「赤いバラが好き」
二人は城内の廊下を進んでいた。追っ手を警戒しながらも、先ほどまでの緊迫した空気はほんの少しだけ和らいでいる。セリオは隣を歩くアレクシアを見て、ふと思い出したように口を開いた。
「それで、さっきの答えだけど……好きなバラは?」
アレクシアは少し考えてから、素っ気なく答えた。
「赤いバラが好き」
「君っぽいね」
セリオが微笑む。
アレクシアは横目で彼を見る。
「嫌味?」
「まさか」
セリオは穏やかに笑った。
「綺麗だと思っただけだよ」
「……そう」
アレクシアはそれ以上何も言わなかったが、ほんの少しだけ頬が緩んだ。
その直後、セリオは彼女の手を取った。
「こっち」
「え?」
「ちょっと寄りたいところがあるんだ」
セリオはアレクシアの手を引き、廊下の奥にある扉へ向かった。周囲を確認してから鍵を開け、二人で中へ入る。
扉が閉じる。
そこは、外の城内とは雰囲気の違う部屋だった。
室内には棚がいくつも並び、それぞれに小さな容器や袋が整然と収められている。容器には種類ごとの名前が記され、温度や湿度を管理するための設備も設置されていた。
アレクシアは部屋を見回した。
「ここは?」
セリオは棚の一つへ歩み寄る。
「ここはね、薔薇の種を管理している専用の部屋だよ」
「薔薇の種……?」
「そう。ヴァレンティアでは昔から薔薇の栽培が盛んでね。王家が管理している品種もあるんだ」
セリオは棚に並んだ種を眺めながら続けた。
「ここなら、しばらく隠れていられると思う」
アレクシアは部屋の中をもう一度見回した。
そして、赤い薔薇の名前が書かれた小さな容器を見つける。
「……本当に、薔薇ばっかりね」
「気に入った?」
「ええ。少しだけ」
セリオは嬉しそうに笑った。
「それなら、ここへ来てよかった」
「……どうして?」
「君が赤いバラが好きだって聞いたから」
アレクシアは一瞬、言葉を失った。
「……あなた、こんな状況でもそういうこと考えてたの?」
「うん」
「変な王子様ね」
「そうかもしれない」
二人は顔を見合わせる。
そして、静かな種子管理室の中で、ほんの一瞬だけ穏やかな時間が流れた。
薔薇の種を管理する部屋に、突然、荒々しい足音が響いた。
アレクシアとセリオが振り返る。
扉が勢いよく開かれた。
「やっと追いついたわ……」
そこに立っていたのは、ルクレツィアだった。
髪は乱れ、呼吸も荒い。それでも、その目だけは執念深く二人を捉えている。
セリオは深いため息をついた。
「ルクレツィア……」
そして、もう逃げることを諦めたように肩を落とす。
「はぁ……。もういいや」
アレクシアが隣でセリオを見る。
セリオは静かにルクレツィアを見据えた。
「ハッキリ言うよ」
「……何を?」
セリオは部屋を見回し、それから棚に並ぶ無数の種へ視線を向けた。
「ここが、ヴァレンティア王国の秘宝だよ」
「…………は?」
ルクレツィアの表情が固まった。
「嘘よ……」
「本当だよ」
セリオは淡々と答える。
「ヴァレンティア王家が代々守ってきたもの。それは、この国で受け継がれてきた薔薇の種そのものなんだ」
ルクレツィアの瞳が大きく見開かれる。
「そんな……」
「王家だけが管理している特殊な品種もある。だから、ここは厳重に管理されている」
「嘘……嘘よ!」
ルクレツィアの声が震え始める。
「そんなものが……秘宝ですって?」
次の瞬間。
「ふざけないでぇぇぇぇぇっ!!」
絶叫が部屋中に響き渡った。
ルクレツィアは棚へ駆け寄ろうとする。
「私が欲しかったのは、こんな……こんな種じゃない!」
そのとき、外から兵士たちが駆け込んできた。
「ルクレツィア様!」
「確保しろ!」
兵士たちがルクレツィアを取り押さえる。
「離しなさい! 私はこの国の――!」
「もう終わりです、ルクレツィア様」
その言葉に、ルクレツィアが激しく抵抗する。
しかし、兵士たちは彼女をそのまま拘束した。
そして、一人の兵士がルクレツィアの顔を見て、息を呑んだ。
「……え?」
別の兵士も目を見開く。
「待て……この顔……」
アレクシアも驚いたようにルクレツィアを見る。
これまで彼女が人前で見せていた、美しく整った顔立ちは、もうどこにもなかった。
長い間張り詰めていた緊張と激しい感情によって、化粧も崩れ、その素顔が露わになっている。
そこにあったのは、これまでの美貌からは想像もつかないほど老いて見える、険しく歪んだ顔だった。
まるで別人だった。
「……これが、ルクレツィア様……?」
兵士たちの間に動揺が広がる。
ルクレツィアは自分の顔を隠そうとする。
「見るな……!」
しかし、もう遅かった。
セリオは何も言わず、ただ静かに彼女を見つめていた。
アレクシアはセリオの隣に立ったまま、静かに息を吐く。
ようやく、長かった騒動に終わりが見え始めていた。
そしてセリオは、棚に並ぶ薔薇の種へ視線を向ける。
この国が守ってきた本当の秘宝。
それは、権力でも金でもなかった。
長い年月をかけて受け継がれてきた、小さな種だった。




