【第一部:遭遇と生活格差の提示】中編
本日の実技演習は『対人歩法・魔法回避』。
狭い演習場内で無数に放たれる低出力の魔力弾を、最小限の動きで回避し続ける訓練だ。
アレン・ヴォルザードは、その場の中央で、まるで舞うような無駄のない動きを見せていた。
彼の制服は、数世代前から受け継がれた骨董品だ。本来ならとっくにボロボロのはずだが、アレンが全神経を集中させて維持している『繊維固定魔法』と『表面光沢コーティング』により、一見すると新品のような輝きを放っている。
しかし、その魔法は激しい動きに弱い。一歩踏み込むたびに、背中の合わせ目や脇の下の術式が悲鳴を上げていた。
(……くっ、これ以上の急加速は術式が保たない。だが、ここで足を止めれば『貧乏ゆえの整備不良』を晒すことになる……!)
アレンの額に薄く汗が滲む。
その隣で、リリアーヌ・ゴールドベルクは対照的に、一歩も動かずにいた。
「おーっほっほ! 泥臭く避け回るなんて、非効率極まりないですわ!」
彼女が纏うのは、最新の『自動回避・障壁一体型魔導ドレス』。魔力弾が接近するたびに、ドレスの裾に仕込まれたスラスターが火を噴き、彼女を物理的に「横滑り」させて回避させる。
リリアーヌは扇子で顔を仰ぎながら、優雅にアレンを眺めていた。
「あら、アレン様。随分と……ぎこちない動きですこと。もしかして、その制服、動くと破けてしまうのかしら?」
「……馬鹿なことを。これは『不動の美学』に基づいた最小制御だ。貴様のように機械に踊らされる趣味はない」
その直後、教官が魔力弾の速度を上げた。
アレンの足元に、鋭い一撃が迫る。彼は反射的に大きく跳躍した――が、その瞬間に「ピリッ」という不吉な音が背後から響いた。
(しまっ……! 背中の固定術式が剥がれた!)
アレンは着地と同時に、不自然なほど直立不動の姿勢を取った。今、少しでも前屈みになれば、背中が真っ二つに裂けてしまう。
そんな彼の窮地を、リリアーヌは見逃さなかった。
「……あら? 今、何か嫌な音がしませんでした? ヴォルザード様、ちょっと背中を見せてくださらない?」
「断る! 僕の背後は、信頼に値する者にしか見せん!」
アレンは必死にマナを背中に回し、応急処置で布を繋ぎ止めようとする。だが、追い打ちをかけるように、リリアーヌのドレスに異変が起きた。
『警告、魔力供給過多による同期不全――』
機械的な音声と共に、リリアーヌのドレスの姿勢制御機能が暴走した。
ドレスがリリアーヌの意志を無視し、右へ左へと超高速で彼女を振り回し始める。
「ちょ、ちょっと! 止まりなさい! 止まってと言っているでしょう、この高価なガラクタ……きゃああっ!」
「ゴールドベルク嬢!? ……ふん、自業自得だな。金で買った安全など、その程度の信頼性だ」
アレンは助けようと一歩踏み出しかけたが、背中の「パキパキ」という繊維の断裂音がそれを止めた。
今、彼が彼女を助けに走れば、アレンの制服は全生徒の前で完全に崩壊する。それは死よりも辛い屈辱だ。
「……助けなさいよ! ヴォルザード様、あんた魔法だけは得意でしょう!」
「あいにくだが、僕は『背中を向けるな』という教えを受けていてね! 今の貴様を助けられるのは、その高価な修理代を出せる貴様自身だけだ!」
アレンは背中を壁に押し付けたまま、冷徹(を装った必死の形相)で言い放つ。
結局、リリアーヌは壁に衝突する寸前でベルが投げ込んだ停止用スクロールによって救出され、アレンは壁に背中を擦り付けたカニ歩きで演習場を後にした。
放課後、アレンの自室。
「……セバス。背中が裂けた。一刻も早く、再固定を」
「承知いたしました、坊ちゃま。しかし、あのまま助けに行っていれば、リリアーヌ様との仲も……」
「黙れ! 僕は、僕の誇り(と制服の耐久力)を守り抜いただけだ!」
一方、ゴールドベルク邸では、リリアーヌが最新のドレスを床に投げ捨てていた。
「なによ、あの男! 私が振り回されているのを、壁に張り付いて見てるだけなんて! 絶対に、絶対に屈服させてやるんですから!」
お互いに「助けない」のではなく「助けられる余裕などなかった」という事実に気づかぬまま、二人の溝はさらに深まっていく。
◇◇
学園の広大な庭園の片隅、人目に付かない生垣の影で、アレン・ヴォルザードは魔力を研ぎ澄ませていた。
彼の指先から放たれるのは、不可視の鋭利な魔力糸。それが庭木の余分な枝を、まるで熟練の職人が鋏を入れるように、音もなく、寸分の狂いもなく切り落としていく。
(……良し。この一帯を終えれば、今週の食費にボーナスが出る。この『剪定魔法』の精密さこそ、ヴォルザード家の執念の結晶だ)
アレンは家計を助けるため、管理人の老魔術師から内職として庭園の維持を請け負っていた。貴族の令息としてはあるまじき行為だが、背に腹は代えられない。
だが、その静かな「密業」を、不快な高笑いが踏みにじった。
「あら。そんな地味な作業に時間を費やすなんて、ヴォルザード様はよほどお暇なんですのね?」
現れたのは、日傘を回しながら優雅に歩くリリアーヌ・ゴールドベルクだった。
アレンは心臓が跳ね上がるのを必死に抑え、平然を装って指先を止めた。
「……何をしている、ゴールドベルク嬢。僕はただ、植物のバイオリズムを調整する高等訓練をしているだけだ」
「あら、ただの庭仕事にしか見えませんでしたわ。そもそも、そんな『糸』で一本ずつ切るなんて非効率極まりないですわ。ベル、あれを出しなさい!」
ベルが取り出したのは、最新の『自律型広域剪定魔導具』。魔法の刃を四方に展開し、一瞬で周囲の植物を整えるという高価な機械だ。
「これなら一分で終わりますわ。アレン様も、その『高等訓練』とやらを私の機械で学んでみては?」
「貴様……! 植物の個体差も無視して機械に頼るなど、庭園への冒涜だ! 下がれ、僕の構築したマナの循環を乱すな!」
「何ですって? 私の親切を無碍にするなんて! 起動しなさい、ベル!」
リリアーヌが強引に魔導具を起動させた。
高速回転する魔法の刃が、アレンが精密に制御していた魔力糸の領域に突っ込む。
「っ……! 術式が絡み合う! 離せ、ゴールドベルク嬢!」
「嫌ですわ! 効率を見せつけて差し上げます……きゃっ、何これ、止まらないわ!?」
アレンの極細の魔力糸が、暴走気味の魔導具の歯車に複雑に絡みついた。
精密な『静』の魔法と、暴力的な『動』の魔導具。相反する二つの力が、逃げ場を失って庭木の中で臨界点に達する。
「まずい、爆散するぞ! ……くっ、マナを再構成する! リリアーヌ、そっちの出力を絞れ!」
「無理よ、制御が効かないわ! あんたの糸がネチネチ巻き付くからでしょう!」
直後、庭園の一角で、眩い閃光とともに奇妙な魔力の爆発が起きた。
土煙が晴れた後、そこにあったのは――。
枝一本一本が幾何学的な結晶状に固まり、なぜか七色に発光する、この世のものとは思えない前衛的なオブジェと化した庭木だった。
「…………」
「…………」
呆然とする二人の前に、管理人の老魔術師が血相を変えて飛んできた。
「貴様らぁ……! わしの手塩にかけた庭を、何という姿に……ッ!!」
その日の放課後。
アレンとリリアーヌは、並んで庭園の掃除(魔法禁止)という罰を与えられていた。
「……最悪だ。報酬どころか、賠償金が発生するところだった」
「私のせいにしないでくださる? あんたの魔法が変な形に固まったのが原因ですわ」
腰をさすりながら愚痴るアレンと、ドレスの裾が汚れたと憤慨するリリアーヌ。
遠くで見守るセバスとベルは、同時に深い溜息をついた。
「坊ちゃま、本日の夕食ですが……賠償が免除された代わりに、あのアバンギャルドな庭木の『副産物』である、光る実になります」
「お嬢様、本日の分の剪定予算は、清掃用具の購入費に消えました」
二人の日常は、今日もまた、予定外の「共同作業」で幕を閉じるのであった。
◇◇
学園広場での合同演習『大規模障壁維持訓練』が終了した直後、演習場には疲弊しきった生徒たちの喘ぎ声が満ちていた。
数時間に及ぶ絶え間ない魔力消費は、多くの生徒から活力を奪い、重度の魔力欠乏症――すなわち、激しい眩暈と、底なしの空腹感をもたらしていた。
「……ふぅ。少々、マナを練りすぎたな」
アレン・ヴォルザードは、震える膝を気合で抑え、涼しい顔をしてベンチに座っていた。
だが、その視界はチカチカと火花が散り、隣で揺れる木の葉が「薄くスライスしたライム」に見え始めている。
本来なら即座に魔力回復ポーションを服用すべき事態だが、一本数千銅貨もする代物は、アレンの家計には存在しない。
(……耐えるのだ。ヴォルザードの家訓には、地脈の呼吸と同期し、宇宙から直接マナを摂取する奥義がある……。嘘だが)
アレンが薄れゆく意識の中で必死に「瞑想」という名の我慢を続けていると、目の前で「ジャバジャバ」という景気の良い音が響いた。
「あー、疲れましたわ。マナを使いすぎると、お肌が乾燥して敵いませんわね」
リリアーヌ・ゴールドベルクだった。
彼女は、最高級の魔力回復薬――一本でアレンの一ヶ月の食費が飛ぶ『青霊の涙』――の栓を抜くと、それを飲むのではなく、惜しげもなく自分の顔や腕に振りかけ始めた。
「なっ……貴様……! 何を……何をしているのだ!」
アレンが驚愕のあまり目を見開く。
リリアーヌは不思議そうに小首を傾げ、濡れた肌を高級なハンカチで拭った。
「あら、見て分かりませんの? 保湿ですわ。高濃度のマナは、お肌のターンオーバーを助けますのよ。アレン様も、その……ひどく粉を吹いたような顔色になさって。これ、一本余りましたから、差し上げてもよろしくてよ?」
リリアーヌが、飲みかけ(といっても彼女にとっては「使い残し」)のポーションを無造作に差し出す。
その瓶から漂う、芳醇なマナの香りがアレンの理性を激しく揺さぶった。それを一滴啜るだけで、この眩暈も空腹も霧散するだろう。
だが。
「……断る。没落したとはいえ、僕はヴォルザードの当主だ。女性が肌を整えた『残りカス』を啜るほど、誇りを捨ててはいない」
「残りカスとは失礼な! 善意で差し上げていますのよ?」
「ふん、成金の善意など、毒を盛られるのと同義だ。僕はこうして瞑想し、星々の運行からマナを汲み上げている。貴様のような、瓶詰めの液体に頼る軟弱者とは鍛錬の格が違うのだよ」
アレンはそう言い放ち、スッと目を閉じた。
実際には、地面から上がってくる熱気で「焼き立てのパン」の幻覚が強まり、喉が鳴るのを必死に堪えているだけだ。
「……ふーん。そう。なら、いいですわ。ベル、これ、捨ててしまいなさい」
「かしこまりました、お嬢様」
ベルがポーションの瓶を傾ける。
鮮やかな青色の液体が、無情にも地面の土に吸い込まれていく。
(あああああああああああああああああッ!!)
アレンの心の中で、絶叫が木霊した。
だが、表向きの彼は、あくまで高潔な修行者の顔を崩さない。
「あら、アレン様。耳まで真っ赤ですわよ? もしかして、本当は飲みたかったのかしら?」
「……笑わせるな。マナが……マナが大地に還る、その慈愛の光景に感動しているだけだ……!」
結局、アレンは限界まで意地を張り続け、リリアーヌが去った後、空腹のあまり立ち上がれなくなった。
日没後、暗くなった演習場で、ようやく迎えに来たセバスに背負われるアレンの姿があった。
「坊ちゃま……地脈からマナを吸う修行も結構ですが、せめてメイド殿が差し出した時にお受けになればよろしかったのに」
「うるさい……。僕は……ヴォルザードの……誇りを……(ぐぅぅ〜)」
「はいはい。今夜は、ポーションの飛沫を浴びて元気になった『庭の雑草のサラダ』にいたしましょう」
二人の日常。
それは、一方が贅を尽くし、一方が命がけで意地を張る、平行線のワルツであった。




