「好きなバラってある?」
ルクレツィアの顔から、完全に余裕が消えた。
「……渡さない?」
その言葉を噛み締めるように、彼女はアレクシアを睨みつける。
「あなたが、私にそんなことを言うの?」
「言うわよ」
アレクシアは一歩も退かなかった。
「セリオは物じゃない。誰かの都合で手に入れたり、渡したりするものじゃないでしょう」
「綺麗事を……!」
ルクレツィアが声を荒らげる。
「この国で権力を握るには、綺麗事だけでは足りないのよ!私はここまで来たの!セリオ様との結婚も、王家の秘宝も、全部私が手に入れる!」
「だからって、セリオの意思を無視していい理由にはならない」
セリオが静かに言った。
ルクレツィアが振り向く。
「……あなたまで」
「僕はもう、君の言いなりにはならない」
セリオの声には、これまでにない強さがあった。
「僕は王子として、この国を守る。そして、自分の人生も自分で決める」
「黙りなさい!」
ルクレツィアが叫んだ。
その声に、セリオは一瞬だけ目を伏せる。
だが、すぐに顔を上げた。
「嫌だ」
短い言葉だった。
ルクレツィアが息を呑む。
「僕は君とは結婚しない」
「……!」
「何度でも言う。僕は、君の望みのために自分を差し出すつもりはない」
アレクシアは隣に立つセリオを見つめた。
その横顔には、王子としての覚悟がはっきりと浮かんでいる。
ルクレツィアはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「そう……。なら、仕方ないわね」
その言葉に、セリオの表情が険しくなる。
「何をするつもりだ」
「簡単なことよ」
ルクレツィアは二人を見据える。
「あなたが私のところへ戻ってくるまで、私は何度でも追う。それだけ」
「諦める気はないのね」
アレクシアが言う。
「ええ。絶対に」
ルクレツィアは踵を返した。
だが、その直後だった。
遠くから複数の足音が聞こえてきた。
ルクレツィアの表情が変わる。
「……来たわね」
セリオが振り返る。
街道の向こうから、兵士たちがこちらへ向かってくる。
アレクシアが小さく息を吐いた。
「また走ることになりそうね」
「……そのようだね」
セリオは苦笑する。
そして、自然な動作でアレクシアの手を取った。
今度も、指を絡めたまま。
「行こう、アレクシア」
「ええ」
二人は同時に走り出した。
その背中を見つめながら、ルクレツィアは拳を握り締める。
「……セリオ様は、私のものよ」
しかし、その声は二人にはもう届かなかった。
二人は街道を走っていた。背後からは兵士たちの足音が迫っている。けれど、セリオはなぜか少しだけ考え込んでいた。
そして突然、繋いだ手を握ったままアレクシアへ顔を向ける。
「アレクシア、聞きたいことがあるんだ!」
「何よ?」
「好きなバラってある?」
アレクシアは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……は?」
「好きなバラ。色とか、種類とか」
「この状況で何聞いてるのよ!」
アレクシアは思わず声を上げた。
「今、私たち追われてるのよ!? どうして急にバラの話になるの!?」
「いや、その……」
セリオは走りながら困ったように笑う。
「聞いておきたかったんだ」
「だからって今じゃないでしょう!」
「……すまない」
セリオは素直に謝った。
アレクシアは呆れたように彼を見る。
「もう……」
それでも、繋いだ手は離さなかった。
その二人の後方では、ルクレツィアが歩いていた。
走ってはいない。
ただ、二人の姿を見失わないように、一定の速度で歩き続けている。
その顔からは、かつての優雅さも理性的な雰囲気も消えていた。
ただ、セリオとアレクシアだけを見つめている。
「……バラですって?」
低い声が漏れる。
「そんな話をしている場合じゃないでしょう……」
彼女の瞳は異様なほど鋭く、完全に冷静さを失っていた。
「セリオ様……」
口元だけが、ゆっくりと歪む。
「あなたは、私から逃げられないわ」
そのままルクレツィアは、二人の後を追い続けた。
一方、前を走るアレクシアは、ふとセリオを見る。
「……で?」
「え?」
「好きなバラを聞いて、どうするつもりだったの?」
セリオは少しだけ黙った。
「それは……全部終わってから話すよ」
「またそれ?」
「今度こそ約束する」
「……分かったわ」
アレクシアは小さく笑った。
「じゃあ、ちゃんと覚えておきなさい」
「うん」
二人は再び前を向く。
その先には、仲間たちが待っている。
そしてセリオは、まだ言葉にできていない想いを胸に抱えたまま、アレクシアの手を握り続けていた。




