「だから……ここでお別れ」
ルクレツィアを拘束した兵士たちは、そのまま彼女を連れていこうとしていた。
しかし、ルクレツィアは最後まで抵抗をやめなかった。
「離しなさい! こんなこと、全部あの女のせいよ!」
彼女はアレクシアを睨みつける。
「あなたが現れなければ……! あなたさえいなければ、私はセリオ様と――!」
アレクシアは何も言わず、静かに見返した。
セリオはそんなルクレツィアを一度見たあと、兵士たちへ向き直る。
「悪いけど、後は頼んだよ」
兵士たちは一斉に姿勢を正した。
「はっ!」
「待ちなさい!アレクシア!あなた、覚えておきなさいよ!」
ルクレツィアは連れていかれながらも、なおアレクシアへ恨み言を投げ続けていた。
やがて足音が遠ざかり、扉が閉まる。
静寂が戻った。
残されたのは、セリオとアレクシアの二人だけだった。
アレクシアは大きく息を吐いた。
「はぁ……。まさかの秘宝が薔薇の種なんてね」
セリオは棚に並ぶ種を眺めながら、少しだけ笑う。
「がっかりした?」
「全く」
アレクシアも笑った。
「けど、予想外って感じ」
「僕も最初に知ったときは驚いたよ」
「でしょうね」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
長い逃走と騒動の中で、ようやく心から笑える瞬間だった。
しばらくして、アレクシアがセリオを見る。
「セリオ」
「ん?」
「あなたには、まだ別の仕事があるんじゃない?」
セリオは少し考えた。
「……そうだね」
「国民に伝える仕事。もうルクレツィアの支配はないって。きっと、みんな不安になってるでしょうから」
セリオの表情が引き締まる。
「そうだね。大事な仕事だ」
王子として、自分にできること。
逃げ続けるのではなく、今度は自分から国民の前に立つ。
セリオは静かに頷いた。
「行ってくるよ」
「ええ」
アレクシアは微笑んだ。
「ちゃんと、王子様らしくね」
「……それ、僕に言う?」
「言うわよ」
「分かった。頑張ってみる」
二人はまた笑った。
そしてセリオは、扉の向こうへ歩き出した。
長かった騒動は、ようやく終わろうとしていた。
ヴァレンティア王国の中央広場には、国民たちが集まっていた。
長く続いた混乱が終わったことを知らせるため、セリオは王宮の前に立っていた。
ざわめいていた広場が、セリオの姿を認めた瞬間、静かになる。
「みんな、聞いてほしい」
セリオの声が広場に響いた。
「もう、この国をルクレツィアの思い通りにはさせない。これからは、僕自身が王子として、この国と国民を守る」
その言葉に、最初は静かだった人々から、少しずつ声が上がっていく。
「セリオ様!」
「王子様が戻ってきたぞ!」
「よかった……本当によかった!」
やがて広場は歓声に包まれた。
セリオは一人ひとりの顔を見渡しながら、何度も頷いた。
その姿を、少し離れた場所からアレクシアたちは見ていた。
エドワードも、アルフレッドも、アンナたちも、誰も口を挟まない。
アレクシアだけが、じっとセリオを見つめていた。
王子として国民の前に立ち、堂々と言葉を届けるセリオ。
先ほどまで自分たちと一緒に逃げていた青年とは、少し違って見えた。
「……」
アレクシアは静かに視線を逸らした。
胸の奥に、これ以上認めたくない感情が膨らんでいく。
これ以上、ここにいたら。
本当に、好きになってしまう。
そう思った。
「……みんな」
アレクシアは振り返った。
「先に車に乗って」
「アレクシア?」
アルフレッドが首を傾げる。
「帰るわよ」
そう言って、アレクシアは一人で歩き出した。
セリオの演説を最後まで見届けたかった。
けれど、それ以上に、自分の気持ちが大きくなることが怖かった。
そのときだった。
壇上にいたセリオが、ふとこちらへ目を向けた。
人々の間から、去っていくアレクシアの姿が見える。
「……アレクシア?」
セリオは言葉を区切った。
「みんな、今日は本当にありがとう。これから、この国をもっと良くしていく。約束する」
そして、深く頭を下げた。
国民から再び大きな歓声が上がる。
セリオはその声を背に、壇上から降りた。
そして、アレクシアたちのもとへ駆け出した。
「アレクシア! 待ってくれ!」
「……!」
呼ばれたアレクシアが振り返る。
セリオは息を切らしながら駆け寄り、そのままアレクシアの腕を掴んだ。
「どうして急に帰ろうとするんだ?」
「……別に。私たちの仕事は終わったからよ」
アレクシアは目を合わせない。
するとセリオは、少しだけ笑った。
「君達のおかげで国が救われたんだ!」
そして、そのままアレクシアを抱きしめた。
「ありがとう」
アレクシアの目が大きく見開かれる。
「……!」
一瞬、何も考えられなくなった。
本当は、自分も抱きしめ返したい。
その腕に自分の手を回して、このまま離れたくない。
けれど――。
アレクシアは、動かなかった。
ただ、セリオの腕の中で静かに立っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……悪いけど、私には私なりの仕事があるの」
セリオが少しだけ腕を緩める。
「仕事?」
「喫茶店の店長っていう仕事がね」
アレクシアはようやくセリオを見る。
「私には、帰る場所があるの」
セリオは黙って彼女を見つめた。
そして、何かを決意したように口を開く。
「ならば、僕も――」
「だめ」
即答だった。
セリオが目を丸くする。
「……まだ何も言ってないよ?」
「分かるわよ」
アレクシアは小さく笑った。
「あなたは王子様でしょう」
そう言って、セリオから一歩離れる。
「あなたには、あなたの仕事があるの」
セリオは何も言えなかった。
アレクシアはその顔を見るのが辛くなり、視線を逸らした。
「だから……ここでお別れ」
その言葉とは裏腹に、アレクシアの胸の中には、まだセリオへの想いが残っていた。
アレクシアは車へ向かいかけた足を止めた。
そして振り返り、まだ自分を見つめているセリオに向かって、少しだけ口元を緩める。
「ルミナリア王国にね、喫茶店ローズって喫茶店があるの」
セリオが静かに顔を上げた。
「来てくれたら、サービスぐらいはしてあげるわ」
その言葉に、セリオは一瞬だけ目を見開いた。
「……うん」
短い返事だった。
けれど、その声はどこか嬉しそうだった。
アレクシアは何も言わず、自分の髪を束ねていた黒いリボンへ手を伸ばした。するりとリボンを解くと、長い髪が肩へと落ちる。
セリオはその様子を、黙って見ていた。
「アレクシア?」
アレクシアは答えず、セリオの手を取った。
そして、その手首に黒いリボンを巻いていく。
一度。もう一度。
ほどけないように、丁寧に結んだ。
「……これ」
セリオが自分の手首を見る。
黒いリボンが、そこに残されていた。
「サービスの前払いよ」
アレクシアはそう言って笑った。
「次に来た時、返しに来なさい」
セリオは黒いリボンに触れた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……分かった」
その表情には、先ほどまでの寂しさとは違うものがあった。
「絶対に行くよ」
「ええ。待ってるわ」
アレクシアはそう答えると、今度こそ車の方へ向かって歩き出した。
セリオは追いかけなかった。
ただ、その場に立ったまま、黒いリボンが巻かれた自分の手首を見つめていた。
そして、遠ざかっていくアレクシアの背中を、最後まで見送った。
彼女は一度も振り返らなかった。
けれど、セリオは知っていた。
もうこれで終わりではない。
次は自分が、彼女のいる場所を訪ねればいい。
ルミナリア王国。喫茶店ローズ。
そこには、自分を待つかもしれない一人の女性がいる。
セリオは手首の黒いリボンをそっと握りしめた。
車がヴァレンティア王国の城下町を抜け、国境へ向かう道を走っていた。
運転席のアルフレッドは、前方を見たまま、ふと思い出したように口を開いた。
「エド兄、アレクシア。二人ともヴァレンティア王国に残っててもよかったんだよ?」
アレクシアが窓の外を見たまま、少しだけ眉を動かす。
後部座席の空気が、一瞬静かになった。
エドワードは即答した。
「バカ言うな」
その声には迷いがなかった。
「僕らの帰る場所は、ローズだろ」
アルフレッドがちらりと横を見る。
「でもさ。エド兄はレティシアと再会したし。アレクシアは――」
「それ以上言ったら、車から放り出すわよ」
アレクシアが鋭く言った。
「はいはい。怖い怖い」
アルフレッドは楽しそうに笑う。
エドワードは窓の外を眺めたまま続けた。
「それに、僕がいなくなったらローズの安全管理はどうするんだよ」
「アンナが困っちゃうしね〜」
「それもある」
「オスカーさんも、きっと心配になります」
アンナがそう言うと、少し離れた席にいたオスカーが小さく頷いた。
「……はい。アレクシア様がいなくなるのは、困ります」
アレクシアは一瞬だけオスカーを見る。
「オスカー」
「……はい」
「厨房、ちゃんと守ってる?」
「も、もちろんです……!」
その返事に、アレクシアは小さく笑った。
アルフレッドがハンドルを切る。
「ほらね。結局、みんな帰る場所があるんだよ」
エドワードは少しだけ口元を緩めた。
「そういうこと」
「僕らは王子様や騎士団長じゃないからね〜」
「お前は何をしていたってうるさいだろ」
「ひどいなぁ」
車内に小さな笑いが起こる。
アレクシアは再び窓の外へ視線を戻した。
ヴァレンティア王国は、少しずつ遠ざかっていく。
そして、あの城も、セリオの姿も。
けれど、アレクシアはもう振り返らなかった。
「……ローズに帰ったら忙しいわよ」
「店、休んでる間の仕事が溜まってるだろうしね」
「そういうこと。さっさと帰りなさい」
「はいはい、店長」
アルフレッドはアクセルを踏み込んだ。
車は進む。
喫茶店「ローズ」という、彼らの帰る場所へ向かって。




