「……そんなに期待されると、ちょっと緊張するな」
アレクシアは、隣を走るセリオをちらりと見た。先ほどまで張り詰めていた表情には、ほんの少しだけ余裕が戻っている。
「ふふっ。セリオの話、楽しみ」
「……そんなに期待されると、ちょっと緊張するな」
セリオは苦笑した。
「別に、そんな大した話じゃないよ」
「そうかしら?」
「うん。たぶん、君が思っているほど面白い話では――」
「私が決めることよ」
アレクシアはそう言って、少しだけ笑った。
セリオもつられるように笑う。
「……そうだったね。君には敵わないな」
「今さら気づいたの?」
二人の間に、ほんの少しだけ穏やかな空気が戻った。
だが、その直後だった。
城の方角から、激しい足音が響く。
「いたぞ!」
「庭だ!」
セリオの表情が引き締まる。
「……話は後だね」
「ええ。まずは逃げないと」
二人は再び走り出した。
小さな門が近づいてくる。
セリオが門へ手を伸ばした、その瞬間――。
「待て!」
背後から兵士の声が響いた。
セリオはアレクシアの手を握る。
「走るよ!」
「もちろん!」
二人は門を抜け、城の外へと飛び出した。
城門を抜けた二人は、そのまま街へ続く道を走っていた。背後からはまだ兵士たちの声が聞こえている。けれど、城壁から距離を取るにつれて、その声は少しずつ遠ざかっていった。
ふと、アレクシアは自分の手元に視線を落とした。
いつの間にか、セリオと繋いでいた手が、指を絡めるような形になっている。
いわゆる恋人繋ぎになっていた。
「……」
アレクシアは一瞬だけ目を丸くした。
けれど、手を離そうとはしなかった。
隣を走るセリオも気づいたらしい。ちらりと手元を見て、それからアレクシアを見る。
「……ごめん。いつの間にか」
「別に」
アレクシアは前を向いたまま答えた。
「今はこのほうが走りやすいでしょう?」
「そうだね」
セリオは微笑んだ。
二人はそのまま、手を繋いで走り続けた。
一方、城内では。
「……逃げられたですって?」
ルクレツィアは報告を聞くなり、苛立たしげに眉を寄せた。
「はい。殿下とあの娘は、城外へ脱出したものと思われます」
「……役立たずね」
冷たい声が落ちる。
ルクレツィアにとって、セリオを手に入れることは単なる恋愛の問題ではなかった。
王子との婚姻。
それによって得られる、この国における確固たる立場。
そして、ヴァレンティア王家に代々伝わる秘宝。
どちらも、彼女にとって欲しいものだった。
「王子の妻という立場も……秘宝も……」
ルクレツィアは静かに呟く。
「どちらも私のものになるはずだったのに」
その瞳には、もはや先ほどまでの余裕はなかった。
「セリオ様には、私と結婚してもらう。そして――ヴァレンティアの秘宝も手に入れる」
彼女は窓の外へ視線を向ける。
城下へ続く道の先。
そこには、逃げていったセリオたちの姿はもう見えない。
「……絶対に逃がさないわ」
ルクレツィアは、ゆっくりと口元を歪めた。
城から十分に離れたところで、二人はようやく足を止めた。セリオは肩で息をしながら、背後にそびえるヴァレンティア城を振り返る。
「やっと城から出れた……」
その声には、長い間張り詰めていた緊張がようやく解けたような安堵が滲んでいた。
アレクシアも息を整えながら、隣に立つ。
「本当にね。あれだけ走らされるとは思わなかったわ」
「僕もだよ。こんな形で城を抜け出すことになるなんて、思ってもいなかった」
セリオは苦笑した。
そして、ふと自分の手を見る。
まだアレクシアの手を握ったままだった。
「……あ」
「何?」
「いや……」
セリオは少し照れたように笑う。
「まだ繋いだままだったなって」
アレクシアも手元を見る。
指を絡めたままの二人の手。
「……嫌なの?」
「まさか」
セリオは即答した。
「むしろ、このままがいい」
アレクシアは少しだけ目を細める。
「そう」
それ以上は何も言わなかった。
ただ、手を離すこともしなかった。
セリオはそんなアレクシアを見て、穏やかに笑った。
「……ありがとう」
「何が?」
「僕を助けに来てくれたこと」
アレクシアは少し考えてから、前を向く。
「まだ助け終わってないでしょう?」
「そうだったね」
「あなたを連れ戻して、みんなのところへ帰るまでが今回の仕事よ」
「じゃあ、最後まで頼らせてもらおうかな」
「ええ。好きなだけどうぞ」
セリオはその言葉に、嬉しそうに笑った。
二人は再び歩き出す。
今度は追っ手から逃げるためではない。
仲間たちの待つ場所へ帰るために、並んで歩いていった。
セリオは、少しだけ歩調を緩めた。城から離れたとはいえ、まだ周囲を警戒している。それでも、先ほどから心に決めていたことを話すつもりだった。
「それじゃ……その。君に話さなきゃいけないことは……」
セリオがアレクシアへ向き直る。
アレクシアも足を止め、彼の言葉を待った。
その瞬間だった。
「――そこまでよ!」
鋭い声が、静かな街道に響き渡った。
二人が振り返る。
そこには、ルクレツィアが立っていた。
「……ルクレツィア」
セリオの表情から、穏やかさが消える。
ルクレツィアは息を切らしながら二人を睨みつけていた。いつもの優雅な笑みは、もうどこにもない。
これまで彼女が人前で作り上げていた、美しく上品な貴婦人という仮面は完全に剥がれていた。
怒りに歪んだ顔、吊り上がった目、固く噛み締められた唇。
整った容貌そのものが醜く見えるほど、表情には激しい執念と苛立ちが浮かんでいた。
アレクシアは思わず眉をひそめる。
「……随分と余裕がなくなったじゃない」
「黙りなさい!」
ルクレツィアが叫ぶ。
「あなたさえ現れなければ……! セリオ様は私のものだった!」
セリオはアレクシアの前へ出る。
「ルクレツィア。もう終わりにしよう」
「終わり?」
ルクレツィアは笑った。
しかし、その笑い声には以前の優雅さなど微塵もなかった。
「何を勝手なことを言っているの? 私はまだ何も手に入れていないのよ」
「……何?」
「王子の妻という立場も。この国を動かす権力も。そして――王家の秘宝も」
セリオの顔が険しくなる。
「やっぱり、それが目的だったのか」
「もちろんよ」
ルクレツィアは一歩、二人へ近づく。
「セリオ様との結婚さえ成立すれば、私は王家に最も近い場所へ行ける。そして秘宝を手に入れれば――」
「僕は、君のためにそんなものを渡すつもりはない」
「だったら、渡させるまでよ」
ルクレツィアの瞳が冷たく光った。
セリオはアレクシアの手を握り直す。
「……アレクシア。下がって」
「嫌よ」
「危険だから」
「あなた一人にするほうが危険でしょう」
セリオは一瞬、言葉を失った。
アレクシアはルクレツィアをまっすぐ見据える。
「それに――」
その声は静かだった。
「あなたにセリオを渡すつもりなんて、最初からないもの」
ルクレツィアの顔が、さらに醜く歪んだ。




