・ヴォルザードは、友人であるカイルと共に木陰のベンチに座っていたが、その表情は険しい。
「……カイル、何をした」
「いや、アレン。お前のその、白湯で空腹を紛らわす『精神修行』があまりに過酷だと思ってな。隣のクラスのゴールドベルクさんに、少しだけお前の志を伝えておいたんだ。彼女なら、何か修行の助けになる高価な魔導具でも持っているかと思って……」
「貴様ッ……!」
アレンが絶望に顔を伏せた瞬間、華やかな香水の香りと共に、リリアーヌ・ゴールドベルクが取り巻きを引き連れて現れた。彼女の隣には、面白そうに目を輝かせる友人のミーナがいる。
「おーっほっほ! 聞きましたわよ、アレン様。なんでも、地脈のマナを吸う修行があまりに過酷で、お財布の中身まで空っぽになってしまったんですって?」
「ち、違う! カイル、貴様、何をどう伝えた!」
「本当のことを言ったまでだよ。アレンの家の伝統を守るための苦労を、な」
カイルの無邪気な言葉に、リリアーヌは深く頷き、ベルが差し出した小さな革袋をアレンの前に突き出した。
「ヴォルザード家の誇り高い『修行』が、資金不足で途絶えるのは忍びないですわ。これ、ゴールドベルク家からの『歴史保存基金』として受け取ってくださるかしら?」
ジャラリ、と鈍い音がした。袋の隙間から覗くのは、眩いばかりの金貨。アレンの一年分の生活費を軽く上回る額だ。
周囲の生徒たちの視線が集まる。ミーナが追い打ちをかけるように言った。
「素敵ですわ、リリアーヌ様。これでアレン様も、毎日お湯を飲まずに済みますわね?」
「な……ッ!!」
アレンの脳裏に、凄まじい熱が上った。
彼女たちに悪意がないことは分かっている。純粋な「善意」と「憐れみ」だ。だが、それはアレンにとって、どんな攻撃魔法よりも残酷に、ヴォルザード家の誇りを切り刻む刃だった。
「……ゴールドベルク嬢。その金を、今すぐ引っ込めろ」
「あら、遠慮なさることはなくてよ? 私にとっては端金ですし……」
「引っ込めろと言っている!!」
アレンが吠えた。同時に、彼の周囲のマナが、怒りに呼応して鋭く逆立った。
「僕が守っているのは『歴史』ではない! 今を生きるヴォルザードの『意志』だ! 貴様の施しを受ければ、それは伝統ではなく、ただの『買収された過去』に成り下がる!」
「……なっ、なんですって!? 私は、あんたがあまりに惨めだと言うから……!」
「惨めだと? 貴様こそ惨めだ! 金でしか人の苦労を量れず、他者の矜持を札束で叩き壊すその感性がな!」
アレンは金貨の袋をリリアーヌの足元へ突き返した。
リリアーヌの顔が、今度は屈辱で赤く染まる。彼女の善意が、最悪の形で拒絶されたのだ。
「……もう、知りませんわ! あんたなんて、一生お湯でも飲んで、干からびてしまえばよろしくてよ!」
リリアーヌは踵を返し、激しい足取りで去っていった。
中庭に残されたアレンは、震える拳を握りしめたまま動けない。
「……アレン、悪い。俺はただ……」
「……帰る。今日はもう、限界だ」
その日の夜、ヴォルザード家の古い屋敷。
セバスが差し出したのは、いつも以上に薄い、野草のスープだった。
「坊ちゃま。カイル様からお聞きしました。……よくぞ、お断りになられましたな」
「……ああ。だが、腹は減るな。……泣けるほどに」
プライドを守り抜いた代償は、あまりに重く、空腹となってアレンの身を削る。
一方、ゴールドベルク邸では、リリアーヌが自室の枕を何度も叩いていた。
「あの男……! 私が生まれて初めて、あんなに気を遣って差し上げましたのに……! 二度と、二度と助けてなんてあげませんわ!!」
格差を埋めるはずの「善意」は、二人の間に取り返しのつかない深い溝を刻みつけた。
◇◇
午後の講義中、静まり返った教室に「カタカタ」という不吉な震動音が響き渡った。
音の源は、リリアーヌの机の上に置かれた最新の魔導具『全自動高速筆記くん・三号機』である。それは複数の羽ペンを魔力で駆動させ、教師の板書を寸分違わず写し取るという、ゴールドベルク商会の新製品だった。
「あら? 少しマナの流量が不安定かしら……ベル、調整を――」
リリアーヌが言いかけた瞬間、魔導具の心臓部に過負荷がかかった。
バチバチと火花が散り、制御を失った複数の羽ペンが、まるで生き物のようにのたうち回る。
「きゃっ!? な、何ですのこれ、止まりなさい!」
暴走した魔導具は、周囲に黒いインクを撒き散らしながら、凄まじい勢いでマナを吸収し始めた。近くの席に座っていた生徒たちが、インクの直撃を避けるために一斉に避難する。
「……ふん。マナの伝導経路が雑すぎるのだ。金に物を言わせた試作品など、その程度の信頼性しかない」
数席離れた場所で、アレンはノートを汚さぬよう防御結界を薄く張りながら、冷ややかに言い放った。
「他人事みたいに言わないでくださる!? このままだと、教室中の書類が真っ黒になりますわよ!」
「僕には関係のないことだ。貴様の傲慢さが生んだ汚れは、貴様自身で拭うがいい」
だが、魔導具の暴走は止まらない。吸収されたマナが臨界点に達し、青白い光が膨れ上がっていく。このままでは小規模な魔力爆発が起き、リリアーヌが怪我をしかねない。
「……やれやれ。これだから成金は困る。教育に悪いな」
アレンは溜息をつき、腰の杖をスッと抜いた。
リリアーヌの魔導具は、外側に強固な「金製」の防護殻がある。並の魔法で叩けば、かえって爆発を誘発するだろう。
(……狙うは、動力源と制御核を結ぶ『一ミリの魔導線』のみ)
アレンは全神経を集中させ、極細の魔力弾を練り上げた。それは弾というより、目に見えぬほど細い「針」だ。
インクが舞い、光が明滅する混沌の中、アレンは魔導具の冷却孔という針の穴を通すように、その一撃を放った。
シュン、と小さな風切り音。
直後、狂ったように動いていた羽ペンが力なく垂れ下がり、魔導具の光がすっと消えた。
「…………止まった?」
呆然とするリリアーヌ。教室を埋めていたインクの飛沫も止まり、静寂が戻る。
「……核の連結部を焼き切った。二度と動くことはないが、爆発の心配もない。礼には及ばんよ」
「…………」
リリアーヌは、インクで汚れた自分の手と、涼しい顔で杖を収めるアレンを交互に見た。
助けられた。それも、自分が「古臭い」と馬鹿にしていた、アレンの精密な技術によって。
「……あ、あんた……。勝手なことしないでくださる!? これ、ゴールドベルク商会の最高級プロトタイプなんですのよ! 修理代、どう責任取ってくださるの!?」
「何だと? 貴様の身の安全を確保してやったのだぞ!」
「誰が頼みましたの! お礼に修理費……いえ、あんたのボロ屋敷の修理代くらい出してあげようと思ったのに、そんな態度なら取り消しですわ!」
「貴様ッ……! どこまで人の好意を金で踏みにじれば気が済むのだ!」
感謝の言葉が出るかと思いきや、結局はいつもの罵り合い。
アレンは憤慨して教室を飛び出し、リリアーヌは悔しそうにインクまみれの机を叩いた。
放課後、アレンの自室。
「……セバス。今日、僕はあいつを助けてしまった。……無意識にだ」
「坊ちゃま。それは騎士道精神の顕れ、誇るべきことにございます。……まあ、お礼の修理代をもらい損ねたのは、家計としては痛恨の極みですが」
「うるさい! あいつの金など、死んでも受け取らん!」
アレンの「針」は魔導具を救ったが、二人の心の「棘」は、より深く刺さったままだった。
◇◇
学園のメインストリートである大回廊。その中央で、アレンとリリアーヌは一歩も引かずに睨み合っていた。
発端は、廊下の掲示板に貼り出された実技試験の順位表だ。そこには、二人の名が寸分違わぬ同点で、首位に並んで刻まれていた。
「……気に食わんな。僕の精密な術式が、貴様のような『魔力の垂れ流し』と同じ価値だと評価されるとは、この学園の採点基準を疑うよ」
「こちらのセリフですわ、ヴォルザード様。私の圧倒的な出力に、あんたのチマチマした針仕事が追いついていること自体、集計ミスではなくて?」
これまでの九話分、積み重なってきた不満が臨界点に達していた。
図書館での奪い合い、サロンでの偽装紅茶、購買部でのパン争奪、そして数々の屈辱的な「善意」の押し付け合い。
「大体、あんたのその制服! 廊下ですれ違うたびに、継ぎ接ぎの術式から『貧乏の匂い』がして不快ですわ!」
「……何だと? これは歴史という名の香気だ。貴様の鼻が、最新の香水(成金仕様)で馬鹿になっているだけだろう!」
アレンの指先がピクリと動き、空気中のマナが鋭利な糸となって編み上がる。
対してリリアーヌは、黄金の指輪に魔力を込め、廊下全体の温度が上昇するほどの熱量を溜め込んだ。
「ここらでハッキリさせて差し上げますわ。伝統なんて、金と最新技術の前ではただのゴミだということを!」
「受けて立とう。成金がいかに脆く、そして伝統がいかに強固か、その身に刻んでやる!」
二人の魔力が激突しようとした、その瞬間――。
「……そこまでにしてもらおうか、諸君」
廊下の空気が、一瞬で凍りついた。
人混みを割り、ゆっくりと歩み寄ってきたのは、学園長マグヌスであった。
その穏やかな微笑みとは裏腹に、彼から放たれる威圧感は、アレンとリリアーヌの魔力を瞬時に霧散させるほどに強大だった。
「ヴォルザード君、ゴールドベルクさん。君たちの成績が優秀なのは認めよう。だが、入学以来、君たちが顔を合わせるたびに巻き起こす騒動は、学園の修繕費を著しく圧迫しているのだよ」
「それは……こちらのゴールドベルク嬢が……」
「アレン様が突っかかってくるからですわ!」
学園長は深々と溜息をつき、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「言い訳は不要だ。……そこでだ。君たち二人には、次回の学園行事において、特別な『課題』を課すことにした。もしそこで満足な結果が出せなければ――」
学園長は言葉を切り、二人を交互に見つめた。
「二人揃って『除籍』、という道も検討せねばならんだろうね」
「「…………なっ!!」」
アレンの顔から血の気が引いた。除籍になれば、ヴォルザード家の再興は絶望的だ。
リリアーヌもまた、扇子を握る手が震えている。商会の娘として学園を追われるのは、家柄への最大の泥塗りとなる。
「詳細については、追って通達する。……それまでは精々、仲良く喧嘩しておくことだ」
学園長が去った後、廊下には重苦しい沈黙が流れた。
先ほどまでの勢いはどこへやら、二人は互いに視線を合わせることもできず、ただ立ち尽くしていた。
「……おい、ゴールドベルク嬢」
「……何かしら、ヴォルザード様」
「貴様と組むくらいなら、僕は……」
「私もですわ。死んでも御免ですわよ」
吐き捨てるような言葉とは裏腹に、二人の胸にはかつてない「背水の陣」の予感が、暗い影を落としていた。
日常は終わりを告げ、物語は新たな局面へと動き出す。
……はずだったが。
「……ふん。まずは今日の夕食をどうするかだ。除籍になる前に飢え死にしては意味がないからな」
「あら、私は最新の魔導ダイエットを始めるだけですわ。……ベル、帰りますわよ!」
結局、二人のいがみ合いは止まらない。
だが、その火花の中に、これまでとは違う「運命」の響きが混じり始めていた。




