「僕はロマンチックは嫌いだけど、ロマンに欠けすぎるのが一番嫌いなんだよ」
城の騒ぎも落ち着き、夜の空気が静かになった頃だった。
喫茶店「ローズ」の裏手にある細い路地裏で、エドワードは壁にもたれながらタバコを吸っていた。
火のついた先端が、暗闇の中で小さく赤く光る。
「……」
エドワードは何も言わず、ゆっくりと煙を吐き出した。
そこへ、控えめな足音が近づいてくる。
「こんなところにいたのね」
エドワードは振り返らなかった。
「何だ」
声だけで、誰なのか分かっているようだった。
レティシアはエドワードから少し離れた場所に立った。
「少しくらい話してもいいでしょう?」
「勝手にしろ」
相変わらず愛想のない返事だった。
レティシアは小さく笑うと、路地裏の壁に背を預けた。
少しの沈黙が流れる。
「私ね、嬉しかったのよ?」
エドワードの眉が、わずかに動いた。
「……何が」
「ほら、私、喫茶店がやりたいって言ってたじゃない」
レティシアは、少し懐かしそうに笑った。
「名前も決めててね」
エドワードはタバコを指に挟んだまま、横目で彼女を見る。
レティシアは続けた。
「まさか、ここで使ってくれるとは思わなかったわ」
少し間を置いて。
「喫茶店ローズって」
エドワードの表情が止まった。
レティシアは、からかうように笑うでもなく、ただ静かに彼を見ていた。
「あなたが、あの名前を使ってくれたこと」
「……」
「私は、ちゃんと嬉しかったのよ」
エドワードは何も答えなかった。
タバコの灰が、静かに地面へ落ちる。
「別に」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「別に、君のために付けた名前じゃない」
「ええ。そうでしょうね」
あっさり返されて、エドワードは少しだけ眉をひそめた。
「分かってるわよ」
レティシアは穏やかに笑った。
「あなたは昔から、そういう人だったもの」
「……どういう意味だい?」
「素直じゃないって意味」
「余計なお世話だよ」
レティシアはくすっと笑った。
エドワードは新しくタバコを吸い、目を細める。
「……あの頃、君は本気だったの?」
「何が?」
「喫茶店だ」
レティシアは少し驚いたように目を瞬かせた。
まさかエドワードの方から、その話を聞いてくるとは思わなかったのだろう。
「ええ。本気だったわ」
「ふん」
「大きな店じゃなくてもよかったの。みんなが適当に入ってきて、好きなものを飲んで、好きなことを話して」
レティシアは少し遠くを見る。
「そういう場所が欲しかったのよ」
「……」
「名前だけは、ずっと決めてたの」
「ローズ」
「そう」
レティシアは頷いた。
「あなた、覚えてたのね」
「忘れてた」
「嘘」
即答だった。
エドワードは露骨に嫌そうな顔をした。
「うるさい」
「ふふ」
レティシアは、しばらく笑っていた。
しかし、その笑い声もやがて静かになる。
「ありがとう、エドワード」
「礼を言われる筋合いはない」
「それでもよ」
エドワードは返事をしなかった。
レティシアの言葉を否定することもなく、ただ路地裏の奥へ視線を向けていた。
「……店を見たでしょ」
「ええ」
「あれでよかったの?」
その言葉に、レティシアは目を見開いた。
エドワードは彼女を見なかった。
「君がやりたかった喫茶店とは、随分違うだろう」
レティシアは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「違わないわ」
「は?」
「私がやりたかったことと」
レティシアは、柔らかく微笑んだ。
「あなたが作った喫茶店は、全然違わない」
エドワードの手が、わずかに止まる。
「ローズには、いろんな人がいるのでしょう?」
「……まあね」
「みんな勝手で、騒がしくて、問題ばかり起こして」
「おい」
「でも、誰かが帰ってくる場所になってる」
レティシアは静かに続けた。
「それが喫茶店ローズなのでしょう?」
エドワードは、何も言えなかった。
少ししてから、短く息を吐く。
「……くだらないよ」
「そうかしら?」
「感傷に浸るな。似合わないよ」
「あなたに言われたくないわ」
「俺は浸ってない」
「じゃあ、どうして路地裏で一人でタバコを吸ってるの?」
「うるさい」
レティシアはまた笑った。
エドワードは顔をしかめながら、タバコを携帯灰皿へ押し込む。
そして、レティシアの横を通り過ぎた。
「……エドワード」
呼び止められ、彼は足を止める。
「何だ」
「本当に、ありがとう」
今度は少しだけ間があった。
エドワードは背を向けたまま答える。
「……勝手に喜んでろ」
それだけ言って、彼は路地裏を出て行った。
レティシアは、その背中を見送る。
そして誰もいなくなった路地裏で、小さく呟いた。
「本当に、昔から変わらないんだから」
喫茶店「ローズ」。
その名前には、レティシアがかつて思い描いた、小さな願いが残っていた。
そして今、その名前の下には、エドワードが守ってきた人たちがいる。




