【第四部:学園の年中行事】後編
学園祭の準備期間、校庭には溢れんばかりの露店が立ち並んでいた。
アレンは予算管理の合間、最も安価で腹持ちの良い『揚げパンの耳・砂糖まみれ』を一つ買い、中庭の隅で静かに食していた。一袋わずか一〇〇銅貨。これぞ庶民、もとい没落貴族の賢い選択だ。
(……サクサクとした食感。そしてこの、脳を直接殴るような安っぽい甘み。素晴らしい)
アレンが至福の表情で咀嚼した、その瞬間。
契約の回路を通じて、頭の中に「雷鳴」のような衝撃が走った。
「っ……!? この、鼻に抜ける暴力的なまでの脂の匂いと……安価な糖分の奔流は、何ですの!?」
テラス席で最高級の『貴婦人のミルフィーユ』を口に運んでいたリリアーヌが、突然フォークを放り出して立ち上がった。
彼女の舌の上に、覚えのない『安くて脂っこいが、強烈に美味いジャンクフード』の感覚が、契約の回路を通って湧き出してきたのだ。
「ぺっ、ぺっ! 何ですのこれ!? ベル、毒よ! 私の口の中に、誰かが『一〇〇銅貨の味』を流し込んできましたわ!」
「それは僕の唯一の楽しみだ、ゴールドベルク嬢ッ!!」
怒髪天を衝く勢いでアレンがテラスに現れた。彼はリリアーヌの豪華な皿を指差す。
「貴様……! そんな、一口で僕の三日分の食費が飛ぶような甘ったるいものを食うな! 僕の胃が、貴様の贅沢のせいで痙攣を起こしているではないか!」
「あんたこそ、何というものを食べていますの!? 胃が……胃がもたれますわ! 掃除して三日目の油の味がしますわよ!」
アレンはリリアーヌの「高級スイーツの重厚な甘さ」に胃もたれし、リリアーヌはアレンの「揚げパンの耳」の病みつきになるジャンクな旨さに脳を揺さぶられる。
一方が食事をすれば、もう一方がその感覚を強制共有させられる地獄。
「……もう、見てられませんわ。ベル、あのお方の口の中に、この特製ハーブティーを無理やり流し込みなさいな! 私の味覚を浄化するために!」
「な、何を……っ、むぐぅ!?」
ベルによって強引に注ぎ込まれた冷たい飲み物は、アレンの喉を潤すと同時に、リリアーヌの口内の「一〇〇銅貨の残滓」を洗い流した。
「……ふぅ。……これ、いくらだ」
「あんたの家の年収くらいですわ。……お礼なら、二度とその辺の脂の塊を食べないことで返してくださる?」
「……誰が、二度と貴様の舌などに……っ」
結局、二人の不本意な「味の共有」は、互いの食生活をリアルタイムで監視し合うという、奇妙で険悪な連帯感を生むことになった。
学園祭を翌日に控え、クラスの出し物である『魔法迷宮』の設営は佳境を迎えていた。
アレンが構築した「五感を惑わす精密な重力術式」と、リリアーヌが配置した「過剰な光と音を放つ魔導具」が、不気味なほど完璧に噛み合い、もはや一つの生命体のような威容を誇っている。
そこへ、伝統派の重鎮、グラハム教授が音もなく現れた。
彼は迷宮の入り口から漏れ出すマナを鋭い一瞥で検分すると、教壇を叩くような厳しい声を張り上げた。
「……アレン・ヴォルザード。これは一体、何の真似だ」
アレンの背中に、冷たい汗が伝わる。グラハム教授の目は、アレンが最も誇る「伝統的術式の純度」を見定める審判の目だ。
「……学園祭の出し物として、迷宮を構築しております。何か問題でも」
「大いに問題だ。君の術式は、かつてないほど強固だが……あまりに汚れている。ゴールドベルク嬢の、あの荒ぶる成金のマナが、ヴォルザードの精密な術式の中に『澱』のように混じり込んでいるではないか」
グラハム教授は、アレンの描いた空間固定の術式を指差した。
そこには、契約の同調によってリリアーヌの「欲望」や「出力」が混入し、伝統的な均衡が崩れ、代わりにより凶暴で、得体の知れない「強さ」が宿っていた。
「伝統とは、研ぎ澄まされた一点の輝きだ。……今の君は、金に魂を売って魔法の純度を捨てた、ただの壊れた時計のようだ」
アレンは屈辱に震えた。最も尊敬すべき伝統の番人に、その伝統を汚したと断じられたのだ。
否定したくとも、共感覚のせいでリリアーヌの「ご機嫌なマナ」が自分の回路に混じっているのを、アレン自身が一番痛感していた。
「あら、グラハム教授。汚れているだなんて、失礼ですわ」
横から、リリアーヌが割って入った。彼女は傲慢に胸を張り、黄金の杖を教授へ向けた。
「アレン様の魔法は、確かに細すぎて頼りなかったですわ。だから私が、ゴールドベルク商会に相応しい『極上の輝き』を足して差し上げたのです。……これを進化と呼ばずして、何と呼びますの?」
「……黙りなさい、ゴールドベルク嬢。君の傲慢さが、彼の才能を腐らせているのだ」
教授の厳しい言葉がリリアーヌを突き放す。
アレンは、リリアーヌの内心から溢れ出した「自分の価値を否定された痛み」を、共感覚の回路を通じて自分のものとして受け取ってしまった。
(……この女が、不器用なりに僕を庇おうとしただと……?)
アレンは無言で一歩前に出ると、教授の眼前に立ちはだかった。
「……教授。……確かに今の僕の術式は、伝統的な美しさからは遠ざかったかもしれません。ですが、これは『故障』ではありません。……未知の領域への、不本意な拡張です」
アレンの反論に、教授は眉を寄せ、リリアーヌは驚きに目を見開いた。
二人のマナが、教授の威圧感に抗うように、迷宮の奥底で一段と強く、不協和音の輝きを放つ。
「……ふん。ならば、その『不本意な拡張』が、明日の祭りで破綻しないか、見届けさせてもらおう。失格の判断は、まだ保留にしておく」
教授が去った後、演習場には気まずい沈黙が流れた。
「……アレン様。あんた、今さら私を庇うなんて、気持ち悪いですわよ」
「……勘違いするな。僕の術式の価値を、貴様のせいにされては心外だと言っただけだ」
互いに顔を背けるが、契約の回路を通して、二人の鼓動は少しだけ、戦いに備える同じ熱を帯びていた。
マグヌス祭当日の午前。他校からの視察団や上位貴族の招待客で賑わう中、アレンとリリアーヌは「魔法迷宮」の受付に立たされていた。
そこへ、煌びやかな刺繍の入った外套を羽織った、他校のエリート生徒たちが嘲笑を浮かべて近づいてきた。
「……おや、これは驚いた。ヴォルザード男爵家の嫡男が、看板娘の真似事とは。落ちぶれた伝統も、今や成金商会の客寄せパンダというわけか」
視察団のリーダー格、エドワードがアレンの継ぎ接ぎだらけの制服を指差し、周囲と肩を揺らした。
「エドワード様、おっしゃる通りです。それに隣の娘……ゴールドベルク商会の娘でしたか? 魔法は金で買えても、品格だけは卸売市場には並んでいないようですね」
彼らはアレンの「没落」とリリアーヌの「出自」を、まるで自分たちの優越感を確認するための肴のように弄んだ。
アレンの指先が、怒りで白くなるほどに震えた。
だが、それ以上に凄まじい衝撃が、契約の回路を通してアレンの胸に突き刺さった。
(……っ!? 何だ、この心臓が握り潰されるような「痛み」は……!)
それは、リリアーヌの絶望だった。
彼女がいかに金で武装しようとも、決して拭えない「成り上がり」への劣等感。それが最も無礼な形で暴かれた瞬間、彼女の誇りが砕ける音が、アレンの脳内で直接響いたのだ。
いつもなら高笑いで返すはずのリリアーヌが、一言も返せず、ただ青ざめて俯いている。
「…………貴様ら」
アレンが静かに一歩前に出た。彼の周囲のマナが、氷点下の静寂を伴って研ぎ澄まされていく。
「何だ、ヴォルザード。貧乏人の遠吠えでも聞かせてくれるのか?」
「……我が家の没落を笑うのは勝手だ。だが、……この女の立ち位置を、貴様らのような『ただ生まれただけの凡庸』に汚されるのは、我慢ならん」
アレンの瞳に、冷徹な殺意が宿った。
その瞬間、アレンの「守護」の意志が契約を逆流し、リリアーヌの凍りついたマナに火をつけた。
「あら。……そうですわね。ヴォルザード様の仰る通りですわ」
リリアーヌが顔を上げた。その碧眼には、アレンの殺意を燃料にした、黄金の炎が燃え盛っていた。
「私の品格を心配してくださるなんて、随分とお暇なのですわね。……その余裕、私たちの『地獄』で、一瞬でも保てるかしら?」
「「――入れ」」
二人の声が、一ミリの狂いもなく重なった。
アレンが迷宮の入り口の座標を強制的に拡張し、リリアーヌが爆発的な魔力でエドワードたちを迷宮の奥底へと「吸い込んだ」。
悲鳴を上げる間もなく、無礼な招待客たちは、アレンの精密な罠とリリアーヌの暴力的な演出が待ち構える、本物の地獄へと消えていった。
「…………ふん。僕の迷宮を汚した罰だ」
「……そうですわ。あんたを馬鹿にできるのは、世界で私だけですもの」
互いに顔を背けるが、契約の回路を通して、二人の怒りは一つの勝利感へと溶け合っていた。
二人の「守るべき場所」は、もはや己の誇りだけではなくなっていた。
学園祭初日の喧騒が去り、静まり返った夜の演習場。
冷たい夜風が吹き抜ける中、アレンとリリアーヌは明日の「祝砲魔法」の最終調整のために居残っていた。街の灯りが遠くに見えるこの場所で、二人の間には重苦しい沈黙が横たわっている。
数週間に及ぶ強行軍と、契約による感覚共有。
アレンの身体には、リリアーヌの蓄積された疲労が重い鉛のようにのしかかり、リリアーヌの脳裏には、アレンの魔力枯渇による鋭い頭痛が反響していた。
(……くっ、術式が、滲む……)
アレンが杖を構え直した瞬間、共感覚の回路を暴風のような「負の感情」が駆け抜けた。
それはリリアーヌの怒りではなかった。アレン自身の心の奥底、普段は鉄の誇りで封印している――「失敗への恐怖」だ。自分がここで退学になれば、数百年続いた家名は途絶え、老いたセバスは行き場を失う。その絶望的なまでの重圧が、リンクを通じてリリアーヌの中に泥足で踏み込んでいく。
「……っ、あんた……! どんな重いものを背負っていますの……! 息が、詰まりますわ……!」
リリアーヌが胸を押さえて喘ぐ。
同時にアレンも、彼女の「内側」に突き当たった。
傲慢な高笑いの裏側に隠された、剥き出しの孤独。金でしか自分を定義できず、結果を出し続けなければ「商売道具」として家から見捨てられるという、震えるような怯え。彼女が最新魔導具で自分を塗り固めるのは、素肌のままでは誰にも認められないという恐怖の裏返しだった。
「…………貴様も、安らぎとは無縁のようだな、ゴールドベルク嬢」
アレンの低く掠れた声に、リリアーヌは顔を上げなかった。
互いの醜いほどの必死さが、共感覚の鎖を通じて暴かれている。もはや取り繕う余地などなかった。
アレンは、リリアーヌがなぜ自分を「時代の敗者」と呼びたがるのかを理解した。そう呼ばなければ、自分の足元にある「金という名の砂城」が崩れてしまうからだ。リリアーヌもまた、アレンの「誇り」が、もはやそれしか残されていない者の、血を吐くような執念であることを知った。
「……あんたのその、湿っぽくて暗い執念。……反吐が出ますけれど、嫌いではありませんわ」
「……貴様の、騒がしいまでの虚勢。……その熱量だけは、僕の冷えたマナを動かす燃料にはなる」
二人は向き合わない。ただ隣り合い、夜の闇を見つめたまま、杖を掲げた。
言葉による歩み寄りはない。だが、回路を通じて伝わる「痛み」が、いまや最高精度の照準へと変わっていた。
「……合わせろ。貴様の恐怖を、僕の術式で固定してやる」
「……勝手なことを。あんたの絶望ごと、私が焼き切って差し上げますわ!」
二人のマナが、夜空の一点を目指して上昇していく。
これまでの力ずくの反発ではない。互いの欠落を認め、それを埋めるための、不本意で、かつ必然的な同調。
放たれた一撃は、爆音さえも美しい和音へと変え、真夜中の空に巨大な白銀の花を咲かせた。
「……明日、失敗したら、今度こそ殺しますわよ、ヴォルザード様」
「……貴様こそ、僕の背中に泥を塗るな。……行くぞ、ゴールドベルク嬢」
別々の方向へと歩き出す二人の手首で、鎖の紋章が微かに、温かい光を帯びていた。
日常の終わり、そして本当の戦いへの幕が上がる。




