「もう、終わったんだ」
ヴァレンティア王国の騒乱が終わった夜。
城の地下にある牢獄は、地上の祝祭とはまるで別世界だった。石造りの壁に囲まれた薄暗い通路には、人の気配もほとんどない。
その最奥。
ルクレツィアは鉄格子の向こうに閉じ込められていた。
かつては伯爵令嬢として美しく着飾り、誰よりも高い場所へ行こうとしていた女。今の彼女には、その面影がほとんど残っていなかった。
ルクレツィアは壁に背を向け、何かをぶつぶつと呟いている。
「……アーサー」
返事はない。
「アーサーなら……」
その名を口にした瞬間だけ、彼女の目に奇妙な光が宿った。
「アーサーなら、分かるはずよ……」
また、ぶつぶつと何かを呟く。
「私を……ここから……」
鉄格子の外から、足音が近づいてきた。
ゆっくりとした、落ち着いた足音。
ルクレツィアは顔を上げた。
「……セリオ?」
そこに立っていたのは、セリオだった。
彼は牢の前まで歩いてくると、黙ってルクレツィアを見つめた。
「セリオ……」
ルクレツィアは鉄格子へ近づく。
「私を出して。これは何かの間違いよ」
セリオは答えない。
「聞いてるの!? 私は伯爵令嬢よ! こんな場所に閉じ込められるような人間じゃ――」
「ルクレツィア」
その声に、彼女が止まった。
セリオの表情は静かだった。
怒りもない。
悲しみもない。
ただ、何かを完全に諦めたような目をしていた。
「もう、終わったんだ」
「……何がよ」
「全部だよ」
ルクレツィアの顔から表情が消える。
「君のことは、もう僕にはどうにもできない」
「何よ、それ」
「これ以上、君を庇う理由もない」
「セリオ……」
「国を傷つけて、人を利用して、アレクシアたちまで巻き込んだ」
セリオは一度、目を伏せた。
「僕はもう君を見捨てようと思うんだ」
その言葉は静かだった。
だからこそ、ルクレツィアには強く突き刺さった。
「……は?」
「もう、君のために何かをするつもりはない」
「待ってよ」
セリオが踵を返す。
「待ちなさいよ!」
ルクレツィアが鉄格子を掴んだ。
「セリオ!」
だが、セリオは振り返らなかった。
「アーサーがいる」
その言葉に、セリオの足が止まった。
牢の中から、ルクレツィアが低い声で笑う。
「そうよ……アーサーがいるわ」
セリオは振り返らない。
「あなたたちが何も知らないだけよ。あの人は……」
ルクレツィアの声が、暗い牢獄に響く。
「アーサーなら、きっと――」
その先を聞くことなく、セリオは歩き出した。
地下牢を出る扉が閉まる。
重い音が響いた。
再び、一人になったルクレツィアは、その場に立ち尽くしていた。
そして。
誰もいない壁へ向かって、また小さく呟き始める。
「……アーサー」
一方、その頃、遠く離れた場所。
白いローブを纏った一人の老人が、静かな部屋で座っていた。
白く長いウェーブの髪。
深い黒の瞳。
片目には、いつものモノクル。
穏やかで優しそうな老人の顔には、薄い笑みが浮かんでいる。
「……そう」
アーサーは、静かに呟いた。
「アレクシアは、ヴァレンティア王国にいたんだね」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「ずいぶん、探したよ」
アーサーはゆっくりと立ち上がる。
「ようやく見つけられるかもしれない」
穏やかな笑みは、消えない。
「アレクシア」
その名前を、何度も確かめるように口にした。
「今度こそ、ちゃんと迎えに行かないとね」
白いローブが静かに揺れる。
こうして、ヴァレンティア王国の騒乱は終わった。
しかし同時に。
アレクシアたちが、かつて逃げ出した男の影が、再び彼女たちへ近づき始めていた。




